イドと超自我
「何よッ! 前見て歩きなさいよこのクソアマッ!」
キンキンと高い声が響く。耳を塞いだのは、アザミだった。そう、この発言はアザミのものではなかった。
アザミは眉を寄せ、目をつり上げて──彼女にしては静かだったが──幼い少女を威圧した。
「んだァ、テメェ……それが人に言う態度かァ?」
◆
ゴシックロリィタの魔女・アザミは、一人の少女を連れてきた。彼女は嫌がって抵抗しているが、アザミの前には無力だ。隣で青い目をつり上げて怒っている少女のことも気にせず、腕を掴んだまま歩いてくる。
シオンの隣には、長い黒のシフォンスカートを履いた、タートルネックの女性が座っている。黒く大きなパーカーを着た少女を見ると、リンドウ、ときつい声で呼び掛けた。赤い目は光も持たずに死んでいる。
「どこ行ってたの、あなた」
「煩いなァ! 早く家に帰らなきゃと思って探し回ってただけだし! っていうか、誰だよその男!」
「リンドウ!」
女性は立ち上がり、リンドウと呼ばれた少女に近づいていく。アザミが、おい、と言って手を出すのは間に合わず、女性はリンドウの頬を力強く叩いた。リンドウがふらりとよろけ、頬に手を当てる。
「あ、こら……!」
「謝りなさいッ!」
長い黒髪に、骨と皮しか無いような細い四肢。そんな細い喉から出たのは、凄まじい憤怒の込められた大声だ。シオンとアザミも、びくりと肩を震わせる。
リンドウは涙目になって、知らない、と小さく呟く。
「何であたしが謝んなきゃいけないわけ!?」
「あなたが失礼なことを言うからよ!」
「はぁ!? 今のが!? 意味分かんないッ!」
「いいから黙って言うことを聞きなさいッ!」
再び手を振り上げたとき、今度はアザミがその手首を掴んだ。女性は弾かれるようにアザミの方を向く。
アザミは目を伏せると、やめなさい、と静かに言った。
「図書館では静かに」
「……ほら、お前の方が悪いんだよ、この猫被り女」
「……っ、あんた……!」
「テメェもだよクソガキ。話になんねぇじゃねぇか」
リンドウも女性も、アザミの言葉に黙り込む。アザミは一度自分の掴んだ細い腕を見た後、優しく手を離し、シオンに女性の方を渡した。
「困った自殺志願者だなァ。姉妹か何か?」
「まだ調べられていない。コスモスさん、彼女は妹なのか?」
「……はい」
シオンの近くに立っているコスモスは、こくんと小さく頷いた。リンドウは舌打ちをして顔を逸らす。
分かった、と言うと、シオンはコスモスを手招いた。コスモスはその手とシオンとを見比べると、よく分かってないような顔で首を傾げる。
「君と話したいことがある。他の司書も呼んでこよう。ついてきたまえ」
「は、はい……?」
「あー、そういうことか。ボクにはこっちを任せるわけね」
「そちらにはキキョウとアヤメを連れて行こう。こちらはヒナゲシとツバキとスミレで対応する」
アザミは頬杖をつくと、厄介なことになったねェ、クソガキ、とリンドウに話しかける。リンドウは不服そうに頬を膨らませ、煩ェクソガキが、と返すのだった。
二手に分かれた、コスモスとリンドウ。彼女らは、決して自分の名前を名乗らない姉妹だった。
◆
黒く長い髪を三つ編みに結んだ、片目の隠れた女性。赤い瞳がじっとりと司書たちを眺めている。黒い服の裾から覗いた細い手足がか弱さを引き立てる。
コスモスと名乗った女性に向かい合ったのは、シオンとヒナゲシだ。ツバキは一冊の本を持ち、和やかにコスモスを見つめる。
「ようこそ、自殺志願者。ここはアネモネ図書館。此岸と彼岸の境に存在する異世界だ。君は自殺してここにやってきた、違うか?」
「違いません、けど……どうしてそんな世界に? ここは地獄なのですか?」
「地獄に行くよりも前の場所だ。生から死への中継地点と言えよう」
「はぁ。私は、審判でも受けているのでしょうか」
怪訝そうな顔をしたコスモスに対し、安心してくれよ、と言ったのはスミレだった。椅子に手を掛け、にこりと端正に笑った。
「ただ、コスモス……さん? に少し話を聞きたいだけなんだ。そして、交渉させてほしいんだ」
「臓器提供でしょうか……? 構いませんよ。私の死体は好きにしてください」
「え、えぇっと……どっちかっていうと、生きてほしいな、って思ってて」
「生きる?」
コスモスがきょとんとした顔で繰り返す。スミレはこくんと頷き、そうなんだ、と言った。
「ここは、アネモネ図書館。人の記憶と歴史を保管する場所なんだ。それで、こうやって自殺を願った人たちに、記憶の提供をお願いしてるんだ」
