あなたの幸せをただ願う

 拓馬君の死には、葬式すら行われなかった。

 榊原家といえば、けっこう有名で、お父さんは会社を経営していて、お母さんは女優をやっているらしい。そんな二人から生まれた、人形のように美しい双子なんだから、世間は注目していた。確か、お兄さんの瑠衣君は、モデルとしてスカウトを受けていたんだそう。

 一方の拓馬君は、そうでもなかった。メディアに取り上げられるのは、その美麗さではなくて、その賢さだ。きっと有名大学の医学部にでも入るか、兄の代わりに会社を継ぐか、なんて話は出ていた。

 そんな二人が、私(アタシ)と同じ高校に通っていた。もちろん、瑠衣君はあんまり登校してこなかったんだけど、拓馬君は毎日学校に来ていた。偶然にも、同じ新聞部に所属していたから──拓馬君曰く、勉強に集中できるならどこでも良かったらしい──私は拓馬君と出会った。

 人馴れしてない彼が可愛らしくって、私は彼に近づいた。皆は彼のブランドに引け目を感じていたのだけど、私にとってはただの可愛い後輩。頭が良くて、おどおどしてて、でも、どこか芯がブレなくて、私はそんな彼が大好きだった。

 ゲームを教えた。漫画を教えた。アニメを教えた。榊原家がそれを求めているかは分からないけれど、生きていない顔で勉強をしている彼が、見ていて辛かったから。彼に笑ってほしかったから。

 私は、彼がいったいどんな人生を歩んできて、どんな思いで私と付き合っていてくれたか、知ることは無かった。

 八月の晦、彼は首を吊って死んだ。

 学校側には、事故死だと伝えられた。だから、たいして仲良くもしてなかった人たちが、その不遇さを嘆いて涙を流した。世間は、榊原夫妻の不幸さをピックアップして、妻が泣いているシーンをアップにして盛り上げた。瑠衣君は仕事に専念して、学校に来なくなった。

 私はなんとなく、置いていかれたような気がした。泣きも笑いもしなかった。呆然としていた。魂が抜けたようだった。あの、下手くそな薄笑いはもう見られないんだな、と、ただそればかりを考えていた。

 あっという間に時は過ぎ、私は彼の死を悼む暇も無く専門学校を受験して、極普通に成人した。極普通の独身女性だった。男性との出会いも無いし、高校生のときと変わらないまま、オタクだし、可愛げも無いし。社畜になってからは、拓馬君との日々なんて思い出す時間も少なくなっていった。

 それでも、ふとしたとき、私は人混みの中に、拓馬君を見たような気がした。彼は人混みの中で、独りで蹲って泣いていた。私は彼の泣き顔なんて、一度も見たことが無かったのに。

