第四章:流れ星を掴む
流れ星を掴む
探るは暗闇の中、光るルビー。日付を忘れた図書館でも、時間は覚えているようで、空には青白い月が上がっているのだった。
深夜、仄かに光るトルコランプを持って、歩いているのはヒナゲシだ。彼は少しだけ声を張って、おーい、と暗闇に呼びかける。
「おい、アザミィ、出てこいよォ」
「──ったく、っせぇなァ。夜だぞ」
トルコランプの照らす先、真っ白な肌が透ける。闇夜でも煌めくルビーが、二つ、際立って不知火のように浮いていた。
ヒナゲシは小さく息を吐くと、こちらへ、と言ってティーテーブルにランプを置いた。片方の椅子を引いて座れば、アザミも頭を掻きながら向かい側に座る。
「ようこそ、不知火の魔女」
「彼岸の魔女でいい、ってか呼んだのはアンタだろうが」
「まさか本当に来るとは思ってなかった。あんた側から一方的に来るのがいつものことだろう」
「そうねー……そうね。アンタが会いに来たのは、これが初めてかもね」
蜂蜜色の目に、暖かい黄色の光が灯っている。赤紫のガラスが散りばめられたそれは、二人の手先を穏やかに照らしていた。
アザミは目を背けると、で、話って、と話題を振る。ヒナゲシは長い睫毛を瞬かせ、トルコランプを見つめた。
「あんた、何かあったのか?」
「……は?」
「僕には分かる、あんたが何か悩んでるって。初めてなんだよ、こういう直感は」
「ハッ、知るかよ。余計なお世話だ」
「そうも行かない。あんたがむしゃくしゃしてると、僕も気分が良くない」
ヒナゲシが頬杖をついて答えれば、アザミは額に手を当て、大きく溜め息を返した。心底呆れ返ったような、ムカついたような。嫌気に苦いブラッディなコーヒーを足したような。
苦々しい顔をしたまま、アザミは顔をもたげた。
「……あのさァ。世界はあまりに閑散としてるとは思わねぇか?」
「そう? 僕はそうは思わない。世界は随分と鮮やかだと思う。特に、死者を弔ってからは」
「……アンタが羨ましい、ヒナゲシ」
アザミは手を組み、目を伏せた。歯をギリ、と噛み締める音が聞こえてきて、ヒナゲシは目蓋を持ち上げる。
「なぜ?」
「ボクには信頼できる友達がアンタくらいしかいない。後は、アヤメ……?」
「そんなこと……こちらに来ればいいのに。クロッカスもきっと会いたがるはずだ」
「違う……彼奴らとボクは違うんだよ」
真っ赤なマニキュアが食い込んで、白い手に痕をつける。ヒナゲシはそんな小さな手を包み込んだ。人間の体温が伝わって、アザミは微かに震えた。
「彼奴らに会ったところで、誰もボクを対等になんて扱えない。ボクと対等に話せるのは、アンタか、アジサイくらいなんだよ」
「……どうしてそこまで絶望するんだよ」
「もう誰もボクを人間としてなんて扱ってくれない……!」
アザミは、腹の底を震わせ、冷ややかな声でそう言った。赤い唇が緩く動くと、硬く一文字に結ばれた。
「誰も! 誰もボクを人間だなんて扱ってくれない!
ボクは魔女になってしまったんだ。真っ黒に染まってしまったんだよ。誰も、誰も──誰もボクを人間だなんて……対等だなんて扱ってくれない!
アンタになら分かんだろォ⁉︎ 誰も人間なんていない……ッ! この世には怪物しかいねぇんだよ!」
「……アザミ、それは……」
「誰もいない……いないんだよ。アンタくらいしかいない。人間の形を保ってくれて、ボクと分かる言語で話してくれるのは、アンタくらいしか──」
「アザミ。あんたはもっと、年相応に振る舞っていいんだよ」
ヒナゲシの手が、アザミの頬に触れる。アザミの肩がびくりと震え、その手を払い除けた。彼女は酷く顔を引きつらせて、怯えて。ヒナゲシは眉をハの字に下げて、哀しげに笑う。
「怖いんだろう、アザミ……他人が信用できないから、誰もが自分を酷く扱うと思っているんだろう。僕はあんたを殴ったりしない……」
「……何だよ、年相応に、って。ボクは、ボクは……」
「あんたはまだ子どもなんだよ。だから、大人しく可愛がられればいい。守られればいい。未来のある若者として生きればいい」
「未来って何だよ……ッ⁉︎ ボクに未来があるとでも⁉︎ 何の未来があるんだよ⁉︎ どう生きろって⁉︎ 生きろって言うの⁉︎」
アザミが机を叩き、身を乗り出した。弱い力でヒナゲシの胸ぐらを掴むが、ヒナゲシの視線は変わることは無い。
嫋やかなハニーロイヤルミルクティー。それは漆黒の夜に浮かぶ望月のよう。アザミの目が、目眩にゆらゆらと揺れた。
「何をしろって⁉︎ ボクに何の未来があるって⁉︎ 幸せなんてなァ、そんなものは無いんだよッ! 他人事言いやがって……ッ!」
「無いかもしれないな、このままでは」
「じゃあどこにあんだよ? いつあるって言うんだよ⁉︎ 分からねぇくせにガタガタ抜かしてんじゃねぇッ!」
「見つけ出すんだよ。暗闇から飛び出して、見つけ出しに行けよ」
アザミが目を見開き、手を離した。ヒナゲシは胸のボタンを止め直すと、小さく息を吐く。
「……人間がいないなら、探しに行けばいい。豚小屋を彷徨って『人間がいない』なんて愚鈍だと思うだろ?」
「ぶ、豚小屋、って──」
「豚小屋に人間はいない。アネモネ図書館は豚小屋じゃないから、居心地が良いんだ。
あんたは現実世界に身を窶して人と関わろうとするから、息苦しくなる」
「──っ、だって、本当のボクは」
「神崎美香。怖いかもしれない、恐ろしいかもしれない。
僕を信じて。こちらへおいで。
空想でもいい。
妄想でもいい。
逃げてもいい。
世界が正しく見えなくても、世界が歪に見えたとしても、世界が狂って見えたとしても。
それでも僕らはあんたを幸せにする。あんたの世界を馬鹿になんてしない」
ヒナゲシは再びアザミの手を握った。がくがくと震えて止まらない手を、優しく包み込む。空へと堕ちていく彼女の手を掴む。
アザミの大きな赤い目から、大粒の涙が流れ始めた。
「……ッ、妄想を愛するほど、腐っているのに……どうして生きろって、貴様は……」
「あんたが未来を投げ出したとして、誰があんたの未来を生きてくれるんだ。
あんたが生きるのを諦めたとして、誰があんたを生かしてくれてるんだ。
誰もあんたに生きていてほしいなんて望んでないんだよ。望んでいるのは、僕らだろう」
「望んでなんかいないッ! 何度だって死にたいと思った! 生きたくなんかないって何度も泣いた!