「記憶……? どうせ死ぬのでしょう? 構いませんよ」
「そういうわけじゃないんだよな……その、記憶と引き換えに、もう一度のチャンスを与えてるんだ」
「もう一度……? 何を? まさか、殺し損ねましたか?」
殺し損ねた、という言葉に、司書たちは口を噤む。
ツバキは本をぺらぺらと捲ると、ふむ、と言って口元に手を当てる。青紫の着物の袖がたらんと垂れ下がって揺れる。
「彼女の名前はデータが破損していますね。どうやら、自殺する前に両親を殺害したようです」
「そうです、リンドウがそれを望んだので」
「心中……?」
「はい。親殺しに生きる術はありませんから。それでも生きたいと言った彼女を殺しました。それは間違っているので。そしたら、リンドウは私を刺し返しました。そうして、全員死にました」
淡々と述べるコスモスに、司書たちは冷ややかな狂気を見た気がした。
人を殺してここにやってきた人といえばダリアだろう。彼もまた、自分の殺人について一切の躊躇いも無く、むしろ得意げに述べてしまえる。
少なくとも、彼女には何の感情も無いようだった。彼女の表情は、リンドウを殴ったときのように激情を示すことは無く、無表情を保っている。
「……少し、不躾だとは思うんですけど。なぜ、両親を殺したのですか?」
「なぜ……? 私は殺していませんから……殺したのはリンドウです。私はしていません。私はただ彼女が殺したのを眺めていただけです」
「でも、姉妹だったのでしょう? ならば、殺したいと思う理由くらいは分かるのではないですか?」
「理解はできますが、私はしません。だって、全て私が悪いのですから」
ヒナゲシの突っ込んだ質問は、コスモスの強硬な返答の前に打ち砕かれる。
私が悪いのですから。私は何もしていません。全てはリンドウがやりました。
彼女はこの二つの言葉を繰り返す。何を聞いても、いえ、私が悪かったのです、の連続だ。
シオンはヒナゲシに耳打ちする。ヒナゲシはこくんと頷くと、コスモスさん、と穏やかに問いかける。
「では、リンドウさんがどうして親を殺したのか、お話ししてくれませんか」
「はい。リンドウは親が嫌いでした。親はリンドウに過保護であり、虐待をしていました。彼女が機嫌を損ねると、食事とお金も出してくれなくなるような親でした。彼女は親の言うことを聞かないと料理の一つも食べられなかったのです。彼女は親から押し付けられた服を着ました。彼女は親から言葉無く押し付けられた大学を選びました。彼女は親を裏切れば命ですら守れないと判断して、親を規範として生きてきました。外では暴行せず可愛がるので誰も気がつきませんでした。今、口を開けば親を傷つけるだろうと恐れ口を塞ぐ日々でした。彼女はずっと誰かに理解されたいと願っていましたが、結局誰にも理解されないまま、過食衝動に襲われ、それが妨げられたある日、彼女は親を殺しました。ご飯を食べさせろと彼女は言い包丁で二人を刺し殺しました」
コスモスは膝の上に手を置き、背筋を伸ばしてそう休み無く言う。ヒナゲシの顔は曇り、シオンは顔を顰める。スミレが、そうか、と静かに呟き、俯いた。
そんな惨状が起きているにもかかわらず、コスモスはぼーっと一点を見つめているだけだ。話を聞いているのか、聞いていないのか、それすらも彼女の虚妄の黒真珠の向こうだ。
シオンは顔色を変えない。コスモスがするように、同じ淡白さで話す。
「……それは、君はどう思っていたんだい」
「私ですか。私は、それは私が子供だからいけないのだと思っています。私は人の感情も読まないで暴走してしまう人だからです。我慢のできない人ですから、私が怒られるのは当然でした。ですから、親が悪いとは思っていませんでした。親に何も言わずに食事を増やし、お金もろくに稼がず全てのお金を趣味に費やし、家の家事もろくにしないからいけないのです。全て身の回りのことを私ができていれば親は怒りません。ですから、完全にあの怒りは理不尽と不合理を極めているのです」
「……本当に?」
「はい」
コスモスの視線は揺らがない。ずっと遠くを見つめている。シオンが曇った顔をしていると、ツバキが寄ってきて、来てください、と囁いた。
「少し席を外すよ。悪いね、コスモス」
「はい、お構いなく。私は気にしませんので」
取り残されたヒナゲシとスミレは、コスモスの身の上について聞き出そうとする。年齢、住まい、趣味──何を尋ねても、どうでも良いことなので、と、彼女は答えようとはしなかった。