「ねぇ、拓馬君、どうして泣いているの?」

 私がそう問いかけると、決まって彼はこう答えた。

「僕がいないと、瑠衣が──」

 彼がいなくなって十年目、一通の手紙が届いた。差出人は、榊原瑠衣だった。

 その頃になると、瑠衣君は芸能界を引退して、一般女性と交際を始めていた。会社を継ごうとしている、と書いてあった。

──そんなことは、どうでも良いのです。

 細く整った文字で、彼は、彼自身の身の上を、どうでも良い、と書き捨てた。

──拓馬と過ごしてくれて、ありがとうございました。彼は、中学生の頃から、重い鬱病を発症していたのです。榊原家当主は、その事実を隠そうとしていました。

 手紙を持つ手が震えた。喉が言うことを効かなくなって、あ、あ、と言葉にならない声を漏らしていた。

 朝寝坊の多かった拓馬君。いつも眠たそうだった拓馬君。笑顔の下手だった拓馬君。

──私は、彼の代わりに、父の意向を酌むことにしました。それゆえに、私は彼を疎かにしてしまいました。

 学校に来なかった瑠衣君。私の世界で、いつも泣いていた拓馬君。

 全てのピースがゆっくり繋ぎ合って、あの一文に繋がった。

──榊原拓馬の死は、隠蔽されました。彼の本当の死因は、首を吊ったことによる自殺でした。

 紙を持ったまま、私は崩れ落ちた。それから、わああああぁ、と意味の分からないことを叫んだ。

 たった四ヶ月の付き合いだった。たった四ヶ月しか彼には会わなかった。たった四ヶ月分しか彼を知らなかった。

 あと一年早く出会っていたら、彼の自殺を止められたかもしれない。あと三年早く出会っていたら、彼が鬱病にならなかったかもしれない。あと五年早く出会っていたら、きっと、最低な親から引き剥がしてあげられたかもしれない。

 かもしれない。かもしれない。かもしれない。無数の後悔が私を押しつぶして、涙の海に溺れさせた。いっそこのまま沈んで死んでしまいたかった。

 それでも、私は薄情だから、結局十年も生きた。男の人に拓馬君を重ねることも無く。瑠衣君に返事を書くことも無く。自分の趣味に打ちこんで。その証拠に、私は趣味が合う男の人と付き合っていた。体だって重ねた。結婚はしなかった。いつしか、泣き崩れる拓馬君の姿も見なくなった。

 爛れた日常を切り裂くようにして、私は再び彼に会ったのだ。



 彼氏とは別れた。残念ながら、意見が全く合わなかった。私は聞いてもらいたくて、彼は話したくて。五年も付き合っていたから、その喪失感といったら途轍も無かった。

 空虚さは私を、海へと誘う。私は海が大好きだった。いつか、その深海に身を浮かべ、ぷかぷかと浮かんで、疲れ果てたら水を呑みこんで、沈んでいきたい。塩辛い海水が、私を水底へと葬ってくれるから。

 夜の海岸には人一人いなかった。サーファーも、熱いアベックも、誰もいない。見上げた夜空が綺麗で、明日から仕事か、行きたくないな、なんてぼんやりと考えながら、一人砂浜を歩いていた。スマートフォンの電源も切って、誰にも邪魔されないように、たった独りでお散歩。気が向いたなら、靴を脱いで、水際に歩いていく。

 一歩ずつ踏み入れていくうちに、嗚呼、死んでも良いかな、なんて思ってしまって、私は海へと呼ばれていく。恋に破れた人魚姫のように、泡になってしまいたくて──その手を、強く引かれた。

 体が強張って、振り返ると、筋肉が攣ってしまいそうだった。そこには、幽鬼のような見た目をした、美しい人が立っていた。性別も年も分からない。丁字茶色の長い髪に、紅の三白眼。薄い唇を動かして、その人はこう呟いた。

「奏、さん……?」

 凍ったまま動かないのに、私の目からは熱い水が流れ出す。豆腐屋のラッパのような、夕方に流れる放送のような、カセットから流れてくる間延びした音声のような、そんな声だった。いつ聞いたかも、どんなものだったかも覚えていないのに、聞けばすぐに思い出す。

 私は動かないまま、すっかり背丈の高くなった彼を、じっと見上げていた。

「拓馬君……どうして……」

 私はきっと、幽霊にでも出会ったのだろう。そう思いたかったのに、足元を攫う水は痛いほど冷たかった。

 わけも分からないまま、私は彼を強く抱きしめた。水から逃れて、棒立ちになる彼を包みこんだ。拓馬君は、私に残った記憶と相違無いくらいに細かった。

 目の前にいるのは、拓馬君なのだ。首を吊った彼と同じか、違うか、そんなのは分からない。それでも、あの日後悔した私が蘇ってきて、彼にしがみついた。

「もう、何も言わずに、どこかに行かないで……」

 拓馬君は何も答えなかった。代わりに私の背中を優しく撫でた。その手がひんやりとしていて、彼の感覚をしっかり刻みこんでくれた。

 それから、私たちは互いのことを語り合った。拓馬君は、私の知る拓馬君ではないこと。私は、拓馬君の知る私ではないこと。私が拓馬君を失ったように、拓馬君も私を失っていた。

