舞台裏

 先輩の隣に立っているのは、先輩が落ち込んだときに頼るのは、大抵がシオンかアザミだ。最近では、アザミが先輩に懐いて離れないから、俺は先輩に関わることもあまり無い。

 信用していないわけではないのだ。あの人が自分を見捨てるだとか、今更そんな不信感は抱いていない。不安になって、俺を見捨てるんだろう、とどれだけ問いただしたことが。毎回先輩は俺を抱きしめて、そんなことありませんよ、と優しく言った。

 俺が不安定になったときは、いつだってあの人が隣にいてくれた。頭を撫でて、抱きしめて、何度でも子供のようにあやしてくれる。

 それじゃあ、随分と不公平ではないか。

 可愛がられていたくなんてない。俺が先輩を支えたい。庇護されるだけではなく、庇護したい──

「凄まじい相談内容だな、えぇ? シオンにはできないから、俺に相談か?」

「悪りィ……本当に申し訳無いと思ってるけど、あんたくらいしか当てがいなくて……」

 アザレアはワイングラスを傾けながら、苦笑して答える。

 本当、年下に頼るのは申し訳無いと思っているが、何せこの図書館で最年長は先輩で、その次が俺なのだ。アザミは年齢不詳を謳っているが、前述のとおり頼る勇気が出ない。

 それに、アザレアのようなナイトなら、きっと分かってくれる、という希望的観測だ。サザンカを愛し、シオンをも同時に愛して守っている彼は、俺に言わせれば、実に器用だ。理想的で、いつも余裕ありげな様は、年上たる俺も尊敬してしまう。

 チーズを口に入れ、ロゼをあおるアザレア。彼は少しもワインを呑まない俺を見ると、呑みたまえよ、と楽しそうに言った。

「ワインは羞恥心をもみ消してくれる、素晴らしい麻薬だ」

「あぁ……あんまり自制効かないタイプだから、得意じゃねぇんだけどなァ……」

「『先輩』以外の前で羽目を外したことは無さそうだな。今日は思う存分羽目を外してくれ、俺もそうする」

 ロゼを一口呑めば、アルコールと渋い香りが広がっていく。顔がふわりと熱くなって、あぁ、酒だ、と思う。ちびちびと呑んでいく様は、我ながら、幼い頃によく似ているな、とさえ思った。

 目の前の男は、まるで飲み物を飲むみたいにロゼを飲み干していく。そして、口を話すと、妖艶にぎらつく笑顔を浮かべる。ゾッとするくらい酒に強い、というか、酒に愛されているような気がした。

「ははは、サザンカさんが用意してくれたお通しも美味いよ、なァ?」

「……上機嫌だな、あんた」

「そりゃァ、酒は好きだからな。それで? ヒナゲシのことを守りたいの?」

「そうだよ、悪いかよ。俺だって先輩が頼ってくれるところ、見たいし」

 思わず口を尖らせる。この男は何も分かっちゃいない。アザレアは他人に守られたことなど、そうそう無いだろうから、守られる側の気持ちなんて分かるわけが無い。

 アザレアはハムを頬張って、幸せそうににっこりと微笑む。それから、持っているフォークで俺のことをついついと指した。

「おい、『何も分かってない』みたいな顔しただろー。お見通しだからな」

「ぐ……お前が悪いんだぜ、アザレア」

「はいはい。ちゃんと説明するよ。何を勘違いしてるんだか知らないが、俺はむしろ守られてきた側だし、頼ってきた側だぜ?」

「えっ、はぁ?」

 得意げに胸を張るアザレアに、俺はただただ愕然とする。いつも紳士的で、弟も妻も彼を深く信頼し、頼っている。サザンカは特にそうで、アザレアのことをまるで王子様のように立てている。シオンもまた、アザレアの前では気弱なところも見せている。

 俺には、少しもそうは思えないのだが。アザレアは鼻歌でも歌いそうな上機嫌っぷりで、チーズに手を伸ばした。

「ははぁ、お前さては、俺のことよく知らないなー? サザンカさんが言うことまともに聞いて信じてるだろー! あの人は俺を褒め過ぎなんだよ、嬉しいけどな!」

「……あ、アザレアぁ?」

「何を隠そう、シオンは俺の忠犬だ。俺は彼奴無しの人生なんて考えられないよ」

「でも、お前さんは彼奴の飼い主だろ? それに、お前はつい最近までシオンに会えてなかったのに……」

「言い直そうか。シオンは俺の大切な『番犬』だ。夜、俺が寝付いて気を逸しているときも、彼奴は俺のことを守ってくれている。彼奴はさ、俺の足りないところを補ってくれてるんだよ。だから、俺にとっては必要不可欠だった、ってわけ」

 アザレアは目を細め、遠くを見ながら薄く微笑む。ロゼ色の瞳が緩く光っている。赤みが差し始めた頬に手を当てて頬杖をつき、彼は浮ついた声で、ふふふ、と笑う。

「彼奴、犬は犬でも、狂犬でもあるぜ? 時には俺の意思なんて気にしないで、相手に食って掛かるんだ。やりすぎだとは思うけど、とても助かってる」

「……何を助けてもらうんだよ」

「大のアザレア様だって、落ち込むときくらいあるぜ? 誰かの助けが欲しくなるときだってあるしー」

「そんなところ見たことも無いな」

「当たり前だろ、そりゃ」

 俺の言葉に、アザレアは目を丸くした。何度か瞬くと、分かってないな、と呟いた。

 分かってないも何も、アザレアが初めてアネモネ図書館にやってきたときを思い出せば、彼は肝が据わっているタイプだと分かるだろうに。そこが先輩にそっくりで、羨ましい。かつて、ハルジオンが咲いていた頃も、俺は彼に世話になった。彼と比べれば、だいぶアザレアの方が快活だろうか。