◆
「こちらをご覧ください」
彼女の本を開き、ツバキは苦々しく言う。シオンはページを見ていくと、一点を指差し、困ったな、と呟いた。
「これでは、そもそも元の世界に戻れまい……」
「如何いたしましょうか?」
「……スカウトも念頭に入れておいた方が良かろう。悪いな、ツバキ」
「いえいえ、ご相談に乗っていただいてありがとうございます」
「君にはいつも助けられてばかりだな。データをクロッカスに送信しておこう、アザミもきっと理解してくれるだろうから」
シオンに言われるまま、ツバキは本の一部をPDF化してクロッカスに送りつける。図書館の外にて、シオンはシガレットを口に咥えて溜め息を吐いた。吸うかい、と尋ねられ、ツバキも一本煙草を咥える。
ツバキは煙を蒸しながら、シオンの名を呼んだ。
「あなたの家庭も、ネグレクトがあったと聞きました。そういう家庭は、このようなことになるのでしょうか。私には生憎、よく分からないもので」
「あぁ、そうかもしれないな。僕の家では、瑠衣……いや、アザレアがトップだった。久々に帰ってきた両親を暴力で従えていた」
「それは……なんというか、凄い、ですね」
「そうさ。いつも二人でやっていたのに、デカい面して帰ってきたから、アザレアがあの家の道理を教えてくれたんだ。
料理を作るのは僕。洗濯をするのも僕。金銭管理も僕。全ては彼のために。彼に奉仕できない人間は、榊原家に存在する価値は無い」
至極無感情に述べるシオンに対し、ツバキは目を細め、黙って煙草を咥えていた。何も返さないツバキの顔を伺うと、悪いな、とシオンは言った。
「これが僕らの世界の常識だったんだ。たとえ、普通の人間と異なっていたとしても……」
「いいえ、そういうことではありませんよ。ただ、本当に……世の中とは、平等に出来てはいないのですね」
「そうだろうな。こうして煙草に縋るような連中など、知ったことではなかろう」
「……ヒナゲシも──」
「そうだな。何を考えていたのか、後で聞こう」
煙を大きく吐き出して、シオンは背もたれに寄りかかる。ツバキは何も言わずに、ミルクティー色の瞳で、そんなシオンを眺めていた。
◆
「おーなーかーすーいーたー! 何か食べさせてくれないと話さないからァ!」
「あー、煩ェ煩ェ。これだからガキは嫌いなんだよな」
「ガキじゃないし! お前のそういう脳が低能でガキ臭いんだよ!」
「ったく、一理あるのが悩ましいなァ……」
アザミは金眼鏡を掛け直し、大きく息を吐いた。後ろで見守っていたカトレアが、料理作ろっか、と伺うように声を上げる。アザミは振り向くと、じろりと赤い目で見上げた後、あぁ、よろしく、と言った。
「う、うん。リンドウちゃん、何食べたい?」
「ハンバーグ! あと、ご飯と味噌汁が食べたい! それと、お魚と唐揚げと、」
「おいおい、どんだけ食うんだアンタ。食い切れんのかァ?」
「……分かんない……けど! 一度で食べきれなくても、すぐお腹が空くから!」
「さすがにお肉二品はやりすぎかな……じゃあ、お姉さん、ご飯と味噌汁とハンバーグ作ってくるね!」
「お姉さん? なんかムカつくな。どうしてここの人はそんなにデカい面したくなるわけ?」
カトレアの顔が微かに歪む。アザミは舌打ちすると、良いからさっさと行けや、とカトレアを手で追い払った。むすっとしたカトレアが去っていくと、アザミは隣に座るアヤメに目をやる。
アヤメは緊張しているようで、酷く硬く構えている。アヤメ、と優しく呼べば、アヤメはびくりと肩を揺らして応答した。
「は、はいぃ!」
「なに緊張してんだよ。所詮年下の女だぜ?」
「い、いや、その……後輩とか、いたこと無くて……」
「だーかーらー! 何でそうやってあたしを可愛がろうとすんの? 意味分かんない。あんたらにはあたしがどう見えてるわけよ?」
「過度に子供扱いしちゃ駄目だぜ、お嬢さん方。そもそも、リンドウさんは幾つなんだ?」
アヤメとアザミを嗜め、キキョウが笑顔で話しかける。リンドウは足をバタつかせると、十四歳、と答えた。
「……何よ、ガキだと思ってるの?」
「お嬢さんこそ、俺たちを『大人』とラベリングしている。この図書館に年齢の区別は無い。あなたがどれだけ幼いことを気にしていても、俺たちはそんなこと気にしない。安心して良いぜ」
「……良い人ね」
リンドウは口を尖らせて足を止めた。
