Dear my theory

 シオン様が私を選んだときは、私はしばし思考停止しまして、ぽかんと口を開ける誤作動を起こしていました。私は一生司書のお仕事なんてしないと思っていましたし、私の機能では向いていないから任されないのだと思っていました。

 しかし、尊敬する彼の頼みです、私も断ることはできませんでした。彼は微笑むと、赫い目を細めて、自分の白い手を重ねまして、まるで王様のように言ったのです。

 君に任せるよ、と。

 任されたからには、失敗は許されません。私は完璧なメイドですが、完璧な司書ではありません。これから完璧な司書にならなくてはいけません。そこで、統計データを集めることに致しました。

 ツバキ様やクロッカス様にデータを要求したのですが、そんなデータは無い、と言われてしまいました。てっきり、セッションの度に記録しているものだとばかり思っていました。

 では、対応マニュアルはあるのでしょうか。司書長様に尋ねたのですが、そんなものも無いようです。

 規範とするモデルケース無しにして、如何様にしてカウンセリングを行っているのでしょうか。どのように引き継ぎをしてきたのでしょうか。

「す、すみません、分かりません……私も、教育も何も無かったので……その、初仕事のときも、ヒナゲシさんが隣にいただけで、口出しはしませんでしたから……」

「あら、そうなのですか?」

 アヤメ様に聞いても分からない。彼女は首を振って黒いポニーテールを揺らし、怯えた小鹿のような目で私を見つめます。背は彼女の方が高いのに、まるで子供を見下ろしているような気になります。

 予測になりますが、おそらく質問責めに遭って困惑しているのでしょう。分からないことを尋ねられると、人間は困惑するものです。

 私は笑顔を作りまして、アヤメ様の困惑を抑えるよう努めました。

「申し訳ありません、質問責めにしてしまって。緊張なさらなくて良いのですよ」

「き、緊張は、します……」

「どうすれば解決しますか?」

「いえ、えぇっと、解決しなくて良いんですけど……」

 解決しなくて良い? アヤメ様は不思議なことを仰る。困っているのに解決しなくて良いなんて、アップデートに問題があったのでしょうか。

 アヤメ様は目を横に逸らしますと、そうだ、と言って人差し指を立てました。

「私は、アザミさんに助けてもらいました。あとは、ダリアさんの対応も参考になりました」

「アザミ様とダリア様ですね、かしこまりました。そちらに伺います」

「あ、ヒマワリさん、お菓子ありがとうございます、美味しかったです」

「置いておいてください。これはアザミ様とダリア様にも差し上げますので」

 立ち上がり、ぺこぺことお辞儀したアヤメ様を見送りますと、私は残ったクッキーにラップをしました。

 美味しかった、とフィードバックを得られたのですから、以降の二人にも同じ物をお持ちして良いでしょう。なにせ、インターネット上では多くの評価を得ているレシピなのですから。



 お次の二人は、確か紅茶を好いていたはずだと思い至って、私はキッチンに向かいました。アールグレイとシュガースティックを持って行こうとしますと、そこにはカトレア様がいらっしゃいました。

 こんにちは、と挨拶をしますと、カトレア様はご自身の名前に相応しい気品ある微笑みを浮かべまして、こんにちは、と返しました。

「ヒマワリちゃんかぁ。もしかして、さっきクッキー作ってた?」

「はい、匂いでお分かりに?」

「うん。ヒマワリちゃんの作るお菓子って美味しいよね、この匂いを嗅ぐだけでわくわくしちゃうよ」

「カトレア様の方がお菓子作りについては上手かと」

「あはは、ありがと、ヒマワリちゃん」

 花の蜜の如く、甘くて軽快な会話に、私はほんの少し憧れのような、尊敬のようなものを感じます。シオン様と話しているときも感じる、蜂蜜の中のような緩い滑らかさは、人形の私には無いものです。

 ティーセットを手に持ちますと、ガシャン、と大きな音が立ちました。カトレア様が洗っていたコップがシンクに落ちたようです。近寄って、大丈夫ですか、と尋ねますが、コップは割れていませんし、カトレア様は顔を真っ赤にして頭を下げるだけでした。

「えへへ、ごめんね、手が滑っちゃって……」

「お気を付けてください。お怪我などありましたら何なりとお申し付けくださいませ」

「ありがとうね、ヒマワリちゃん」

 カトレア様は再び食器洗いに戻っていきます。司書全員分の食器を洗っているとはいえ、私が使った分は洗ってあります。彼女をはじめとした他人に手を煩わせることはよろしくないからです。

