嫌い嫌いも恐怖のうち
「嫌、彼奴嫌い! 一言も話したくない!」
リンドウは拳を枕に落とし、ぎゅっと目を瞑って怒る。まぁまぁ、と言うスミレと、ケラケラと笑うダリア。彼らこそが、姉妹喧嘩の現場に居合わせた二人だった。
ダリアが買ってきたレーズンバターサンドの箱を分けて、三人はおやつタイムを過ごしている。スミレは缶コーヒーを、ダリアはコーラを、リンドウはオレンジジュースを飲みながら、リンドウの部屋で過ごしていた。
さて、苛立ちに任せて殴った枕を抱きしめて、リンドウは口を尖らせる。少しだけ顔を覗かせて目を細めた。
「あたしは謝んないからねー。絶ッッッッ対口利かないから」
「そんな怒りなさんな。だいたい、愛想悪いのを咎められただけでしょう。僕は気にしてませんけどね、アンタが愛想悪いとか」
「でも、自殺志願者に対して冷たく対応したのが悪い、っていうのには、正当性はあると思うよ。俺は、職務上はコスモスの意見が正しいと思う」
「はああああぁ!? ここはあたしの家だし! 仕事場じゃないんですけど! それに、彼奴に口出しされる筋合いは無い!」
ぼふ、ぼふ、とリンドウが枕を叩く。一見可愛らしく見えるが、彼女の癇癪はときに暴力的になる──以前は、コスモスと取っ組み合いの喧嘩になる程だった。
宥めに入ったスミレだったが、効果は無い。ダリアは止めようともしない。リンドウはただ苛立ちを募らせる。
しばらく悩んだスミレだったが、思いついたように手を顎から離す。瞬くと、リンドウにたとえ話を投げかけた。
「たとえば、なんだけど。もしも俺に同じこと言われたら、リンドウは怒ってた?」
「……怒ってたかも。でも、ここまで怒んない」
「それじゃあ、コスモスに言われたから強く怒りを示してるんだな?」
「むー、そうかも。彼奴には何言われてもムカつく。言ってることが正しいとかどうとかの前に、態度がムカつく」
スミレの赤い目は透き通っている。彼の解き明かす目は誰のものにも負けない。洞察力をもって話を聞き出し、データを得る。
一方のダリアは、小さく欠伸をすると、凄まじい勢いで減っていくお菓子を眺め、頬杖をついた。
「そんなに食べて大丈夫なんですかぁ? さっき昼ご飯めちゃくちゃ食ったばかりじゃないですかぁ。吐きそうって言ってたのはどこへ?」
「煩いわねッ! お腹空くんだもの、仕方無いじゃない!
食べてないと落ち着かないの……食べすぎたなら、吐けばいい。どうせ嫌になる程食べて、後悔して気持ち悪くなるんだから……」
「そういや、昔センパイも拒食症やってて、手が吐きだこでガサガサになってましたよ。まぁ、あんまり関係無いんですけど」
「……そう、吐きだこがあったんだ、彼奴……だから、手の甲に傷が……」
リンドウは自分の手を見つめる。食べても食べても肉のつかない白い手の甲に、赤い腫れがある。自分の手を見やると、むっとした表情で自分の手を縛るようにしてもう片方の手で捕らえた。
へぇ、とスミレが呟く。手を組み、限り無く零に近い表情でリンドウを見つめる。
「やっぱり、ダリアの言うことも聞くんだな」
「……何よ、悪い?」
「今のをコスモスに言われてたらどうする?」
「殺す」
「あははは……まぁ、そうだよな。でも、どうしてまた、言われる人によってこうも差が出るんだろう? 当たり前のようで、当たり前じゃないと思う。同じ論理を使うにしても、どうしてここまで差が出るんだろう」
スミレは腕を組み、斜め上を見やる。考え込むスミレを見ると、リンドウは抱きしめた枕の上に顎を乗せた。
「どうして、って……あのクソ女は、あたしの気持ちなんてなーんにも知らないし」