黒髪を二つのお下げに結んだ、丸眼鏡の少女。サイズオーバーなパーカーを着て、顔をフードで隠したがる。その袖から見える手足は少し細い。
瞳のターコイズを緩く輝かせると、リンドウは目を逸らしたまま続けた。
「……あたしの言うこと聞いてくれる人、周りにいなかったから……彼奴もあたしの話、ろくに聞かないで殴ったし……」
「そういやそうだったな。姉とは仲が悪いのか?」
「うん。あたしは彼奴、嫌い。なんでもかんでも駄目だ駄目だって言って、あたしのこと殴るし……」
リンドウの声が沈んでいく。アザミとキキョウが黙って考え込めば、軽快な通知音が鳴った。アヤメが携帯を取り出すと、デバイスの中でクロッカスが手紙を持っている。デバイスが声を上げて話し出せば、リンドウはぎょっとして目を見開いた。
画面の向こう、クロッカスは黒い萌え袖のニットを揺らし、ちゅうもーく、と朗らかに言う。
「ツバキさんからご連絡ですっ! アザミさんとキキョウさんにお渡しするように、だそうです!」
「は、はい、分かりました。では、お二人とも、お読みください」
端末を渡し、二人に見せている間、アヤメはリンドウに向かい合うと、ごめんなさい、と言って深々と頭を下げた。
「その、見下すような真似してごめんなさい。私も、まだ十八歳です。この図書館では、まだまだ新米なんです」
「……十八……彼奴より年下なんだ、ふーん」
「えっと、そうなんです。でも……その、私もお話を誠心誠意聞きますので、私のお話も聞いていただけますか……?」
「当たり前じゃん。他人の誠意に報わないクズとか意味分かんないし」
リンドウは腕を組み、つんと澄ました顔で答える。アヤメは顔を明るくすると、本当ですか、と尋ねる。
「で? 何よ、話って」
「はい。ここは、アネモネ図書館といいます。あの世とこの世の間にあって、ここでは人間の記憶とか、歴史とかを集めています。そして、自殺してしまった人に、記憶を提供してもらう代わりに、もう一度生きるチャンスを与える場所なんです」
「何でもいいけど……あたし、自殺なんかしてないんだけど」
「えっ?」
アヤメが聞き返せば、そうね、とアザミが返した。端末をアヤメに渡し、小さく息を吐く。
「アンタ的には、死んでなんかない。殺された、ということ?」
「そうよ、彼奴があたしを殺したの」
「そうね。どうして殺されたか分かってる?」
「彼奴がクソ偽善者だからよ。あたしが親を殺したのを、悪いことだって言うわけ。意味分かんなくない? だってあたしにキツく当たった彼奴らが悪いのに。あたしの尊厳も解さないんだよ? 全部全部、彼奴らの思いどおりにしなきゃなんない。
しかもコスモスの奴は、そんな豚共の味方をするんだよ? どうしたら良いの? 誰も味方をしてくれないのに、あたしにできたことなんてあるの!? 無いじゃんッ!」
リンドウはそう言って歯を剥き出す。不満を爆発させれば、背もたれに寄りかかり、あー、お腹空いた、と大声で言うのだった。
キキョウがアザミに代わるよう指示する。おとなしく従ったアザミに会釈すると、リンドウの方を真摯な顔つきで見つめる。
「リンドウさん。一つ、聞いてもいいか?」
「何?」
「本当に、リンドウさんが妹?」
「……分かって、くれるの?」
「あぁ、分かりたいと思ってる。だから、聞いてるんだ」
ゆっくり答えるキキョウに、リンドウは溜め息を吐いてから、そうね、と答えた。その様はどこかアザミに似ている。鋭い怒りを持っていながら、沈静化したときは誰よりも大人びているような、そんなギャップを感じさせるのだ。
リンドウは指を伸ばし、爪先を見ながら、静かに吐露し始める。
「……最初にいたのはあたしだから、コスモスは新米だよ。彼奴はある日現れて、お姉さん面をするようになった。謝りなさい、全部あなたが悪いのよ、って煩いの。彼奴の方が背も高いし、彼奴の方が言うこと賢いし……皆、姉だと思い始めた。カウンセラーの先生も、コスモスが『自分が姉なんです』って言うのを良しとしてたし。超ムカつく。
どうして、あたしの方が正しいことを言っているのに、あたしが子供扱いされなきゃいけないわけ? 物事をまともに見てるのは、あたしの方なのに」
「あ、あの……その、どういうことでしょうか……?」
「お嬢さんには、解離性同一性障害の診断が出ているんだ」
尋ねたアヤメは、ぽかんと口を開けて、かいりせいどういつせいしょうがい、と繰り返した。アネモネ図書館が再び直面することとなったワードだった。
◆
名前:【データ破損】
性別:女性
年齢:20