それでも生きろって言うのかよ⁉︎ 貴様の都合で⁉︎ お前に何が──」
「あんたを愛しているからだよ」
アザミが溢れんばかりに目を見開けば、ヒナゲシが、立って、と小さな声で言った。アザミは震えながら立ち上がると、跪いたヒナゲシに強く抱きしめられた。
ヒナゲシは、憂うように薄目を開く。
「あんたが、生きるのを諦めた僕を救ってくれたんだろう。だから、僕もあんたを救う。あんたの側にいる。あんたが僕を幸せにしてくれただけ、幸せな未来を見せる」
「……存在しない……存在し得ねぇんだよ、ヒナゲシ……幸せな未来なんて存在しない……」
「ならば、くれてやるよ。
あんたが諦めた未来を掴めるまで、僕らは全力でバックアップする。妄想に縋っていい。幻想に縋っていい。あんたが幸せになれるその日まで、僕らは世界と戦い続けてやるよ。
泣いていいんだよ、アザミ」
アザミは目を細めると、次々に熱い雫を溢れさせ、わああああぁ、と泣き声を上げた。ヒナゲシの胸に顔を埋め、その泣き声を押し殺す。ヒナゲシはそんなアザミの小さな頭を撫でる。遠い目をしたまま、憂鬱そうに。
二人の心は繋がっている。片方が泣けば、もう片方も泣く。掻き乱される。ヒナゲシの心には、アザミが発露した、悠久の孤独が重たくのしかかっていた。
もう誰も、自分を人間扱いなどしない。もう誰も、自分にとって人間ではない。誰も自分を救うことなどできない。己の幸福など実現し得ない。
それは、ヒナゲシの生前の記憶の多くを占める感覚であることに、違いは無い。
「アザミ。僕は幸せを、勝ち取ったんだ。次は、あんたの番だ。イかれた世界を生き抜き、怪物のいない箱庭を勝ち取るんだよ。それが如何に狡く、自己愛に満ちていたとしても」
「アンタは……ッ、アンタはそうだよ、アンタはボクの呪文を叶えて、それで、でもボクは──」
「要らないものを切り捨てて。自分を嫌う理由になるものは全て燃やし尽くして。自分を大切にしない奴らに銃口を突きつけて。それでいい。其奴らを殺すことの何がいけない?
あんたを幸せになんてしてくれないくせに」
「う……あ、うぅ、さとし、ぼくを、」
「……アザミ?」
アザミの姿に、痺れるようなノイズが走った。まるで電脳世界であるかのように、彼女の姿にところどころモザイクとグリッチがかかる。ヒナゲシは思わず手を離した。
そして、その存在が完全に不安定になって、認識できなくなった刹那──そこに立っていたのは、まるで人形であるかのように美しい、一人の「女性」だった。最早彼女は、少女ではなかった。
魔法が解けたのだ。彼女はもう、魔女ではなかった。
「ぼくを、──して──」
黒く長い髪。死んだ赤い瞳。ヒナゲシと同じ金眼鏡。少し伸びた背丈。高いヒールに、ゴシックロリィタ。年齢の概念を通り越した、時の止まった女性だ。
そこにいたのは、確かに、魔女だった。
「……アザミ?」
「……そうだよ、御機嫌よう。そうだ、アザミだよ。魔女じゃなくて、ただのゴスロリ好きな……弱くて惨めで、無様で、哀れで、どうしようもなくて……少しも強くない、ただの人間。幸せに嫌われた、ただの人間」
「……随分と、大人びたもんだな」
「そうね」
「そして、随分と大人しい」
「そうね。本当のボクは、大人しいんだよ」
「仮面は守るよ、アザミ」
ヒナゲシは再びアザミを抱きしめる。少し背丈が高くなって、アザミはヒナゲシの肩に顔を埋められるようになった。縋るように、細くしなやかな手を背中に伸ばす。
魔女の魔法は解けて、魔女気取りだった少女は、魔女になってしまった女性へと変わった。魔女の仮面は割れて、強気だった少女は、延々と続く孤独に苛まれる女性へと変わった。
ヒナゲシはそんな仮面を拾い上げると、仮面をなんとか繋ぎ合わせて、アザミに付けてやる。そうしてから、彼女の体を強く抱きしめるのだった。
「ようこそ、アネモネ図書館へ」
自分に抱きついたまま泣き続けるアザミに、ヒナゲシは優しい接吻のような声でそう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます