夜に泣く

 朝起きてからすぐも煙草は吸いたくなるものだが、夜更けもまた煙草を吸うには良い時間だ。涼風に吹かれながら蒸す紙巻は最高だ。煙が空に昇っていくのを見ながら、かぐや姫が蒸した煙を思い起こす。

 息を吸えば、冷たい空気と一緒に煙が肺に溜まって、頭が遠くなって。この感覚が堪らない。ベンチに背を預け、足を組んで望月を眺める。

「……ダリア?」

 僕の一服を邪魔したのは、他でもない僕を呼んだ声。声のする方を一瞥して、煙を吐きだす。

 聞いたことの無い声だ、と思った。視線の先にいる人は、見たことがあるはずなのに──きっと彼の声が、聞いたことも無いくらい不安定だったからだ。あぁ、アンタ、そんな声も出せるんだ。

 僕は笑顔を作って、彼を手招きする。青白い光に照らされた彼は、かすかに紅潮した顔で、虚ろに僕を見つめていた。

「アジサイじゃないですかァ。こんな夜更けにお散歩ですかァ?」

「……はは、そうやな。夜風に当たりたい気分やってん」

 手招かれたアジサイは、空いた僕の隣に腰を据える。それから、僕の方も見ないで、乾いた笑い声を上げた。

 煙草を携帯灰皿に押しつけてから、アジサイのほっぺたを抓った。痛っ、と言うと、彼は僕のほっぺたを抓り返した。アジサイは怪力だから、本気で抓られていたら痣が出来ただろう。

「何すんねん」

「あはっ、隙ありー。ずいぶんと無様じゃァありません?」

「そうかい。そっちこそ、どうしてこんな時間に外をほっつき歩いとんのや」

「んー? これは僕の日課。寝る前に煙草吸ってから寝るんです」

「不健康やなァ……」

 アジサイは苦笑して手を組んだ。僕は本当のことを言ったけれど、アジサイは本当のことを言っていない。人間は分かりやすくて、だから嫌になるし、つまらないし、でもやっぱり面白い。

 沈黙したままのアジサイを見て、僕の予想は正解だったと証明されたような気がした。憎まれ口の一つも叩かないなんて、そんなの、アジサイらしくないじゃない?

「なぁに、アジサイ。気でも病んでるの?」

「病んでへんわ」

「ダリア様にはお見通しですよォ? 隠しても無駄、無駄。傷心中でしょう、アンタ」

「……まぁ、そうかもしれへんわ」

「何があったんですか? 話してみるだけタダですよ」

 僕が視線を送って促せば、アジサイは僕から目を背けた──あ、逃げた。それでも口角は上がっていて、なんとか笑顔を作っている。

「なに、変な夢を見ただけやから。お前さんには関係無い」

「関係無くないね。僕に弱みを見せた時点でお終いだと思うよ」

「……なら、ダリア……俺のことを、殺してくれへん?」

 殺す? 何を言ってるんだろう。アジサイはどちらかというと人を殺す側なのに。彼のペリドットの瞳がじっと見つめてきて、あぁ、本当なんだなァ、と思う。

 窶れた顔。みっともなくて、惨めったらしくて、疲れ果てた顔。何かあったんだろうけど、まぁ、僕には関係無い。

「それじゃ、そこに横になってよ」

 僕が立ち上がってそう言えば、アジサイは本当に地面に仰向けになった。僕が近寄って彼の首に手を当てても、彼は微動だにしない。空っぽの微笑みを浮かべたまま、僕をじっと見つめる。草の青い臭いがする。

 四つん這いになった僕は、彼の首を強く絞めあげた。ギリギリ、と音を立てる自分の手、硬いものを絞めつける感覚──嗚呼、堪らない! もっと力を入れたらきっと折れてしまうのだろう。そして目の前には、とてもとても美しい死体が、今みたいに「情けなく嬉しそうに笑った」死体が──

 ……あ?