職業:大学生
備考:解離性同一性障害がみられる。主人格を「リンドウ」(女性・14歳)副人格を「コスモス」(女性・20歳)と呼んでいる。幼少期からの虐待の影響アリ。カウンセリングの際に出現するのは副人格。主人格を妹、副人格を姉にしている。主人格には過食症の傾向が見られる。
◆
「それが、何らかの手違いで二つの存在に分かれてここに来ちまったってことになる。リンドウさんは、コスモスさんと話したことはあるのか?」
「あったよ。交換日記付けてたから。まぁ、最後の方はさすがに怠くなってやめちゃったけど」
「そうか。じゃあ、コスモスさんを見たことはあったのか?」
「無いよ。でも、彼奴は気持ち悪いくらい女々しい格好が好きなのは知ってる。箪笥開けたら、母親に着せられてるキモいフェミニン系ーって服ばっかでムカついた。親は彼奴のことは気に入ってんだよね。話聞いてくれるし、寒気がするほど優しいし」
「今回初めて対面したんだな」
リンドウがへそを曲げる。キキョウは自前のバインダーを手に持って、ペンを走らせていた。その内容が誰にも読めないくらいに、文字は乱雑だ。されど、彼のまっすぐな視線から誠意が感じられた。
「そうだよ。ムカつくし、ムカつくとお腹空くんだよ。彼奴はろくに食べようとしなかったから、その分あたしが食べてた。
彼奴に縛られて生きてきたのが辛かった。彼奴はろくに断れないし、絶っ対人間性がクソだろうなって奴と遊びに行くし。彼奴、いつもへらへらしてるから、誰もあたしの気持ちなんて分かってくれないのさ。
翌日、二日酔いで目を覚ましたとき。財布から五千円抜けていたとき。何時間も働かされたとき。疲労が凄いとき。あたしは何度でも絶望した。翌日届くメッセージに、『ありがとう、助かったよ』と書いてあったとき……あたしは、お前らのためにいるわけじゃないし、彼奴のせいで適当に扱われてる、って! 彼奴のせいであたしがどんどん弱っていくって!
だから、彼奴も殺した。親も殺した。友人面する奴も殺してやれば良かったッ! 彼奴が悪い。全部彼奴らが悪い。あたしに殺された彼奴らが悪い! そこまで追い詰めた、彼奴らが悪いッ! でも彼奴らは謝らないから! だから殺したッ!」
怒りに任せて、ソファの肘掛けを叩きつけるリンドウ。眉を寄せ、遠吠えするように叫ぶ。あたしは悪くない。あたしは悪くない。彼奴らが悪い。何度もその言葉を繰り返す。声は次第に弱くなり、ターコイズの瞳には大粒の涙が満ち溢れて、ぼろぼろと溢れ出した。
「……だから、もう一度生きろ、なんて、無理……彼奴がまた出張って、あたしを振り回して、また謝らなきゃいけなくなる……あの、友達だと思い込んでる馬鹿共と付き合わなきゃならなくなる……ッ!
たとえあたしの行為であたしが捕まったとしても、その先でもあたしは彼奴がいるから生きていけない……! このままじゃ殺されちゃうの、彼奴に! 彼奴の仲間たちに! だから、あたしは、あたしは……ッ!」
「それなら、ここにいてもらっても構わないよ。仕事はしてもらうけど」
「え、もうそれを言うのか……」
アザミが腕を組み、冷ややかに見下ろす。表情に温情は無い。キキョウが突っ込んでも、それは変わらない。赤い瞳は凍てついたままだ。
それでも、リンドウは顔を上げる。宝石のような丸い目に、光を携えて。
「……いい、の……?」
「勿論、記憶は貰うけど。あと、コスモスだけ葬り去ることはできないけど。アンタがこのまま死ぬなんて、可哀想すぎるから──ってのは、ボクの老婆心。だから、アンタに任せる。
ボクは、アンタの苦しみをコンテンツのように扱うことはできない。自分の考えを正しいと押し付けたくも無い。教え導くこともしたくない。
あくまでこれは、ボクからの提案。アンタがまだ人生を諦めないなら、人間を捨てて、新しい生活をしよう。これは、ボクの独断ではないが」
「そうだな。これは、館長代理も許可したことなんだ。記憶を引き換えに現実世界に戻ったところで、存在ごと二人に分裂してしまったあんたは生きていけないから。このまま死ぬか、ここに残るか、考えてほしくてな」
「……でも、あたしは……彼奴がいる限り、あたしは……」
「そんなこと無いですよっ!」
アザミとキキョウに続け、クロッカスが発言する。電子端末が喋ったとて、リンドウはまた身じろぎした。クロッカスは画面に顔をドアップして、煌めく黄色い瞳を見せつける。