 お揃いだね、と笑った。拓馬君は笑い返してはくれなかった。下手な笑顔の一つも無かった。それは悲しいことだったけれど、でも、たぶんそれが本当の拓馬君なんだろう。私が知ることができなかった、本当の拓馬君なんだ。

 彼は私の話を聞くと、頼み事があるんだ、と言った。

──僕と、付き合ってください。

 少しも照れないで、かといって、少しも堂々としていなくて。まるで私に怯えるような口調に、私は悲しくなった。

 それでも良い。今度こそ、私は彼を幸せにしてみせる。死んでしまう前に会えたんだから、絶対に止めてみせる。夜空の紺に透けて消えていってしまいそうだった拓馬君の手を強く握った。

 そうして、私は四輪目の司書となった。拓馬君の正体が人形でも、彼が不思議な図書館を経営していても、そこに人間はいなくても、別に構わなかった。彼は、人助けが好きなんだ、と自嘲する。それなら、私は隣で拓馬君を支えよう。独りで蹲って泣いていた、もう一人の拓馬君のために。助けられなかった、贖罪のために。

 私たちは、榊原拓馬と榊原奏は、シオンとカトレアになった。「君を忘れない」なんて花言葉を、誰に向けているかなんて知っている──それは私じゃない。けれど、私が救いたかったのだって、シオン君じゃない。

「狡いよね、私。きっと、そっちの世界の奏に怒られちゃう」

「狡くないさ。僕こそ、きっとそちらの物語の僕に憎まれてしまう」

 番を失った者同士、寄り添って生きていこう。その過去を忘却して、糧にして、二人で幸せになろう。婚約指輪を交換して、私たちはまるで夫婦みたいに笑い合う。シオン君は元々そちらの世界の私と結婚していたし、私だって別の男の人と付き合っていたから、イーブンだ。

 しかし、握った手は、いくら握ってもするりと抜けていく。拓馬君はいつもそうだ、独りでどこかに行ってしまうんだ。それが、私は悲しくって仕方無いのに。

「……どちら様?」

 結んだポニーテールを揺らして、妖艶に微笑む人。顔はシオン君なのに、シオン君じゃない。

 シオン君が私に怯えていた理由が、分かったような気がした。



「……というわけでな。此奴には三つの重い持病がある」

 そう言うと、「拓馬君でない何か」は三本指を立ててみせた。挑発的に片目を細めて、優美なワインレッドが光る。

 私は緊張して俯いたまま、膝の上で手を合わせた。

「一つ目は、鬱病。これは、奏さんも知っていると思う。此奴は中学生の頃からずっとこれを抱えていてな、寛解はしたが再発している」

「それは……私が死んだから、ですか?」

「それもあるし、俺を殺したこともある。それはまたあとで話すさ」

 「俺」が誰かは知っている。それは拓馬君にとって命より大切な人。恋人とは一線を画した、全く別の存在。

「二つ目は、ナルコレプシー。こればっかりは、俺にもよく分からない。此奴独特の症状だな。こちらは難治性だから、上手く付き合っていってほしい」

「……うん、それは大丈夫です。でも、何より……」

「そう。三つ目は、解離性同一性障害」

 解離性同一性障害は、ときに多重人格とも呼ばれる。アニメでしか聞いたことの無い病気だった。拓馬君の中に、もう一人の誰かがいる。そして、私はその誰かを知っている。

「改めまして、自己紹介しよう。俺は、榊原瑠衣。拓馬の副人格であり、双子の兄です」

 「拓馬君ではない何か」こそ、彼のお兄さんだった。

 話によると、私と出会った拓馬君は、瑠衣君を殺したんだそうだ。理由は深くは教えてくれなかったけれど、とにかく、彼が望んで殺したわけではなかったそうだ。だから、ずっとずっと後悔していた。そういうとき、昔の拓馬君を思い出す──どこか遠くを見ていて、虚ろな目をしていた様を。

