最果て

 ある日を境に、ボクは上へと堕ち始めた。

 人々は自らを「堕落する」と言う。まるで生まれたときは無垢で罪も無い神聖な存在であったかのように。

 では、ボクは何者なのだろうか。

 歳を重ねるごとに、自らの高潔さを失い、堕ちに堕ちて神から分かれた一個体となる者。歳を重ねるごとに、神へと近づこうと、人生の階段を上がっていく者。

 ボクは、後者だった。しかし、ボクは他の賢者とは違っていた。

 歳をとらなかった。

 確かに、ゆっくりと歳をとっていくのだが、ボクはあまりにも、あまりにも階段を上るのが早かったらしい。辺りを見回しても、もう誰もいなくなっていた。

 だんだんと視界が俯瞰していき、世界を見下ろすようになった。世界がやけに小さく見えて、人間がやけに矮小に見えた。全ての物事の道理が、まるで絡繰の仕掛けのように見えるようになった。

 ボクはいつまでもいつまでもこの姿をしている。ボクはいつまでもいつまでも歳の若い賢者気取り。誰もいない。ここには誰もいない。

 そのスピードは止まらない。まるで地球が我々を引っ張るように、ボクはどんどん上へと引かれていく。正しく清く美しく。強く勇ましく目覚ましく。

 上へと、堕ちていく。

 誰とも話が合わなくなった。誰にも期待ができなくなった。誰にも頼ることができなくなった。誰を信じることもできないし、誰を愛することもできない。

 ねぇ、ここはどこなの? ボクは一体何者なの? こんなに上に上り詰めていくのに、どうしてボクはこんなにも黒く染まっていくの? どうしてこんなに苦しいの?

 ボクは泣きながら座り込んで、足を止めた。隣に寄り添ったのは、王子様、アンタだった。

「さぁ、どうして俺たちは、生きてるんやろなァ」

 彼の言葉に黒インクが滲んでいる。ボクの心を黒く黒く染めていく。

 どうして生きているんだろう。こんなにも長い時間、どうしてボクは生きているんだろう。こんなに寒くて独りぼっちで悲しいところで、どうしてボクらはなおも生きているのだろう。

 寒がって寄り添い合う。それでもなお寒い。体が凍り付いて動けなくて。人々は毛布をくれようとはしない。

 それは修行なのでしょう、女神様?

 それは運命なのでしょう、王子様?

 それは善行なのでしょう、女神様?

 それは美徳なのでしょう、王子様?

 ならば我々は、あなた方をを崇め奉りますわ。

 嗚呼、彼奴らに頼ろうだなんて間違ってるんだよ。ボクはそう呟く。あの馬鹿共に何が分かるんだよ。あの屑どもに何が分かるんだよ。無理矢理手を引かれるままに空へと堕ちていくこの恐怖の何が分かると言うんだよ。

 お前らみたいな堕落しきった人間には、ボクの気持ちなんて分からないんだろう? 美しい世界の中の醜い異物のように、ボクは汚い世界の中の美しい宝玉として生きているんだよ。怖いだろう? 世界が怪物だらけなんだ。お前は怪物には、分からないだろう?

 そしてお前らは言うんだ。

 この、魔女め。

「ボクはどうして生きているんだろう」

 涙を流しながら、顔を起こす。世界は絶えず浮動していて、体を動かすたびに拒絶反応がびくりと体を走って。ゲームのロードが遅いみたいに世界ごと瞬いて。動けなくて、気持ち悪くて。

 寂しくて。

「どうして生きようだなんて思っているんだろう」

 絶えず苦しくて。

「どうして死んでいないんだろう」

 絶えず虚しくて──

「もう止めにしよう、王子様」

 ボクの夢見た幸せな世界を、返してよ。

 ボクが魔女を名乗る必要は無い。ボクが悪に染まる必要も無い。

 ごく普通に愛されて、

 ごく普通に幸せで、

 ごく普通に健康で、

 ごく普通に健全で、

 ごく普通に美しく、

 ごく普通に楽しくて、

 ごく普通に幸せな世界を、返してよ。

 こんな狂った機械仕掛けの人間も世界も要らないから。こんな狂った体も脳も要らないから。

 返してよ。ボクの幸せを、返してよ。

 それでも、こんな高いところから飛び降りるなんて、怖いんだ。だから堕ち続けている。空へ、空へと。誰も手を引いてくれないから。ボクは怖くてずっとずっとずっと堕ち続けている。

「もう、止めよう?

誰も、誰もボクらを止めてくれやしないんだから。

誰もボクらに生きる幸せを教えてなどくれやしないんだから。

誰もボクの堕落を止めてくれやしないんだから。

幸せが戻ってきやしないんだから」

「──美香、」

「もう止めようよ、こんなの。止めよう。世界は帰ってこないんだから。孤独は終わらないんだから。布団の中で永遠に眠っていればいいんだよ。死ぬその日まで」

「美しく生きる話は、どこに行ったんだよ。幸せを掴み取る話は、どこに……」

「無いよ。幸せなんて、どこにも無いんだよ」

 言い捨てるように、自分に言い聞かせた。

 無い。そんなものなど、もうどこにも無い。何を目指して上ってきたのか、何を目指して空へと堕ちたのか、もう何も思い出せない。どうして今も生きているのか、何もかも。どうしてボクの歯車は噛み合って今も機械仕掛けの街を見せているのかも、分からない。

 ここは最果て。ボクの辿り着いた、世界の最果て。たった四畳半の、小さなベッドの中。限り無く広がる世界から隔絶された場所。

 さようなら。さようなら。さようなら。魔女の物語よ、聖女の物語よ、さようなら。御機嫌よう。御機嫌よう。

 王子様は舌打ちすると、部屋から出て行って、どこかへと消えて行った。



 布団の中、一人眠り続ける魔女。彼女の姿はもう、年端も行かぬ魔女ではなかった。

 成人した、酷く顔色の悪い、ただの女性だった。

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