「勿論、部屋は別ですっ! 生活だって別です! これからは、ちゃんと別人として生きていけるんですよ! あなたを縛る親も友達もいませんっ! 私、新しいお友達が増えるなら楽しみなんです!」
「でも……あんたらだってあたしを縛るかもしれない。これだけ話聞いてもらったけど、信じてないよ、あたし」
「信じる必要なんざ無ェよ。ボクも信じちゃいないさ」
アザミの言葉に、アヤメが眉を下げる。しかし、それも見越したように、アザミはアヤメの肩に手を置いた。
「それでも信じられる人は現れるさ」
「そ、その……私も、自分の生きていた頃を忘れてしまったような存在、なのですが。忘れてしまうということは、覚えていても嫌なくらいの人生を歩んできた、ということだと思うんです。それを忘れてやり直せるなら、良いかな、って思うんです。やり直す機会も無く、絶望して一生を終えるくらいなら」
「……生きててほしいの?」
「生きててほしい。お嬢さんには、誰にも制限されないで生きる権利がある」
アザミも、アヤメも、キキョウも。皆、自殺を願ってここに来た者たちだ。彼らはアネモネ図書館で、新たな生を見つけた。人間であることを捨てる代わりに、新しい生き方を模索する権利を得た。誰にも制限されないで、幸福を追求する権利を得たのだ。
リンドウが顔を曇らせ、返答に迷っていると、カトレアの声がかかった。カトレアはお盆に料理を乗せて、リンドウちゃん、と優しく甘い声で呼びかける。
「料理、作ってきたよ! さっきは上から目線で話しちゃって、ごめんね?」
「……あたし、子供じゃないから。覚えといて」
「そうだよね。私も分かるよ。子供扱いされるのって、イライラするよね。まともに相手にされていない気がして」
「分かってるなら宜しい……いただきます」
カトレアが笑顔で話せば、リンドウは頬を膨らませたまま、食事に手をつけた。みるみるうちに食べられていく料理を見ながら、クロッカスとカトレアはにこにこして顔を見合わす。
「『生きたい』ってエネルギーだね、クロッカスちゃん」
「はいっ! 食欲を失った人間は、生きるパワーが低下してしまいますから!」
キキョウはバインダーを胸に当て、ちょっと先輩のところ行ってくる、と言って席を立つ。アザミは適当に手を振って挨拶すると、金の眼鏡を拭きながら、何度目か分からない嘆息を漏らしたのだった。
◆
「もう一度生きる権利、ですか」
「そうだな。もう一度、やり直すことができる。でも、やり直す先を用意してやれなかったのは、俺たちの不足だ。ごめんな」
「いえ。そもそも、生きることは考えていませんので」
コスモスの応答は揺らぐことが無い。関係ありませんので。考えていませんので。私が悪いので。その頑なさに、スミレも困り果ててしまっていた。
彼女は差し出された紅茶を飲み終えてしまうと、二人が話し出さなければ黙り込むようになってしまった。死体のように白い顔で、遠くをずっと見つめている。
ヒナゲシは息を長く吐き出すと、顔に手を当てる。甘ったるい笑顔が消え、口角が下がった。
「……話になんねぇな、なァ? 自分が悪い自分が悪いって、思考停止してんじゃねぇのォ?」
「ひ、ヒナゲシ……!」
「だいたい、そんだけ賢いなら、全部自分が悪いことにすれば済む、って滞ってる自分に気がつきそうなもんだが?」
「私が……思考停止……」
コスモスが何度も瞬き、思考停止、と反芻する。少し考え込んだあと、ごめんなさい、と言って彼女が頭を下げた。
スミレは、ほら、ヒナゲシ、と彼を諌めるのだが、一度戴冠されてしまった彼を止めることはできない。金眼鏡の向こうは無感情で、深淵を秘めている。
「質問に答えられてねェなァ? 謝れば回避できるとでも?」
「……私は、私の意見を話すことに価値を見出しません。私の意見を言うことは烏滸がましいからです。私の意見は間違っているからです。どう考えても、結局一切相手を傷つけ、不快にさせないのは、私が謝ることです」
「それはどうだか。こうして話を聞き出したい奴からしたら、半ば拒絶されているようにも思うが?」
「拒絶、かもしれません。相手を傷つけないために、相手から離れているだけです。それが失礼に当たるならば、謝罪します。何をお話しすれば良いでしょうか?」
「受け身だな。それは怠慢だ」
「怠慢……」
ヒナゲシはそう言うと、片方の口角を上げ、悪辣に嗤った。声色は強くはならない。相手を煽るようで、艶かしく、不安定だ。芝居がかったようで、非人間的だ。コスモスはゆっくりと、そのペースに乗せられ始めた。