 瑠衣君は「シオン」という名前にあやかって、ハルジオンと名乗ることにした。ハルジオン君のことは、ツバキさんもクロッカスさんも知っているみたいで、シオン君同様に尊敬されていた。私はそんな彼を、シオン君のようには愛せなかった。

 私と瑠衣君はそんなに関わったことなんて無いし、本当の瑠衣君には奥さんだっている。彼はずっと学校にはいなかったから、その本性なんて知らない。それでも、同じ「榊原拓馬」として接さなくてはならなかった。

 敬語は抜けないし、よそよそしさは変わらない。きっとハルジオン君も肩が狭い思いをしていたのだろう。シオン君と同じ部屋で寝た翌日に、目を醒ましたらハルジオン君がそこにいたとき以来、部屋は別にすることにした。

──非常に申し訳無いんだが、俺はカトレアさんに好意の一切もありません。

 それで良い。それくらいの距離感が丁度良い。シオン君の容態を伝えてくれる良い仲間、その程度で良かった。

 解離性同一性障害について調べていくと、完治は難しいらしい。統合に向けて進むか、完全に分離して進むのかは、その人次第で変わる。主人格が消えてしまうこともあるらしい。私は、無理に人格を消す必要は無い、と言った。

 けれども、ハルジオン君は違った。

──俺は早く死にたいんだ。彼奴が独りで生きていくために。

 シオン君が自殺に至らないでいられた一方で、ハルジオン君の自殺願望は凄まじかった。何度も何度も首を吊ろうとしたり、薬をたくさん飲み干したり──私はそのたびにハルジオン君を止めた。まるで、鬱病の全てを彼が庇ったみたいだった。

 どれだけ助けても、どれだけ死のうとしても、拓馬君は瑠衣君から離れることは無い。かつて彼が通りの真ん中で蹲って泣いていたように、シオン君の目にはハルジオン君のことしか見えていない。

 本当に私のことなんて、見ているんだろうか。

 不安になったり、心配になったりすること自体が、ハルジオン君にも、シオン君にも失礼だと分かっていた。一番愛する人を疑うなんて、そんなの最低だ。誰にも相談できなくて、現世に行ったときには何度も友人に相談した。酒を呑み交わして、泣きながら訴える私は、さぞかし面倒臭い女だっただろう。

「うちは、解離性同一性障害のことは、分からないんやけど。でも、どっちも拓馬君なんやろ?」

「うん……柚子ちゃんなら、どうする?」

「どちらも大切にするよ。拓馬君から生まれたんやから……」

 友人はいつもそう言った。だから、私もそうすることにした。シオン君もハルジオン君も、平等に愛してあげたかった。

 シオン君もハルジオン君も、私を頼ってはくれなかった。愛してくれているからなんだと思う。そう思うことしかできない。寂しいとか、悲しいとか、妬ましいとか、そういう感情は、彼を傷つけて鬱ぎこませるって知っていたから。

 司書たちが増えて、お世話する人が増えて、そうしていくうちに、シオン君はたくさんの人に慕われていった。スミレ・ヒマワリ兄弟に、司書長・ヒナゲシさん、その友人のキキョウ・ダリアさん、アヤメさん──皆々、シオン君のことが大好きだった。シオン君も皆を「アリス」と呼んで可愛がっていた。ヒナゲシさんには甘えるようになった。

 ゆっくりとアネモネ図書館が本格的に動きはじめて、司書としての仕事が確立して──私はそんな流れに独り、取り残されていたような気がした。司書の仕事を手伝うでもなく、「アリス」のように対話を楽しむのではなく、彼の妻として隣に控えるだけ。私独り、何も変わらないまま。

 次第にアネモネ図書館にいるのも辛くなって、現世によく出かけるようになった。仕事だなんて言ったけれど、結局はアネモネ図書館から逃げていただけだ。徐々に目覚めなくなっていくシオン君から、代わりに苦笑して出迎えてくれるハルジオン君から逃げていただけなんだ。他の司書と仲良くする様が見られなかっただけなんだ。

