昴は絶望を希望する

「ねぇ、センパイ?」

 舐めるような動作で頬を触れ、横になる美青年の首を傾ける。彼は四つん這いになって、眠れる「センパイ」に覆い被さっていた。

 薄い目蓋を震わせて、お姫様が目を覚ます。無性別的な耽美さを醸し出しながら、彼は顔を寄せていた自分の後輩を、甘く怠い蜂蜜色の目で見上げる。自分を覆う大きな体の影で、瞳は緩く光を持つのだった。

 ふ、と息が漏れて、彼の唇から笑みが溢れる。くぐもったカーボナードの瞳が弧を描く。節のある指を滑らせ、亜麻色の髪を掬い上げた。

「抵抗しないんですか?」

「前も言ったでしょう。僕は抵抗しない。あんたに犯されても、殺されても、構わないって」

「あは、お人好し」

「……どうしたんですか、昴。僕に何か用でも?」

 誘うように舌を出した青年に、「センパイ」は大した反応を示さない。じっと青年を見つめるだけであり、視線が揺らぐことも無い。ただ退屈そうな怠惰な表情で、眉一つ動かさずに彼の頬を撫でる。

 神崎昴は、大きく息を吐き出すと、「センパイ」の隣に寝転がった。それから、筋肉のついた細い体を抱きしめて、彼の顔を自分の方に埋めさせる。

「センパイ。ねぇ、センパイ。教えてください。僕の溢れんばかりの感情が何なのか、アンタなら知ってると思うんです」

「はぁ、それは僕に対して?」

「そう。アジサイに対してもそう思うんです。嗚呼、でも、キキョウセンパイに対しては感じないかもしれない。シオンやアザレアには感じる、かもしれない」

「そうですか」

 昴の節のある手が、「センパイ」の頭を撫でる。抱きしめる力は強く、「センパイ」の吐息を奪うよう。彼は昴の肩に自分の顔を寄せ、甘えるように手を回した。

 口角は笑みを描いたまま、昴の白い頬が赤く染まる。瞳は憂いを帯びて艶やかに光り、しなやかな指先は小さく震える。「センパイ」の背に手を置いたまま、彼は目をきゅっと細めて、狐のような顔をした。

「アンタらを見てると、とても、どきどきするんです。わくわくする。唆る。堪らない。心に火がついたみたいで、ぞくぞくして、きゅっと胸が締め付けられて。眺めているだけで、楽しくって」

「そうですか」

「心臓が弾けてしまいそうで! とても面白いんですよ、ねぇ、どうしてなんですか? どうしてそんなにわくわくするのでしょう? 普通の人々じゃくれない、そんな刺激が堪らない。性欲? 支配欲? 何? そんなの稚拙だ。アンタら以外は全部俗物で石ころみたいに見える。

本当に、ねぇ、アンタらは、とても……」

 昴の心臓がドクドクと高鳴るのを、「センパイ」はピアスをした耳を押しつけて、静かに聞いていた。荒くなる吐息が、「センパイ」の吐息を奪う。顔を近づけたところで、「センパイ」は軽く胸を押して、顔を遠ざけた。

 除けた相手を見ると、昴は眉を寄せ、歪に微笑んだ。声は少し低く、息は震える。

「ねぇ、どうして拒絶するんですか? 僕はアンタらがこんなにも欲しい。欲しくて仕方無い。興奮する。どうして逃げるんですか?」

「逃げてなんていませんよ。ただ……どうして、そんなに僕を愛するのですか」

「それが分からないから困ってるんですよ。ねぇ、センパイ? どうして僕は、こんなに愉しくなれるのでしょう。アンタらを見てないと何も愉しくない……センパイ、センパイ、ねぇ、センパイ……」

 昴は、ぐい、と顔を寄せる。再び、二人の顔はくっつかんばかりに近くなる。昴の声はさらに不安定に震え、瞳は光を失う。背中に触れる手に力が籠る。指がしがみ付く。

 「センパイ」は、昴の頭を撫で、すばる、と吐息混じりに呼びかけた。砂糖菓子のような甘さと優しさで、彼の耳を溶かすように。昴が撫でられた犬のように目を細めれば、「センパイ」は今度は彼の背中を摩った。