「自分から自己開示することを怠るな、相手によく思われたいならな。あんたくらい賢いなら、自分の頭で考えろ。どう自己開示すれば、話を聞いてもらえるか。どいつなら、話を聞いてもらえるか。話すべきでない相手は誰か。
それを考えずに生きていくのは、他人に依存した生き方だ。どう思う?」
「何も思いません。私が話さなければ良いことです。話した私が悪い。期待した私が悪い。他人に苦労を押し付けた私が悪い。次回からそうしないようにすれば良い。これを、学習と呼ばざるして何と呼びましょう?」
「へぇ? ずいぶん言うじゃないか、えぇ? 僕を否定するその根拠は?」
「私は停滞などしません。停滞し、他人に甘えるのは、愚か者のすることです。偽らぬ自分自身を許してもらおうとする怠慢にこそ、私は苛立ちを覚えます。
『ありのままを愛してほしい』。『私のことを見てほしい』。『どうして分かってくれないの?』。そちらにこそ本能的で、下劣で、受け身だと感じます。他人の望むことを常に考え続け、最も相手に適したことをするのが正しい。そこに感情は必要ありません。
自己開示は必要ありません。自分の感情を押し付ける行為こそ不躾と考えます。如何ですか?」
スミレは口をあんぐりと開けて、二人が舌戦する様を眺めている。足音が近づいてきたのにも気がつかず、二人は暗い瞳で言葉を交わしていた。
近づいてきた足音に振り返れば、シオンとツバキが歩み寄っていた。シオンはクスクスと笑うと、赤い頬で、始まってるな、と歌う。
「し、シオン……これ、どうしたら……」
「あぁ、良いんだ。こうなったら止められないからな。これが、彼の本音を聞き出す手段だから。我ながら、良い二人を組ませた」
助けを求めるようにスミレが見上げても、シオンはソファの背に手を当てて立っているだけだ。体をソファに預けて話し狂うヒナゲシを止めようとはしない。
一方のヒナゲシは、コスモスの赤いルビーのような瞳に光が灯ったのを見逃さなかった。光を掬い上げるようにして、彼は低く嗤う。
「ははは、良い理論だなァ? 自己開示できない人間は相手に開示させる苦労を与えているとは思わねェのか?」
「思いません。人は他人に自己開示を求めません。形式上そう言うことこそあれど、誰一人としてそれを本当には求めていません。知ったからには対処する必要性が生じるからです。それを人は面倒臭がります。ですから、私は私の話をしないことに正当性を感じます」
「そうか? 『ここまで話しておいて』それを言うか?」
「……っ!」
コスモスが言葉に詰まる。ヒナゲシがケラケラと嗤い、コスモスが頭を下げる。ごめんなさい。彼女は口癖をまた呟くのだった。
シオンがヒナゲシの隣に座る。そして彼の頬を突くと、お終いにしたらどうだ、と言った。
「君とて分かっただろう。君が黙秘するのは、至極勿体無い──無論、秘匿する権利は存ずるが。このように話す必要は無いが。
君は黙っていようとしても、無理だと思う。君のその聡明さでは、より多くのことを見て、より多くのことを考えて、より多くの感じているはずだ。僕は思う、そんな思考を抱えて死んでいくのは、あまりにも無益だ、と」
「……私の思考に、意味はありません。本来、思考など要らないのです。私に必要なのは処理能力だけ。この全てが損なわれたところで、世界には何の損も出ません。私は思考などしたくない。望んでいません。『考えているから』など、全く免罪符にはなりません」
「しかしながら、考えぬ人間の方が愚かだと君は言った。僕はそれを肯定する。君の言えなかった思考を歓迎する。君の価値観を歓迎する。
僕は、君の考えをもっと聞きたいと思っている。僕の友人になって、ここで働いてはくれないか」
「しかし……私に捧ぐ価値など、」
「君は、死体をどうしても良い、と言ったではないか? 僕は君のその死体を、こうして生かして、君と話をしたいと思っている。それは許されるか?」
理論に打ち負かされ、はい、とコスモスはぼそぼそと答えた。実に不服そうな顔は、彼女が見せた三つ目の顔だった。
スミレは、悪いな、と言い、シオンと一緒にヒナゲシを挟む。スミレもヒナゲシの頬を引っ張るので、ヒナゲシは二人に顔を弄られていることになる。
「この人たち、こういう話し方しかできないんだ。感情に正直じゃないし、天邪鬼だし。でも、俺もコスモスの感情が分かった気がしてて、話を聞いてて楽しかったよ」
「……感情は要らないと言ったばかりなのに……」