 カトレアさんは強いですわ、とヒマワリさんに言われたことがある。

 ──いったい、何年シオン様が目覚めるのを待っていたのでしょうか。

 私だって考えたくない。何年アネモネ図書館にいて、何年ハルジオン君と向き合っていたのか。人でなくなった皆が、あまりにも遅い時の流れに慣れていった一方で、私は止まっているつもりなのに早く歩きすぎてしまった。

 だから、ネモフィラ畑をシオン君と歩いたとき、ゲームセンターへ二人で行ったとき──ハルジオン君が、死んだとき。罪深いことに、私はとても嬉しかった。ようやく、シオン君が私の元に帰ってきたような気がして。

 今も私は、ハルジオン君の死体の上で幸せを謳歌している。アザレア君がやってきたとしても、それは変わらない。私はハルジオン君を、殺してしまったんだ。ずっと彼を疑っていたんだ。そんな最低な事実は、これからも残り続ける。

 贖罪のつもりではないけれど、私はシオン君に近づく司書たちを許している。そこまで奪ってしまったら、私は本当に嫌な人間になってしまうような気がして──



「カトレアちゃんって、強いよね」

 それはただの歓談。買い出しをしながら交わした雑談。それでも、私の手を止めるには充分すぎる発言だった。

 サザンカさんは、最近司書としてやってきた、アザレア君の妻だ。家事も料理も得意な、典型的なお嫁さんといった感じだ。仕事帰りに一緒にスーパーに行って、あれにしようか、これにしようか、と料理を語り合う友達だ。

 彼女だって、別に悪気があってそんなことを言ってるわけじゃないのだ。彼女は何も知らない。私がどうやってもう一人のアザレア君──ハルジオン君と付き合ってきたかなんて、知らないはずだ。だから、責めない。責めることもできない。

「ううん、私は弱いよ。こう見えても結構嫉妬深いし、我慢できないタイプだよ」

「えっ、そうだとは思わなかったよ。だって、シオン君が他の司書とイチャついてても……っていうか、アザレア君と仲良くしてても、笑顔で眺めてるから。こっち寄りだと思ってたんだけど……」

「サザンカさんはイケメン同士が仲良くしてるのを見てるのが好きなんだよね。私も腐女子だけど、さすがに『リアル』に萌えることは無いかな……」

 うへへ、と笑いながら、サザンカさんはリンゴを顔に近づける。いくつになっても初々しいところがあって羨ましい。たぶん、そういうところにアザレア君が惚れたんだろう。会社の経営者と一般人女性の結婚なんて、周囲は反対したでしょうに、それでも押しきるくらいなんだから。

 小さく溜め息を吐くと、カレーのルーをカートに放りこんだ。今日は甘口のカレーだ。

「サザンカさんの方が強い、と思うよ。だって、あんなエリートの妻でいるくらいだもん。風当たりとか、無かったの?」

「あったよ。だって俺、しょせんフリーターだったわけだし。今でこそ専業主婦だけどね」

「それでも諦めなかったんだ」

「諦めないよ。瑠衣君……アザレア君が俺を諦めない限りは、絶対に諦めない。好きだから、それだけは譲らないよ」

 蜂蜜のラベルを見つめるアクアマリンの瞳が、爛々と輝いている。昔の私も、こうだったんだろう。何があっても拓馬君を幸せにする、って言い張って、ハルジオン君を必死で止めて──ハルジオン君が死んでしまった今、もう一度彼が帰ってきたらどうするだろう、と考えても、私はここまでブレないではいられない。

 すると、サザンカさんが振り返った。目を丸くして、きょとんとした顔で尋ねてくる。

「カトレアちゃんも、そうじゃないの?」

「私は……どうだろうね……分からない、かな。すぐ諦めてしまうかも」

「でも、きっとシオン君はカトレアちゃんを諦めないよ」

「……そうかな。シオン君は、私のことなんて、そこまで大切には、」

 つい口走った言葉に、自分で驚く。そんなこと、思ってない。思ってない、はずだ。私はそんな意地悪な人になった覚えなんて無い。

 そうは思っても、喉が凍ってしまって、取り返す言葉が出せない。否定する言葉が出てこない。シオン君はそんなに薄情じゃない──そう信じているのに。

「カトレアちゃんは、もっと欲しがって良いんだよ」

 サザンカさんはそう言って、蜂蜜をカゴに入れた。カートを持って、私の代わりに押しはじめる。彼女の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。別に端正でも、美麗でもなくて、極普通の見た目なのに、そこに私は、清い女神を見たような気がした。