「自分自身は、面白くないのですか」

「僕が……? 面白くないですよ。何も。僕のすることに何のスリルがあるんですか?人殺しでもしないと面白くない。それは僕が面白いわけじゃない」

「どうして、自分自身には、そのような激情を抱えないのでしょうね」

「そんなこと言われたって……分かりません、そんなの……センパイたちは生きているだけでとても面白いのに、僕にそう感じることはありません」

「僕は、同じように感じますよ? 昴が生きてるだけで、たったそれだけでも面白くって仕方無い。あんたが話してくれるだけで、楽しくって仕方無い」

 昴は口角を少し下げて、足を「センパイ」に絡めた。体が密着すれば、彼の心音が伝わる。二つの心音が奏でる差から生まれる波に、昴は気持ち良さそうに目を閉じた。

 「センパイ」は絶やすこと無く、水面を撫でるような、温和な声で話し続ける──昴をどろどろに溶かすように。

「面白いんですよ、あんたも。それを忘れないで。

自分が退屈だから、そうなるまでに怖くなって、そのスリルが堪らなくって……苦しむ羽目になるはずです。一方的に享楽を貪ってるから。自分を向上させようなんて気にはならないから」

「……だって、自分なんて、どうでも……」

「どうでも良くないんです、僕がどうでも良くないんですよ。昴は、もしも僕が何の理由も無く自殺したらどう思いますか」

「……クソつまんねぇなって」

「そういうことです。どうでも良くなんかない。あんたがどうでも良いと思ってるその人は、僕にとってはちっともどうでも良くない」

 昴が目を伏せる。とん、とん、と背中を叩かれて、ぼんやりと自分の下にいる「センパイ」を見下ろす。彼は穏やかに笑っていた。

「ですから、僕らばかりに目を向けるのではなく、時には自分のことも考えてあげてください。その感情は、きっと渇望だろうから」

「……渇望。僕が、アンタらを?」

「そうですよ。欲しくて、好きで、堪らない。そんなふうに思ってくれて、僕は嬉しいんです。重くなんか無い。たくさん求めて、僕はそれが嬉しいから」

「……嫌になるな、僕が他人を求めてるなんて」

「誰のことも信用できなくて、誰のことも好きになれなくて、ずっとつまらなく生きてきた昔より、遥かに良いと思いません?」

 「センパイ」の言葉に、昴は目を閉じる。彼の目蓋の裏にあるのは、自分が飛び降り自殺をする前の光景だ。黒髪の魔女が嗤い、自分を手招く。世界から「センパイ」が消えてしまって、何もかもが無彩色に見えた経験だ。

 何も、愉しくない──欲しかったものは手に入らず、求めたものは壊してしまった。

 目を開ければ、世界は有彩色で、自分の隣には色鮮やかな花がある。その花は日によって色を変えては、昴を愉しませる。その花を摘めば、永遠に色は変わらない。

 昴は思わず、小さな笑い声を漏らした。「センパイ」を喰らうようにして抱きしめて、腹をぴくぴくと振るわせて嗤う。「センパイ」は少し目を見開いて驚いていた。

「あは、あははは……ッ、おっかしい、いつから僕は、センパイに生きていてほしいと思ったんだろう」

「……昴」

「センパイが死んだら、つまらない。殺したら、つまらない。センパイの絶望する顔が見たい。希望する顔が見たい。惨めに這いつくばる姿が見たい。こうして煌めいている顔が見たい。それらは全て生きているから起きること、そうでしょう?」

「ふふ、昴は、本当に……」

「だから、センパイ」

 昴は、大きな手で「センパイ」の首を掴んだ。絞め殺すように力を入れて、口が裂けんばかりに微笑む。悪魔のような、子どものような、紅潮した顔で。

「僕の私利私欲のために、生きて」

 ぽつり、と、言葉が「センパイ」の心に降る。雨脚は強くなって、濁った欲望が溶けていく。それでもなお、「センパイ」は笑みを絶やさないで、昴の揺れる肩を抱き寄せるのだった。

「えぇ、こちらこそ、僕の私利私欲のために生きてくださいね。あんたのいない世界は、酷く寂しいから」

「……あは、ムカつく」

 言葉と裏腹に、昴はたいそう爽やかに微笑んだ。

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