「要るかもしれないよ、こういう変人にとっては。俺も正直思ってたよ、感情なんて要らないって。そんなの、機能を低下するバグだって、実は今でも思ってる。
だけど、それが分かると、もっと知りたいな、って思うよ。だって、コスモスの感じてること、面白いからさ」
「面白くは、ないかと」
「面白くなかったら、ヒナゲシだってこんなに熱くなりませんよ」
ツバキがそう言って袖で口元を隠して笑う。さっきから何なんですか、と苦笑するヒナゲシの瞳は、元の蜂蜜色に戻っていた。
コスモスはぼんやりとそんな集まりを見ていると、楽しそうですね、と他人事のように言った。視線は上の空で、話はあまり入ってこないようだ。
「楽しい、でしょうね。私たちは、家族ですから」
「家族……家族とは、努力無しで為せるものではありません。家族でありながら、個々人の努力が足らず、関係が破綻する愚か者は多いかと」
「その点、俺たちは互いに努力していると思うよ。意見の食い違いなんて、日常茶飯事だから。それをどうするか考えるのが面白いんじゃないかな」
「調和に満ちた発言ですね」
「そんな、コスモスさんだって、花言葉は『調和』。あんたみたいな人が、関係を良く保ってくれているのだと、僕は思いますよ」
ツバキも、スミレも、ヒナゲシも、勿論シオンも。四人が四人、コスモスを招いている。アネモネ図書館という、知識と異文化の集う場所へ、また新しい価値観を手招いている。確かに彼女を必要としている。
コスモスは、こくん、と頷くと、分かりました、と言った。
「どうせ、私は自分のことはどうでも良いので……労働力になるなら、そちらの方が良いかと」
「そんな、そういうつもりで言ったんじゃ、」
「良いんだ、スミレ。その理解で構わない。僕は君の話を聞きたい、君は役に立ちたい。最初はそれで良いさ」
シオンがスミレの言葉を遮る。そして、ようこそ、と言って微かに微笑んだ。
コスモスはシオンを一目だけ見ると、首をゆらりと動かし、あらぬ方向を見ながら、はい、と答えた。
◆
バインダーを持ったキキョウが帰ってきて、シオンと情報を共有する。その後ろから、食事を堪能したリンドウが、クロッカスやアヤメと楽しそうに話しながら寄ってきていた。
コスモスとリンドウの視線が交錯する。リンドウは顔を歪め、コスモスは眉をひそめる。黙り込んだ二人の間に入ったのは、アザミだった。
「はいはい。もうこれからは他人だからなァ? 互いが互いに口出すなよ」
「……お前なんか、姉なんかじゃない」
「あなたみたいな愚か者が、他人に迷惑をかけないかだけが心配」
「うっせェなァ! 新米のくせに生意気なんだよッ!」
「それで? そんな二人は、何を代償に新たな人生を得るわけ?」
喧嘩を強引に止めて、アザミは額に手を当てながらそう問う。リンドウもコスモスも、互いに目を逸してしばらく悩んだようだったが、リンドウがきっ、とコスモスを睨みつけ、先に口を開いた。
「チッ、テメェの考えてることが分かんのがクソムカつく……」
「奇遇ね」
「あたしたちが捨てるのは、『一人だった頃の記憶』。あたしたちは、今からたった一人の人間同士になる。もう、あんたと同じ人生なんか生きたくないから」
「そう。おいシオン、本を寄越せ」
アザミがそう言えば、シオンが一つの本を手渡す。今まで一人の人間として生きてきた二人の人生が詰まった、たった一冊の本。親に見捨てられないように、友達に嫌われないように、二人で努力し、争ってきた証。その本に彼女たちの動向が書かれることは、もう無い。この本の最後には、「彼女らは、二つに分かれた」と書かれて終わる。
彼女たちの人生は、今、終わる。
「十四輪目の司書、『コスモス』。十五輪目の司書、『リンドウ』。ようこそ、アネモネ図書館へ」
アザミが手をかざせば、本はひとりでに捲られ、最後の一行を記す。それが終わると、二人は目を開き、互いをまた敵意に満ちた目で見つめた。
「それはそれとして。あたしは此奴と一緒にいたくないんですけど」
「私に迷惑をかけないでくれれば良いの」
「アンタら、本当に仲が良いよなァ。おいヒナゲシィ、手ェ空いてんだろォ? コスモスを自室に案内しろ、ボクはリンドウを案内する」
「はいよ」
ヒナゲシはシオンを、アザミはリンドウを引き連れ、二手に分かれる。逆の方に歩いていく二人は、赤と青の目を期待に微かに光らせていた。
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