 嗚呼、彼女はまるで、暗闇を照らす月のようだ、と思った。白い月光が、優しくアザレア君を包んでいる。

 私も、彼女のようになりたい。シオン君を照らす太陽になりたい──だから頑張ってきたのに、サザンカさんはそれをやんわりと否定する。

「今までカトレアちゃんが頑張ってきたんだから、その分甘えちゃって良いんだよ。シオン君もきっと喜ぶよ」

「でも、シオン君には他の司書たちが、」

「気にしない気にしない! だって、シオン君でしょ、『カトレア』って名前をくれたのは」

 カトレア。花言葉は、成熟した美しさ。気品の高さ。花束の中で一際目立つ、ランの女王。シオン君は自分を小さな花にたとえたのに、私のことはそんな豪華な花にたとえてくれた。

 シオン君が与えてきた名前は、スミレ、ヒマワリ、ヒナゲシ、キキョウ、ダリア──嗚呼、どれよりも、カトレアが大きくて鮮やかだ。気がついて、顔が真っ赤になる。

 サザンカという名前は、アザレア君が名づけたらしい。貴女が世界で一番美しい──なんて傲慢で、魅惑的な花言葉だろう。なんて熱い愛の言葉だろう。

 そうだ、サザンカさんは、愛されているんだ。だからこそ、胸を張って前を向けるんだ。

「俺もね、シオン君にアザレア君を取られることとか、考えはしてみたんだけど。その分甘えることにしたんだ。アザレア君は俺を拒んだりしなかった。むしろ、向こうも待ってたみたいに迎え入れてくれた。それが嬉しくって、俺は嫉妬しなくなったんだ。

カトレアちゃんは、皆の生活を支えて、シオン君と闘病して……本当に頑張ってる。だから、その分お返しを貰ったって、悪いことなんて無いよ」

 甘えたい。抱きしめたい。甘やかしたい。独り占めしたい。拓馬君に、私だけを見てほしい。そんな不埒な願いは、私の心の奥底にしまっておけば良い──そう思っていた。鍵をかけて置いておけば良い。それがシオン君のためになる。

 でも、少しだけ、少しだけだ、扉を開けてみよう。怖いから、ほんの少しだけ。嫌われたくないから、隠し味程度にスパイスをかけるように。手に持ったガラムマサラを見つめて、カゴに入れる。甘い甘いカレーの中に、少しだけ辛味があるように、少しだけ私は、拓馬君を独占したい。

 それは、許されるだろうか?

 次々に入っていく、今晩のカレーの具材。野菜を煮込むほど味がまろやかになるから、カゴにはたくさん野菜を入れる。その下の方にスパイスの瓶が転がっている。

「……うん、そうしてみる」

 私がそう力強く返せば、サザンカさんは満面の笑みで、そうだね、と柔らかく返した。



 セミダブルベッドに、黒髪の女性と丁字茶色の髪をした男性が寄り添って寝ている。すやすやと寝息を立てる男性は、女性の肩に顔を埋めている。

 白い光の差しこんでくる昼下がり。サイドテーブルには、少し残ったワインの瓶とグラス。携帯のアラームは、女性の体の下で埋もれて鳴っている。そのかすかな音に気がついたのか、カトレアは薄っすらと目蓋を上げた。

 それから、ゆっくりと首を動かしたが、隣で寝ているシオンを見つめると、再び目を閉じた。

「まだ、良いよね」

 彼女の呟いた声くらいでは、シオンは目を醒まさない。カトレアもまた、二度寝の浅い眠りに身を浸して、沈んでいった。

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