 さて、カトレア様と別れれば、私は元のクッキーの置かれた机に戻ってきまして、それからアザミ様を探して歩いていきます。

 アザミ様はいつもどこにいらっしゃるか分からない人です。非常に気紛れで、ときにはアネモネ図書館にいらっしゃらないときもあります。生きていらっしゃるのか、死んでいらっしゃるのかも、私たちには教えてくれません。

 ですので、長丁場になるならやめましょうかと考えていたのですが、今日は簡単に見つかりました。外でお茶を飲んでいらっしゃったのです。私は慌てて戻って、ティーセットを持ち寄ってアザミ様を呼びました。

「あ? ヒマワリか」

「アザミ様、少々お時間を頂けますか?」

「……構わないけど」

 アザミ様は顔をしかめると、向かいに座った私をじろりと見つめました。頬杖をついて、憂いげな表情をしていらっしゃいます。

 私の蓄積データによりますと、彼女は「私だから」こんな表情をなさる方ではありません。彼女は「誰にでも」こんな表情をなさる方です。

 彼女は、表情を作ることを厭うていらっしゃるのでしょう。私やスミレが表情を作ることを仕事にしている一方で、彼女は飾らない姿を見せるのを好いているのでしょう。

「アンタ、今『何でこんな顔してんだ』って思ったでしょう」

「まぁ! どうして分かったのですか?」

「じろじろボクのことを見てるからだよ。別に、アンタを怪訝に扱いたいわけじゃないから。

ただ、無理して笑顔を作ってそれをデフォにすると、元気が無いときにアンタらは『今日は怒ってるんだ』とか思うだろォ? そんな気ィ使わせたくない。それなら、いっそ元から『柄の悪い奴』って思われたいだけなの」

「私は、そうは思いませんわ。最適な表情など存在いたしませんもの。

私は、できるだけ不快感を与えないような表情を作るようにしておりますが、この表情で百パーセント不快感を与えないというデータはありませんもの」

「ふぅん。ボクはアンタみたいな考え方、好きだよ。ボクに似てるし」

 アザミ様は一口クッキーを頬張りますと、今度は分かりやすく眉を寄せました。私は慌てて彼女の顔を覗き込みます。

「どうか致しましたか? 何か悪いものでも、」

「いや、悪い、本当……全然君のせいじゃないんだ。自分がバタークッキー苦手なの忘れてて……美味しいよ」

「そう、ですか? 適切な物を提供できず申し訳ありません、今後は改善致します」

「いいんだ、気にしないで。それで?何を聞きにきたの?」

 アザミ様はそう言って、紅茶に二本もシュガースティックをお入れになりました。

 なるほど、アザミ様はバタークッキーが苦手でいらっしゃったんですね。司書たちの好き嫌いを把握するのも、私の仕事の一つです。

 私は改めまして背筋を伸ばしますと、アザミ様に前述したことをお聞きしました。

 アザミ様はこの図書館にいらっしゃってから、即戦力としてヒナゲシ様に並ぶほど貢献していらっしゃいます。シオン様は口にはしないものの、彼女をとても信用しているように思えます。

 私の話を聞きますと、アザミ様はにやりと嗤い、嗚呼、分かるよ、と仰いました。手を開き、片手でろくろを回しながらお話ししてくださいます。

「ボクもビッグデータを解析して人と話すタイプだからね。モデルケース無しには人を理解することはできない。ボクがこうして人と話すとき、それは往々にしていつかの繰り返しだ」

「はい、私もそう考えております。ですが、アザミ様はあまりモデルケースをお持ちでないのに、司書としてご活躍していらっしゃいます。なぜでしょうか?」

「活躍はしてないよ。人の話聞いて、思ったこと言ってるだけ。

ボクは司書として仕事をしているというより、普段人と接してる延長線で話してるだけさ」

 メモを取りながら、困ったように笑うアザミ様を見つめます。アザミ様の話し方には、傲慢さも感じなくて、清涼感があるように思えます。ただ、少し達観していて、人間味が無いようにも思えます。それが、アザミ様と私が近いというところでしょうか。

 話を聞いてみれば、なるほど、確かにアザミ様の意見は参考になります。人間らしくない私にとって、人間ながらも思考回路が人間離れしているアザミ様はとても分かりやすい。

「でしたら、今まで私が人と接してきたとおりに接せ、ということですね」

「まず観察せよ、話はそっからだ。大まかな質問をぶち当て、相手の否定で真意を見極めろ。的外れなことを言うと、相手はわざわざ説明してくれるからなァ……だが、興味本位で殻を壊しすぎない方がいい。人間とは臆病なんだ」

「やはり、そういうもの、なのですね……はい、用心致しますわ」

「ま、あんまり他人の話は参考にしない方がいいぜェ? 万人に当てはまる方程式は無ェからなァ?」

 アザミ様はそう言って、空になったティーカップをソーサーの上に置きました。バタークッキーはあまりお召しにならなかったのですが、いくつかはお召しになってくださったようでした。

 今度はダリア様にお話を聞きに行く番です。

 私にとってダリア様とは、今まで会ってきた人間の中でもトップクラスに単純な思考回路をした方でした。人間を複雑にしている要因たる共感性やら正義感やらを全て抜き取ったシンプルな方です。ですので、私はダリア様を特に興味深い観察対象にしています。



 ダリア様を探しますと、図書館の外で煙草を吸っていらっしゃいました。彼曰く、生前の癖なのだそうです。彼の近くに寄ると、いつもシガレットの香りがするので分かりやすいです。

 ティーセットを持って近寄りますと、彼は自分を指差し、僕ですか、と尋ねました。はい、貴方様です。

「ダリア様、少しお茶致しませんか」

「んー、確か仕事も入ってなかったし、いいですよ。ヒマワリさんとなんて、珍しいですね」

 煙草を吸い殻に押し付けまして、煙を蒸した後、彼は私を図書館内にエスコートしてくださいます。

 細かな気遣いをするのは、決して彼が紳士的だからでも、格好をつけたいからでないことも存じ上げています。それが彼に染み付いた動作であるだけなのです。

 近くの机にティーセットを置きまして、おしぼりを手渡しますと、彼は手を拭いてからバタークッキーをお召しになります。私は向かい側に座りまして、彼の表情がどう変わるかを眺めます。

 彼は苦笑すると、甘いな、と呟きました。

「甘い、ですか」

「やっぱクッキーってこういうものですよね。レーズンバターサンドだらけで味覚が麻痺してて」

「美味しくないですか?」

「いえいえ? 普通に食べれるくらいには美味しいです」

 同じ高レビューのクッキーでも、渡す人によってここまで反応が違う。当人の好き嫌いもあり、当人の味覚もある。やはり、何十億にも渡る味覚の多様性には敵いません。

 ダリア様は紅茶に手を掛けますと、そのまま飲み始めました。ダリア様とヒナゲシ様、そしてシオン様は苦いものに耐性がある──データベースどおりです。

 それで、とダリア様は話を促します。彼は話の回し方が上手い、というのが私の主観です。私は膝の上に手を置きまして、自分の経験をお話ししました。

 マニュアルも過去のデータも存在しない上で、参照すべきデータは過去の自分の接触方法。そこには大きな問題があります。私には、人間として誰かと関わった記憶が無いのです。

 私はこの図書館にやってきたとき、シオン様との契約において、私が人間として生きてきた記憶の全てを献上いたしました。今の私にあるのは、人形として御主人様をお慕い申し上げていたときの感情のみです。

 ダリア様はこくこくと頷いて、私の話を黙ってお聞きになられました。私が意見を求めますと、ダリア様はティーカップを少し掲げて、足を組んだのでした。

「いやー、ヒマワリさんの話は分かりやすいなァ。『困ってる』と言いながら自慢する話でもなく、現状を的確に説明した上で課題を求める。報告の神ですねェ」

「は、はぁ、お褒めいただき光栄でございます」

「でも、僕はそれほど考えてないですよ。確かに、自分の今まで人と接してきたことを応用してはいますけどね」

「しかしながら、ダリア様の対応が勉強になると、アヤメ様が、」

「え、マジで? 僕が? それは無いって」

 ケラケラと嗤い、ダリア様は手を振りました。バタークッキーを人差し指と中指で挟み、口に入れます。たいへん寛いだ様子で、私をじっと見つめます。

 三白眼の、真っ黒な瞳。瞳孔が開きっぱなしなぎらつく眼光。血色の良い唇が微笑んでいます。とても野心的で、魅力的な表情でした。

「僕はやりたい放題やってて、この図書館の審問官だなんてふざけて呼ばれていますよ。

僕がするのは、導くのではなく、選別すること。救える人と救われない人を見極めて地獄に堕とすこと」

「それは……何の為に?」

「だって、今ですら人の話なんてまともに聞かないで滞り続ける奴らに希望なんて無いでしょう。それなのに『生き返りたい』とか無礼にもすぎません。

僕がしてるのは、僕が納得できる自殺志願者に、もう一度チャンスを与えて、どんな生を生きるか楽しみに待つこと。司書ではありませんよ、もはや」

 そう仰いますダリア様は、悪戯っぽく笑っています。その様はまるで、妖しい女狐のよう。

 嗚呼、ダリア様は少しも、他人を救おうだなんて思っていらっしゃらない。死んで退屈になったこの永劫の時を、他人にチャンスを与えてその中で踊り狂うのを眺めることで暇を潰すということだ。