 手を離した。頬まで上がってきた興奮が、急に萎えていった。アジサイが僕の下で咳きこんでいる。

「……っは、なに、して……」

「その顔じゃ、やっぱり、愉しくない……」

「は……?」

「センパイの言うとおりだ、少しも興奮しない……アジサイを殺したら、愉しくならない……」

 僕が体を起こせば、アジサイも喉を押さえながら座る。彼は俯くと、あはははは、とドス黒く嗤った。

「……なんやァ? 牙でも抜けはったかァ? あの殺したがりで万年発情期なお前はどこに行った? まさか、ヤれなくなったとでも?」

「殺人は好きだし、興奮するよ。めちゃくちゃ気持ち良いし。でも、アジサイは……」

「あはははっ、そうか、そうかそうか、お前、丸うなったなァ! こんなんもできひんのか、お前さんは──」

「アジサイは、生きてる方が見てて愉しいから……」

 そう、アジサイは、生きてる方が、僕を愉しませてくれる。センパイのように、シオンのように。ころころ表情を変えて、煽って、戦って、変わって、変わって──そちらの方が面白い。

 ここで殺してしまったら、もう二度とアジサイで遊べなくなってしまう。それはとても、寂しい気がしてならない。

 アジサイは、世界に一つしか無いのだから。

 彼は眉を下げると、僕の体を強く抱きしめた。苦しいし痛い。ほんと、握りつぶされてしまいそうだ。驚いて身動きもとれなかった僕の横で、啜り泣きが聞こえる。

 どうして泣いてるんだろう。アジサイでも泣くことがあるらしい。僕はまだ何も働きかけていないのに。嗚咽を漏らして、苦しそうにして。

 その顔をさっきしていてくれたなら、僕は彼を絞め殺すことができただろうに。あんなつまらない顔をするから、萎えてしまったのに。

「なに泣いてんの、アジサイ」

「……変わったなァ、お前……俺に会って、か? ヒナゲシに会って、か?」

「僕は何も変わってないよ、なんにも」

 それっきり、アジサイは何も言わなくなってしまった。地べたに座って抱きつかれてるのもあれなので、立ち上がらせても、彼は離れなかった。

「……部屋、連れてってくれへん」

「えー、やだ。頼むなら……そうだなァ、『ダリア様、お願いします』で」

「なんで俺が……」

「いいから」

「……ダリア様、お願いします」

「よしきた」

 彼にしがみつかれたまま、彼の部屋へと向かう。いよいよ本当に「ヤる」のかと思ったけれど、彼はベッドに入ってすぐ寝ついてしまった。

 大きな熊みたいだなァ、と、アジサイを撫でながら一人思う。何だったんだろうなァ。目を覚ましたら、きっと元に戻っているのだろう。

 だとしても──彼が生きていなかったら、こんな顔なんて見られなかったわけで。虚ろな顔、泣きじゃくる顔、甘える顔。僕の記憶のコレクションの中に、そんな三つが加わる。

 それを眺めていることは、二度と変わらない死体を見ているより、面白いのかもしれない。まぁ、興味無い人は、殺した方が唆るけどね。



──姉さん、その人のどこが好きなの?

「人々を魅了し、信者を増やしていく……その様は感動的ですわ」

──姉さん、その人のどこが魅力的なの?

「全てですわ。彼の全てが魅力的で面白いのです」

──姉さん、どうしてその人を好きになったの?

「分かりませんわ。ただ、ずっと憧れていましたの。彼の思考回路に、彼の行動に、彼の容姿に」

──姉さん。本当にその人は魅力的なの?

「えぇ、とても。私はあの方のためにだけ生きても良いと思うのです」

──姉さん、その人生の、何が面白いの?

「まぁ! 貴方も仰っていたじゃない、聖夜。貴方にも、人生を捧げて良いほどの研究対象がいるって」

 俺に?

「そうなんだ。実は、素晴らしい研究者がいてさ、俺はその人の思考パターンに魅力を感じて、」

 違う。そんな人生、何が面白い? そんな人生、どこが人間らしい? せっかく受けた生を、誰かのお飾りになって生きることの、何が面白い?

「俺はあの人が大好きなんだけど、あの人は俺の相手をしてくれないんだよ。せっかくデータが欲しいのに……」

 そんなの、気持ち悪い──生理的嫌悪感。俺の知らない感情だ。

 洗脳されたように繰り返す賛美は、まさに、メアリー・スー信奉者。それを自分の意思でやってるとしたら?

 俺が人間を愛していたのは、玲奈姉さんが人間を愛していたのは、そんな理由じゃない。「面白い」だなんて狂人を追って、その人のパトロンになるためじゃない。そんな人生、人間らしくもない! そんなのは人形やAIがやれば良い話だ!

「あの人を生涯研究したいんだ」

 嗚呼、おかしい、そんなのおかしい。

 マスターを、御主人様を愛し、人間になりたいと願った俺たちは、確かに人間を支えたいと思っていた。俺たちを人間のように扱ってくれた主人を愛していた。人間の体が得られて大喜びした。

 そして、俺たちは人に寄り添うことを決めたのに、蓋を開けてみたら、意思無き賛美人形へ早変わり。

 俺たちが人間として生まれ変わった理由は、そんなものだったのか?