 アザレアは前髪を掻き分けると、隠れた右目からじとっと俺を見つめた。どうしてそんな目をするのか。敗北感を感じて居心地が悪くなる。

「見せるわけ無いだろ、そんなところ。恥ずかしいし」

「恥ずかしいって……」

「当たり前だろー? 俺にもプライドくらいあるしー。そういうところはたく……シオンに見せても良いとこ」

「先輩もそういう感じなんだろうな。俺にはそうやって、恥ずかしいからって弱みを見せてくれない。シオンには見せるくせによ……あんただって、そうやって弱いところはサザンカに見せないから、王子様扱いされてよォ」

「はぁー? 見せないし。見せるわけ無いだろ」

 むすっとするアザレアは初めて見る気がする。アザレアは普段から薄笑いをたたえていることが多く、表情に緩急が無い。ずいぶんと素直な表情だな、と思う。

 しかし、こんな顔をするのは、俺だからではないか──そう思うと、不思議な逆転現象だ。シオンは先輩にそういう顔を見せて、アザレアは俺にそんなあどけない顔を見せる。シオンと先輩の仲ならまだしも、アザレアと俺の仲はそんなに良かっただろうか。

 アザレアは、大きな溜め息を吐きながら、片目を隠すほどの長い前髪を弄る。

「お前さー、本当分かってないよなー。たとえばだけどー、お前はヒナゲシに、こうやって助けを求めてるところ、見られたい?」

「え、いや……それは、無いかな……」

「だろー? それと同じー」

 ワイングラスを置き、片目を細めてにやりと笑うアザレアと目が合う。俺は目を背けて、一人納得しようと視線を遠くにやる。

 確かに、こんな弱々しいところを見られたら──先輩のことだ、やっぱりキキョウは可愛いですねぇ、と言って抱きしめて、そこでおしまいだ。少しも威厳を取り戻せそうにない。そもそも、あの人がおかしいのだ。四十歳を回った男性を抱きしめ倒して撫で回して可愛がる、あの人の方がおかしい。

 俺は、あの人に守られたいんじゃない。あの人を守りたいのだ。

「ヒナゲシにはこんなとこ見せられないだろー? そこをヒナゲシに文句言われたら何て返すよ、お前?」

「俺か? 分かんねぇ……こういうとこは見られたくないから、って」

「で、お前は逆に、先輩にはかっこいいとこ見せたいと思ってる。俺もそう。俺も、サザンカさんの前では王子様気取りしたい。分かった?」

「お、おう……っていうか、酔いは大丈夫か?」

「上機嫌上機嫌、大丈夫だぜ」

 いよいよ顔が真っ赤になっている。本当に大酒呑みだ、いくら俺がちょっとずつしか飲んでなかったにしても、ボトルの三分の二はアザレアが呑んでいる。アルコール度数は十パーセントを上回っていたはずだが。

 ようやくアザレアの言いたいことが呑み込めた気がする。俺にも、先輩にも、アザレアにも、シオンにも、「こう見られたい」という顔がある。それを演じる。そして、その感情は、相手を恋い慕うほどに膨らむ。

 俺は、先輩に頼られるような顔をしたい。先輩もまた、俺に頼ってもらいたい。こうして被った仮面こそ、我々が自分を愛せる手段。

 醜く、寂しがり屋で、嫉妬深くて──そんな自分自身を隠して、他人と関わる手段。

「まー、そういうことだからさー、あはははは。俺はお前にはこうやって警戒心無いとこ見せるわけ」

「俺も、本当は先輩に、俺の前では無理してほしくないんだけどなァ」

「無理無理、好きな人にはいいとこ見られたいって」

「だとしても、だ。俺は先輩の、至らないところも、弱いところも、可愛らしいところも、全部好きで……全部全部見たいのになァ……」

 アザレアの顔が冷める。顔をしかめると、貴方、凄い顔してんな、と酔いが消え去ったような真面目な口調で言った。

「そんなにヒナゲシのことが好きなのか」

「好きだよ、そりゃァよォ。世界で一番愛してる。俺以上にあの人を愛せる人なんていない。先輩の全てを知りたいし、おそらく知ってる」

「うわぁ……シオンみたいなこと言ってらァ、怖……」

「ガチで引くなよォお前よォ! ここまで聞いといて!」

「かっこよくねーな、キキョウ。俺の前ではかっこ悪くていいぜ?」

 にこにこと笑うな、腹が立つ。悔しいけれど図星ばかりで、俺は無理矢理ワインをあおることしかできない。頭がかーっと熱くなって、頭の働かなさに拍車をかけて。

 惨めったらしくて、ナイトらしさの欠片も無い姿だ。先輩には絶対に見られたくない。だが、先輩にもそんな顔があったとしたら──俺だけ無理矢理見せろとせがむのは、少しだけ、わがままかもしれない。無論、本当は全て見たいけれど。

 アザレアの肩を小突き、ムッとして見せる。自分の顔が見えていないから、どんなに間抜けな顔をしているかは知らない。

「俺もお前のダッサい顔、見たからな」

「本人の前でボロ出すんじゃねぇぞー?」

「わーってるって。もう一本くらい呑もうぜ」

 チーズもハムもまだ残っている。ワインだってまだ残っている。ナイトになるための準備期間だと思って、今は本音を打ち明けよう。年齢も立場も関係無い。

 そして、いつでも美しくて、目覚しくて、魅力的な先輩に相応しいような、強く凛々しい仮面を被ってやろう。それこそ、あの人を魅了するくらいに。

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