「でも、リンドウはコスモスに本当の気持ちを伝えたことはあるか? 食べすぎもそう、ここが家だと思ってるのもそう……『口出すな』って言うだけじゃないか?」
「言うわけ無いじゃん。彼奴すぐ文句言ってくるし。話通じないんだよ」
「話が通じない、か……」
レーズンバターサンドを食べ終えたスミレは、ウエットティッシュで手を拭きながらそう呟く。彼の視点は手には向いておらず、どこか遠くを見ている。
ダリアはケラケラ笑い、簡単でしょう、と続ける。
「簡単、簡単。リンドウさんはコスモスさんのことを信用してないだけですよ。自分の話もろくに聞かない奴、ってね。軽蔑でもあるし、憎悪でもある」
「なるほど……それはどう違うんだろう」
「スミレさんは人当たり良いですからねー、人によって対応変えたこと無さそうですし。
そうだなぁ、たとえばなんですけどー、ある日突然自殺志願者がやってきて、図書館を荒らしていきました。その人は一言、『こんな場所間違ってる』と言いました。どう思います?」
「一理あるな、とは思う」
「では、同じ台詞をツバキさんに言われたら?」
スミレが黙り込む。首の後ろに手を当てて、小さく唸りながら思考する。一方のダリアはレーズンバターサンドを齧ってにこにこしているだけだ。
「……様子は聞くかな。何があったのか、とか……」
「そういうことです。自分の記憶の中にバックグラウンドがあれば、人間はそれを気にしてしまう。
だから、コスモスさんはリンドウさんにとって悪いバックグラウンドを持っていて、リンドウさんはそれを気にしてしまってるわけです」
「そっか……それは的を射る意見だな。
ギャンブルにおいても、『ここまでハズレ続きだったんだから』と考えることが……えーっと、『ギャンブラーの誤謬』があるよな。それって要は、経験から来る認知バイアスの一種だよな」
「そうそう。だから、リンドウさんも『前こうなったんだから次もこうなる』って思ってるんですよ。人間に相応しい仮説・実証の伴った性格してますよね」
リンドウは二人の話を黙って聞いたのち、それはそうかもだけど、とぼやっとした声で答える。納得いかなそうに眉を吊り上げるリンドウの顔を見ると、スミレは目を見開いた。
「まだ納得いかないことがあるのか?」
「なんていうかー、さ……そんな賢い感じじゃないよ、あたしが彼奴のこと嫌なの……そうやって吞み込もうとしてもさ、ほら……あたしが悪いみたいで、嫌」
「別にお前が悪いわけじゃないぞ。人間に普遍的な認知だから、」
「違う。あたしが認識を改めなきゃいけないみたいじゃん。無理だよ。彼奴が何とかしてくれないと無理」
足をバタつかせて答えるリンドウに、難儀ですねぇ、とダリアが返す。コーラを飲みながら返事する彼は、他人事のように軽いノリで答えるのだった。
スミレはしばしリンドウの顔を見つめたあと、つまり、と話を始める。
「リンドウは、『コスモスがリンドウにした行為のせいで嫌いになっているのだから、リンドウが自発的に嫌いになってるわけじゃない』と言いたいわけだな?」
「そう! それ! あたしが何も無いところからぽっと出で嫌いになるわけ無いじゃん! 彼奴に悪いところがあるんだよー!」
「人間関係は相互の認知から出来ていると言っても過言では無いからなぁ。俺にはどちらが悪いとか決められないかな……」
「だからさ、リンドウさんは悪くないですよ。気色悪いものは仕方無い、自分に負い目は無い。違います?」
リンドウの青い目がきらんと輝く。気色悪い、と繰り返したあと、ダリアに人差し指を向けた。
「それだぁ!」
「いきなり騒がないでくださいよ」
「気色悪い! 気持ち悪い! その感情だよ、あたしが思ってるのは! 何言ってもキモい!
ほら、想像してみてよ、半裸の男が目の前に現れてアインシュタインの相対性理論を解説しだしたらどう思う?」
「キモい」
ダリアは即答、スミレは凍結。リンドウは、だよねー、と言って拳をぐっと握る。
「あたしからしたら、彼奴はそーゆーもんなの。目の前に出てきた不愉快なもの。いくら彼奴が真面目な顔して善行やってても、キモいもんはキモいの」
「じ、実の姉に……?」
「姉はあたしだし」
スミレが固まった顔で尋ねる。リンドウは頬を膨らませてそっぽを向く。
大笑いしたダリアが腹を抱える。半裸がアインシュタイン、とリピートしてはカラカラと嗤う。スミレは困ったように眉を下げると、そっか、と一人納得するのだった。
「そう捉えてるなら、なかなかコスモスの言うことを呑み込めないよな。どうしてそうなってしまったんだろうな……アレルギー反応かな」
「アレルギー? あたしがコスモスアレルギーってこと?」
「ほら、アレルギーって、そのものに多く触れ合ったからこそなるものがあるだろ? いわば人間の免疫には容器があって、その容器から溢れる反応を得るとアレルギーになってしまう、みたいな。
そうなったら、もう距離を置くしか無いんだよ。それは、コスモスが悪いとか、リンドウが悪いとかじゃない」
スミレはそう言って額に手を当てると、首を振り、やっと理解できたよ、と独り言を言った。リンドウは目を丸くしてそんなスミレを眺めていたが、一息置くと、むすっとしていた顔を解けさせ、微笑んだ。
「なるほどー! そういうことにするね!」
「まぁでも、僕らは半裸の男にアレルギーを起こすには、其奴と接さなすぎますけどね?」
「それは別だよ、ダリア。それはどちらかというと、生存本能なんじゃないかな。燃えるような赤のキノコに手を伸ばしたがらない人間の本能」
「カエンダケとかね。アレルギー反応は脳が理解しないものへの身体的な反応ですけど、カエンダケは脳が反応してくれますからね。
いずれにせよ、嫌悪感とは危険察知なのかもしれませんね。僕はそういうので反応したら一切関わらないので、カエンダケたる人間を食べようとも触ろうとも思いませんけど」
ダリアは横に三白眼を逸らすと、薄付きの赤い唇に指を当てる。
「僕自身、よく他人に危険物扱いされてきましたし。なんか、見てて気持ち悪いみたいです。この容姿、かなぁ?」
「そうかな。ダリアは綺麗だし、話してても危険だとは思わないよ」
「あたしも、別に……ダリアはいい人だし……」
「そ? 別に肯定してほしいわけでも否定してほしいわけでもないんですけど。
まぁ、何にせよ。人が他人を嫌いになるのに、大した理由は無いんじゃないですかねぇ。拒否反応を起こされたからといって、僕は悪くない。拒否反応を起こす側も悪くない。誤作動かもしれませんけど、本能的なとこを変えるのは無理でしょう。そんなことできんのはセンパイくらいです」
「センパイくらい」という冗談に、二人も笑い出す。センパイことヒナゲシや、彼の親友たるアザミは、アネモネ図書館の中では「不可能を可能にする人」という捉え方をされているからだ。要するに、それくらい無茶苦茶だとダリアは言いたいのだ。
一頻り笑うと、スミレは、そうだな、と言って淡麗に微笑んだ。
「アレルギーの根治にせよ、恐怖症の解消にせよ。少しずつ触れていくしか無いし、それ以外は接する必要は無い。むしろ恐怖心を煽っては、治らないもんな」
「まぁ、あたしは治す気無いけどねー。彼奴が治さない限りは」
「それも難しいんじゃないかな。カエンダケは毒性を失わないと思うし」
「ちーがーうー! 半裸で出かけるのやめろってこと!」
「あはっ、一瞬コスモスさんが半裸で出かけてるのかと思いましたよ」
もー、と言って溜め息を吐くリンドウからは、憤怒がゆっくりとはけていった。スミレはそんなリンドウを案じながらも、缶コーヒーを飲み干して、次のお菓子の袋を開けた。
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