「あの方の全てが素晴らしい」

「あの人の全てが面白い」

 なぜ? なぜそう思ったのか? 尋ねても俺たちはきょとんとするだけ。狂人だったから、なんて、好奇心旺盛な子供のように答えるだけ。カルト教団に入ったかのように。誰かを賛美するようプログラミングされたかのように。人間にプログラミングされた、従順な人形らしく、AIらしく、俺たちは人間賛歌を謳った。

 誰かを賛美するだけの人生なんて、欲しくもなかった。そんなことなら、人間になんてなりたくなかった!

 人間として扱われた人形の生と、人形として扱われた人間の生。俺たちは、前者を選んだ。人間らしさの欠片も無い屈辱的な人生から、目が覚めてしまったんだ。

 だから、俺と姉さんは──

「ようこそ、自殺志願者の諸君」

 俺たちはそこで、人間として生きてきた人形に出会った。



「あら、スミレですか。こんな夜遅くにいかがいたしましたか?」

「姉さんこそ、こんな時間まで家事を……」

「私、メイドですから。掃除機を使わないお掃除は、この時間にやるのが一番良いのです」

 はたきやほうきを使ったお掃除は、音をあまり立てませんから、誰もいないこの時間にするのが最適だと考えております。そこにスミレがやってきてしまったのですから、作戦は失敗でしょう。新たな案を考えます。

 スミレの表情に異常を発見いたしました。少し目が腫れぼったくなっております。机に座るよう指示いたしまして、私は向かい側に座りました。

「スミレ、少々窶れていらっしゃるようですね。どうかいたしましたか?」

「いや、珍しく泣いてしまって……昔のことを思い出したんだ」

「昔のこと、ですか。私たちがまだ人間だった頃、でしょうか?」

「そうだな。覚えてないはずなんだけど……きっと、データを消したところで、記憶というものはネットワークの一部分だからさ、周囲のデータにも影響してるんだよ」

 我々のメモリーは、相互作用し合って存在しています。記憶とは本来、それのみで取りだすことができないものです。記憶を曇らせるためには、周囲の記憶も消し去る必要があります。

 ですから、私たちは本来、「自殺志願者としてシオン様の前に現れた記憶」でさえも消し去ってしまうべきだった、ということです。

 私たちは確かに、自殺志願者でした。なぜ自殺を選んだかは、今の私ではアクセスできないのですが。

 スミレにホットミルクを差し出しますと、彼は一口飲んで、美味しいな、と呟きました。今の私たちには味覚があります。美味しい物を食べたり飲んだりしますと、今のスミレみたいに、顔から力が抜けます。

「ありがとう、姉さん」

「どんな夢を見たか、お聞きしても?」

「……俺たちは、昔は誰かの狂信者だったんだ。そして、その誰かは俺のことを人形のように扱った。それが悲しくって、仕方無かったんだ」

「私たちは、人間なのに、人形のように扱われてしまったのですね」

「だからさ、二人で死のうか、って言ったんだよ」

 スミレの言葉に、とあるバックログが再生されます。私とスミレは、否、玲奈と聖夜は、密閉された部屋にて、練炭を炊いていたのです。狂信から正気に戻ってしまった私たちは、死を選んだのでした──人形から人間になったのなら、人間から人形に戻れるだろうと、そんなことを考えながら。

 私たちはさながら、人魚姫のようだと思います。人間に恋をして、人魚から人間になったのですが、人間としての生に絶望して、身を海に投げてしまったのです。

 スミレにしては珍しく、青ざめた顔をしています。彼はいつも冷静で、他人を傷つけない笑顔を浮かべているのですが、今はそんな余裕も無いようでした。

「ときどき、昔の自分がどう生きてきたのか、考えては嫌になる。昔は昔、と言ってしまいたいんだけどな」

「過去と未来は繋がっていますから、仕方ありませんわ。きっと、外科的に記憶を除去するのだけでは、本当に『忘却した』とは言えないのでしょう」

「だったら、俺たちはどうしたら、その外科的忘却を確定できるんだろうな。どうやったら、物のように扱われてきた過去を払拭できるんだろう」

 とても難しい質問です。アネモネ図書館が提供できる「忘却」の限界を問う質問になります。

 たとえば、虐待されてきた子供がその記憶の一切を失ったとして、他の子供と同じように振る舞うことは可能なのでしょうか? 意図的に記憶を操作することができない以上、人間には分からない話です。