 ここまで「誰かの為」でない、思いのままに導きすさぶ彼を眺めていますと、私は価値観がアップデートされるような感覚に陥ります。司書とは誰かを救うためのものではないのでしょうか。

「それで、どなたかを救うのですか?」

「救う? さぁね。カウンセリングの結果別の人が持つこともあるし、よくは知りません。

僕が好き勝手喋ってるだけで、救われてる人は救われてると思うんじゃないですか?」

「それは……私は、どうやって仕事したら……」

「好きにやりなよ。シオンだってそのつもりで仕事を任せてるはずですよ。僕の仕事のやり方に口出すの、センパイくらいだし」

「その……この仕事は、自己満足のための仕事なのでしょうか……」

 嗚呼、いけない、口に出してしまっては、不快感も煽る上に、私もこの疑念を無かったことにはできなくなってしまいます。

 マニュアルの無い仕事。記録の無い仕事。思ったことを話す仕事。それで本当に誰かが救われているのでしょうか。本当に誰かを救うとはどういうことなのでしょうか。

 無論、この仕事は記憶を収集するための仕事である、と割り切ってしまえば、なんてことはありません。相手を騙して記憶を抜き取り死を取り上げる。そんな仕事を、簡単にできるはずです。

 だとしたら、この仕事は一体、何のために──

「……あはっ! ヒマワリさん、イイ顔しますよねェ」

「え……? 私が、何か変な顔でも……」

「んーん、人間っぽい顔したなァって思っただけです。たとえるなら、オーバーヒートして目がぐるぐるしてるみたいな。そういう顔って、完璧なメイドたるヒマワリさんにはなかなか無い顔って感じして超レアだよなァって……」

 ダリア様はそう言ってにやりと笑います。頬は赤く、まるで興奮してるようで、どうして喜んでいらっしゃるのか分かりません。

 私が「イイ顔」をしていたから、嬉しい? サイコパスですから、驚きがあると面白いのでしょう。完璧なメイドたる私が混迷してる様が面白かったのでしょう。

 私が、混迷?

 データ同士の関わり方を理解できないのなら、それは記憶や記録の死を意味します。そこで彷徨うのは、得た知識や経験の死を意味するではありませんか。

 迷ってはいけません。仮にでも結論を出さねばなりません。私は、変わらなくてはなりません。

「ダリア様は私の質問に、何とお答えするのですか……?」

「ん? 『そうだよ、救済なんて自己満足に過ぎないじゃん。誰かを救いたいなんて願いは往々にして自尊心を保つための願いだよ。そこには悩める誰かがいて、それを救う自分が、それを完璧に行えるという、相手を解き明かすことができるという圧倒的優越性を快楽にしているにすぎないよ。シオンだってアザミだってそうでしょう?』……こう答えるかな」

「私は……そんなつもりで、仕事をしたいわけではないのですが……」

「僕は割とそんなつもりでやってますよ。ヒマワリさんが悩みながらやりたいなら止めませんけど……」

 返す言葉が無くなってしまいました。嗚呼、司書とは何なのでしょう。解析もそれに即したデータ収集も無く、ただ私の思いついた思考結果を提供するだけ。それでは、問題解決AIと同じではありませんか。

 トラブルシューティングの、何がいけない?

 クッキーが無くなってしまって、私も言葉を失ってしまって、沈黙してしまいました。ダリア様は、他に聞きたいことは、と私を探ることも無く──否、探った上で、一番面白くなるように──お尋ねになります。

「……いえ、もう大丈夫ですわ。ありがとうございます」

 そっか、と言うと、ダリア様は皿を重ねて、席をお離れになります。それでも私は動くことができません。

 突き放すような態度だとしても、私は苛立ちも悲しみも覚えません。私は彼をよく知っているので、彼に一切の悪気があるわけではないのは分かっているからです。むしろ、喜びすら感じます。

 こんなエラー、ダリア様でなければ与えてくれなかったでしょうから。

 私はティーセットを片付けますと、キッチンに戻ります。もうカトレア様はいらっしゃいませんでした。洗い物を済ませたところで、私は何をしていいか分からなくなってしまいました。

 ツバキ様のお手伝い。家事のお手伝い。いつもならばすぐに思いつきそうなものですが、私はメイド、他人がいなければ何もタスクは生まれません。

 仕事についてもう少しデータを集めましょうか? 誰に聞いても、結局同じところで絡まってしまう自分が思い浮かびます。得られた知識や経験の繋ぐ先を見失いまして、インターネットの海で縛られてしまう私の姿です。

 とにもかくにも、このバグを治さなくてはなりません。トラブルシューティングをする際、普段私はどうしているでしょうか?

「……そうでしたわ、あれがありましたわ」



「姉さん……足の踏み場が無いんだけど……」

 振り返りますと、スミレが食事を片手に立っていました。私のために料理を運んでくださったようです。

 慌てて床の上に散らばった紙を纏めますと、机の上に置くよう指示させていただきました。スミレは私の机の椅子に座ると、眉を下げて、困ったように笑うのでした。

「何か悩み事?」

「悩み事、というより、バグの修正方法を考えていましたから、どちらかというとトラブルシューティングかと」

「そういうのを悩み事って言うんだよ。何かあったの?」

 こうしてじっと眺めていますと、やはりスミレの方が人間らしさを感じます。目を少し細める仕草も、頬杖をつく様も、声色の変化も。そこに羨ましさは感じませんが、距離感のような虚さは感じます。

 人間に寄り添いたいから、人間になったスミレ。人でなしであり続ける私。そこには、大きな差があります。

「司書の仕事を拝命しました。しかしながら、決まったマニュアルやモデルケースが存在致しません。ダリア様に聞いたところ、司書の仕事とは自己満足の延長だとお聞きしました。

そこで、私はその自己満足の延長を如何にして完璧に行うか、シミュレーションをしていたのです」

「相変わらず姉さんは賢いなぁ。これ、全部考えられるケースの想定だろ? 俺には努力が足りないなぁ、と思わされるよ」

「いえ。脳でシミュレーションしていても、途中でワーキングメモリから外れてしまいますから、紙に起こして記憶しているだけですわ」

「それで、何が悩みなの?」

 スミレの穏やかな声に、私は我に返ります。こんな簡単な質問にも私情を挟んで答えてしまうなんて、本当に非効率的です。私は紙を積みまして、改めて回答するのでした。

「自己満足の延長は、如何に人を救う司書の仕事を為し得るのですか?」

「うーん……俺はそもそも、自己満足の延長じゃないと思ってるよ。誰かを救えるなら、動機は何でも良いと思うよ」

「しかし、それにしては『仕事のやり方』が定まっておりません。中には『自分のしたいようにする』と仰る司書もいらっしゃいます。そのような状況で自殺志願者と取引をして、記憶を蓄積するこの仕事は、何のために存在しているのですか?」

「……凄いな、考えたことも無かった」

 考えたことも無い──スミレの方が、余程賢いのに。私は所詮一体の人形でしたから、このような思考回路はコンピュータの真似事にすぎません。

 スミレは目を逸らして小さく唸りますと、そうだな、と続けました。

「俺は、人間に寄り添う仕事をしたいと思って、今の仕事をしてるつもりだ。ちゃんと人間の情緒を理解して、少しでも救いになればと思ってる。

でも、それは俺たちがそうプログラミングされたからではなくて、人間と関わることで生まれた個としての意識なんだと思う」

「えぇ、ごもっともですわ。確かにスミレは、元のAIを凌駕した人間性をお持ちですから」

「だけど、そう考え始めたのって、マスターがいたからだし、シオンがいたからだと思ってる。シオンだって自己満足の延長で俺たちを友達にしたわけだけど、俺はシオンに救われたと思ってる。

だから、シオンにとってそれが仕事だったとしても、救われた側から見ればどうでも良いことなのかなって」

 スミレは頬を掻いて、照れ臭そうに仰います。非常にオーセンティックな仕草だと私は思います。

 シオン様に救われたとき、私はどうだったのでしょうか。かつて人間だった記憶は消え去り、人間でいながら人形だった記憶しか持ち合わせていない私には、どのくらいストレスを抱えていたのかは存じ上げるところではありません。

 ただ一つ覚えているのは、私は、いっそ死んだとしても、あの頃の生活を無かったことにしたいと、強く願っていたこと。シオン様はそんな私に、手を差し伸べてくださいました。