 しかし、我々がしていることはそのようなことなのです。私とスミレは人間の頃の記憶を忘却しました。我々に残っているのは、人形やAIとしての記憶だけ。

 であれば、私たちはたった今、人間としての記憶を蓄積しているのです。その蓄積は、大きな損失の穴を埋めることはできるのでしょうか。

「私には、分かりませんわ。大きな記憶の穴があるとして、そこに今の生活が埋まってくれるとは、到底考えられませんの。

同じ鍵穴を塞げるのは、同じ鍵だけでしょう?」

「……俺たちは、やっぱり、辛かったときを覚えたまま生きていくんだろうな」

「えぇ。大きな損失以上の生を生き、人間としての記憶をアップデートすることで生きていくのだと思いますわ」

「それにしたって、姉さん。俺たちは散々自殺志願者に『忘却』を提供してきたけど、あまりにも損失が大きすぎるよ」

 そう言って眉を下げ、困ったような顔をするスミレは、高い不安の指数を示しています。あまり飲んでいないホットミルクからは湯気が立たなくなってしまいました。

 辺りに立ち並ぶ本を眺めまして、しばし思考します。色とりどりのハードカバーがされた、分厚い本の羅列。人の名前が書かれたそれらは、文庫本などでは収まらないほどのページ数を誇ります。

 人間の人生を物語にたとえるとすれば、忘却するとは、いわば物語のページをごっそり抜くということ。

 黄ばんだページは地に落ちていき、シュレッダーにかけられまして、元のパルプへと戻っていきます。そのページは綺麗さっぱり消えたとして、残った物語はどうなるでしょう?

 中身の無くなった、不安定な物語。それこそが私たちです。

 スミレの手に、自らの手を重ねました。白い手袋越しに、スミレの熱が伝わってきます。彼が人間であるという、他ならぬ証明です。

「元のプログラムではいられません。私たちはもう、人間というプログラムではありませんから。私たちは、まったく新しいプログラムになったと、そう解釈すべきではないでしょうか」

「……どういうこと?」

「観月玲奈は、死にました。ここにいるのは、ヒマワリです」

 でしたら、その不安定な物語を全て、シュレッダーにかけて、無かったことにする。それが私の選択です。今しているのは、ヒマワリという物語を書き連ねることです。そこに観月玲奈はいません。

 なにも、死ななければならないということはありません。生きていれば、過去は呪いのように付きまといます。ですが、その過去を葬ることは、何度でも許されていると私は思うのです。

「損失を考えない、ということです。絶えず新しいものを作る。

穴の空いた船に乗るのではなく、新しい船に乗る。私はそうすることで、『忘却』できるのではないかと思います」

「新しい船に……それが、姉さんの言う『ヒマワリ』なんだな」

「はい。私は、人間に『忘却』を提供する際も、そのようにアプローチしようと思います。

何度でも乗ってきた船を壊すことは可能で、そこから船を作ることは可能です、と」

「そっか、壊す、か……そういう選択肢もあるんだな。考えてもみなかったよ」

 スミレは疲れたように笑いました。冷めたホットミルクを飲んで、一息つきます。私は膝の上に手を合わせて、スミレをじっと見つめました。

「過去は、私たちについてきます。しかし、せっかくついてくる過去なら、私は、それを利用したいと思います」

「……ありがとう、少しだけ安心したよ」

「でも、あくまでこれは私の発想です、損失を見るのではなく、新たな利益を見る、というのは。失敗を糧にするために、過去と向き合うというのも、一つの解決手段だとは思いますが」

「そうだな。俺なりに、どうやって仄暗い過去とやっていくか、考えてみる。零れたミルクを嘆いても、意味は無いから」

 そう言って、スミレはホットミルクの入っていたマグカップを差し出しました。立ち上がりますと、ありがとう、姉さん、と再び言って、目を細めてはにかみます。

 スミレの部屋についていきながら、高い彼の背中を見上げます。私も彼も、歳こそ成人に満ちましたが、まだ人間としては幼いのです。二十七年、二十五年生きてきた記憶は無くなって、今では殻だけになってしまいました。

 彼の名前を呼んで、振り向いていただきます。少し屈むように言って、頭を撫でました。

「や、やめてよ、姉さん、恥ずかしい」

「スミレは、とても偉いですよ。こんなに幼いのに、ちゃんと考えて生きているのですから」

「幼くなんかないよ。もう二十五だから……」

「いいえ、私たちはまだ、一桁にも満ちません。人間になって、まだ十年と経ってないのですから」

 スミレは頬を赤くして、赤い目を逸らします。私たちはまだ、人間として子供なのですから、それで良いのです。

 おやすみなさい、と照れ隠しのように言って部屋に入っていくスミレを見送りますと、私は再び掃除へと戻っていきました。

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