 ──人間としての生を捨て、人でなしとしての生を選んでくれるならば、僕は君に必ずや人間の体を選んだことを誇りに思わせるだろう。

 不安を、絶望を、恐怖を、不信を、シオン様は言葉一つで打ち砕いてみせました。私の言った仮説を上手く反駁してみせて、私の理論の先を言いくるめてしまう。返す言葉が無くなって、私は呆然とした覚えがあります。

 彼は、人間ではないのに、非常に人間らしい、と思った記憶があります。同じ人形として、私も他人を救える存在になりたい。そのためには、決して研究を惜しまない。

 私のように、人生を捨てたいと思っている人々のために、もう一度チャンスを与えたい──それが、私の原動力なのでしょう。

「姉さん、俺が悪かったよ。思ってることがあるなら、言って?」

「思ってること、とは?」

「今考えてること。俺の意見は要らないの?」

 この質問は実に不適切でしょう、人間独特の語用論的な言い回しです。要らない、と答えるのは間違いになるからです。

 しかしながら、要らないわけではありません。スミレの意見は聞いてみたいと思っています。ですので、できる限り圧縮してお伝えしなくてはなりません。どこを端折れば良いのか。

 そう、頭を回しているうちに、一瞬手の甲が冷たくなりました。液体が触れたような、そんな感覚です。次第にその感覚は頬に伝播しました。

 冷静に判断しましょう。目から液体が流れ落ちています。人形ではないので、水漏れはしません。だとすれば、私はきっと──

「姉さん? 大丈夫?」

「……分かりません、わ……分からないんです、どれだけ考えても、分からない……っ」

 近くの布団で目元を押さえます。じわりと染みが滲んでいきます。

 私、泣いたことなんて、無いのに。泣き方すら分からないのに。それでも本能に焼き付いた「泣き方」は、私に絶えず涙を流させます。少し、懐かしい──そう感じるのは、私が生前、泣きながらシオン様の元を尋ねたせいでしょうか。

 すると、温かい物が私の背中を撫でました。スミレの手でした。人間ですから、体温があるのは当たり前です。それでも驚く私の隣で、スミレは、姉さん、とまた落ち着いた声で言うのでした。

「姉さんが泣いてるところ、初めて見たかも。泣かないで、って言うべきところなんだけど、泣いていいよ、って言いたくなってしまうな」

「わたくしは……私は、どうして泣いているのでしょうか……?」

「ずっと独りで考えてたんだ、キャパオーバーしたんだよ、たぶん。思いつくことからでいいから、話してごらんよ」

「……私は……他の人間を、救いたいと思っています……ですから、司書として、完璧な回答ができるアドバイザーでなくてはなりません。ですが、完璧な回答を導き出すには、あまりにデータが少なくて……自分勝手になんて、私にはできない……常に完璧でないと……」

 私がぽつりぽつりと言葉を溢す間、スミレは私の頭を撫でていてくれています。こういうとき、なぜ私が姉になってしまったのかと考えることがあります。

 私は姉にも、完璧なメイドにも相応しくないのではないか、と。人でなしでい続けることに、何の意味があるのか、と。

 ここまで考えても、私は答え一つ導き出せない。人間は複雑だから、仕方無いよ、そんな慰めを貰っても少しも慰まない。私はただ、できなかったことに泣き続けるだけです。

「できない、なんて、怠慢です……分からないのも、怠慢です……っ」

「そんなことないよ。姉さんは、俺よりちゃんと分かってる。分からないまま出発しない。姉さんのそういうところが、誰かを救えると思うよ」

「私に価値はありません! 価値があるのは、私が導き出した回答だけです……! 私がどう思うかなんて、自殺志願者には必要ありません!」

「良いと思うよ。姉さんはそういう司書になれば良いんだよ」

 顔を上げると、スミレが私を微笑んで眺めています。でも、そこに見え隠れするのは、少し渦巻いた感情──嫉妬? 劣等感? 憤怒? 憐憫? 何にせよ、言葉は全てを物語ってはいません。

 ですから、納得はいきません。

「嘘です……そんな顔で、そんなことは言いませんわ!」

「……姉さんはお見通しだなぁ……嘘じゃないんだ。ただ、俺は……少し、羨ましいよ」

「……羨ましい?」

「そうやって必死に仕事のことを考えて、研究に没頭して、誠意ある存在であろうとすることが、羨ましい。俺は、不完全であることを言い訳にして、ちゃんと物事を考えないから……

姉さんみたいな司書が必要っていうのは、本当だよ。自分勝手に振る舞う必要なんて無い。自分の意見を言わなくても良い。姉さんは、姉さんだから、司書に抜擢されたんだよ」

 スミレが泣きそうな顔をするので、私は思わず彼の頬を撫でました。羨望で泣くのでしょうか。私も羨望で泣いていたのでしょうか。いえ、それでは答えになっていません。

 今度名前を呼びかけるのは、私の方です。じっと彼の赤い目元を見て、尋ねるのです。

「どうして泣いているのですか?」

「分からないなぁ……」

「羨ましいから、ですか?」

「たぶん。こんなに羨ましいと思ってる姉さんが、自分を呪うから、悲しいんじゃないかな」

「そう、なのですか……私は、どうしたら良いですか?」

「どうもしなくて良いよ。解決しなくていい。悩んで、考えて頑張ってるのも、姉さんだから。でも、姉さんには元気でいてほしい」

 解決しなくて良い──アヤメ様からお聞きしたことでした。それを、スミレも同じことを仰います。私はそれを怠慢だと捉えました。アップデートの必要は無い、と彼らは仰るのです。

 否、どちらかといえば、機能変更の必要は無いと仰っているのかもしれません。タイマーアプリにカウンターは求められていないように、シューティングゲームにロールプレイング要素は含まれないように。

 アヤメ様はきっと、緊張するほどの仲がニーズに合っていて、スミレはきっと、他人の真似事をしてほしくなくて。私のやり方でやってほしい、ということなのでしょう。

 私は涙を拭いますと、分かりました、と答えました。別に、何も分かってはいません。どのように人間と接していいかすらも解決していません。未だ完璧ではありません。されど、私にとっては、この勉強し続ける立ち位置で良いということです。

 スミレという、聖夜という弟がいて、私は幸せ者だと思います。



 数日謎の図書館にて足止めを喰らった自殺志願者を迎えたのは、黒く長い髪をした、メイド姿の女性だった。その奇怪さに、自殺志願者は目を剥く。メイド姿の女性はぺこりと頭を下げると、こちらへどうぞ、とてソファへと案内した。

 彼女はこの図書館の勝手を話した。ここは此岸と彼岸の間であり、自殺した人々にとっての波止場のようなところである。精神的に落ち着き次第、ある契約を提案したい、とのこと。

 早く死なせてくれ、と言った自殺志願者の様子を見て、女性は首を振りますと、今に致しましょう、ときっぱりと告げた。

「私がご提案致しますのは、貴方様の忘れたい記憶を私どもに提供するのと引き換えに、もう一度現世で生きる機会を与える、というご契約です」

「は……? 死ぬために死んだのに? 今後ずっと眠れると思ってきたのに!? ふざけんな!」

 自殺志願者は机に拳を叩きつけて憤る。眉を寄せて、歯を噛み締めて、手を震わせる。

「どうして死んでもなおこんな目に……! やってられるかよ……!」

「私どもは現世でやり直す上で、いかに今後の生を生きるかどうかもご提案させていただきます。自殺未遂に際した今後の身の振り方や、ご家族にどのように伝えるかなど、私どもがサポート致します」

「知るか……! まだ生きるなんて考えられるかよ!」

「でしたら、まずはカウンセリングから致しましょう。なぜ自殺志願者になったかを把握してからでなければ、問題の根治は不可能です」

「……っ、どうせあんただってなァ! 俺のことを馬鹿に、」

「なぜ馬鹿にできましょう? 私はまだ貴方様の思考のデータを一つも得ておりませんわ。私の手元には事実だけがございますわ。

ですから、貴方様の解説を拝聴しとうございますわ。なぜこのような行動を取ったのか? なぜこのような生き方を選んだのか?」

 怒鳴り声を上げた自殺志願者だったが、目の前の女性の顔色は変わらない。端正で歪み無く、高貴な紫色の瞳は淀みない。口調も淡白で、浮かべている笑顔だけがかろうじて白い肌に桃色がついている。

 自殺志願者は手を開き、額に持っていくと、大きな溜め息を吐いた。

「……こっちが参ってるっていうのにあんたは……人間じゃねぇよ……」

 目の前の女性が口を閉ざす。じっと大きな紫の目で自殺志願者を見つめる。その動きはさながらロボットか何かのようだった。

 しばらく沈黙すれば、自殺志願者も言葉を紡ぐことができなくなる。さすがに苛立ったのか、長い息と共に、肘掛に手を置いて続けた。

「だいたい、何も知らねぇ奴が何を言っても無駄なんだよ……」

「はい。ですから、貴方様に教えていただきたいのです」

「少しでも理解しようとする気があんのかよ、お前に……」

「はい。私は貴方様の行動を鑑みまして、幾つかの思考パターンを推測致しました」

 そう言って女性が差し出した一枚の紙には、フローチャートが書かれている。その先に、「存在し得る思考回路」が記述される。自殺志願者のとってきた行動に対する考察まで描かれていた。最後には、考え得る「第二の人生」の送り方についても書かれている。

 さながら、自殺志願者の人生を概観したレポートのようだった。

 自殺志願者は薄気味悪さを感じながら、紙を戻す──彼の内面は確かにフローチャートでほとんど解明されていたからだ。

「……気味悪い」

「この推論が、正しいか間違っているか……私はそれが分かれば、妥当性の高いサポートを行うことができます。如何でしょうか?」

「俺の人生を好き勝手するんじゃねぇ……! 何であんたに言われたとおりに生きなきゃなんねぇんだよ!」

「貴方様には人生のマネジメントをする能力が不足しているからです」

「は……?」

 メイドは小さく息を吐くと、蕩々と、淡々と、自殺志願者を言葉の羅列で圧倒した。

「自殺を選ぶということは、たいてい自らの人生設計について考えることができない状況に陥っております。ですので、私どもはあくまで貴方様に味方する第三者として、再び人生設計をやり直す機会を差し上げたいと思っています。今の貴方様の精神状態では、セルフマネジメントは八十パーセント不可能だと判断致しました。そこで、私どものサポートがあれば、この確率を上げることができます」

「な、なんだよ、わけわかんねぇ……」

「総括致しますと。

貴方様自身が自らの人生を疎かにしているのですから、我々がサポートして、改めて自らを見つめ直す機会を差し上げたいということです」

 自殺志願者は、女性の論理に黙り込む。理詰めにされ、正論を言われ、感情を堰き止めて不機嫌そうに口を閉ざす。

 女性はきょとんとした顔で、申し上げ忘れていましたが、と呟く。

「先ほどご覧いただいたとおり、貴方様は自らの感情に関しても管理が不足していると私は推測しております」

「ぐ……」

「ですので、私からはまず、お話ししやすい司書の紹介からさせていただきたいと思います。貴方様は生前男性と関わる機会が多かったようですので、」

「……もういい、あんたに話すよ……」

 自殺志願者は頭を掻きながら、そう言葉を漏らした。女性が目を丸くしたまま固まる。

「誤解するなよ。俺は生き返るつもりも無いし、自分の人生を決められる筋合いは無い。でも、生前カウンセリングを受けたことは無いから、っていうか、受ける暇も無かったから、話したいだけだ」

「私でよろしいのですか?」

「いろいろと話す手間が省けるし……見りゃ分かんだろ、俺の考えてることなんか」

「八割は、妥当な推測であることを自負しております。残りの二割を、貴方様の訂正で改善致しましょう」

 根負けした自殺志願者は、手を解き、ソファに寄り掛かった。女性は背筋を正すと、差し出した紙を全て纏めて、一冊のノートを提示した。白い紙には、また無数の記述がなされている──

 そんな様子を、遠くから二人の男性が眺めていた。司書長・ヒナゲシは、本の整理を行っていたツバキを呼びつけて、遠くからメイド服の女性・ヒマワリの初仕事を見守ることにしていたのだ。

「上手くいっているようで何よりですね」

「えぇ。ヒマワリはスミレと違って、とにかく内向的な人でしたから、司書の仕事はしたがらないのではないかと思っていました」

「案外、この図書館一のアドバイザーかもしれません。この期間でここまで自殺志願者を研究して、事実とそこから生み出される推論で助言する……凄いな、と思います」

「そうですね。アザミとあなたが直感派なら、ヒマワリは完全に論理派でしょう」

 ツバキは抱えた本を本棚に入れながら微かに笑う。ヒナゲシはツバキの持つ本を幾つか引き受けて、ハイヒールを生かして上の方に本を入れていく。

「アザミもあなたも、人間と関わってきた経験から相手を推論するのが得意な方だと思っています。ですが、ヒマワリは経験がほとんどありませんから、どうするのでしょうか、と。

蓋を開けてみれば、結構シオンに似てるのかもしれませんね」

「そうかもしれません、理屈で相手を納得させていくところとか」

「本当に彼女は、シオンを尊敬しているんですね」

 ツバキがヒマワリの方を振り返って微笑む。ヒナゲシはツバキの横顔を見ながら、笑みを溢し、そうですね、と優しい声で答えた。

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