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スミレが倒れてしまった。
ヒマワリは慌てて彼を自室に運び、寝かせる。動作不良ですわ、と大慌てするのだが、そこはツバキが宥めた。
彼はただ、働きすぎたのだ、と。
司書長たるヒナゲシも、スミレの部屋へと赴いた。同時に、館長代行たるシオンもやってくる。二人が司書の一大事に動くのは、至極真っ当なことだった──言い換えれば、誰が倒れていても同じことは起きていた。
以前ダリアが倒れたことがある。そのときだけは、シオンからアジサイへ指名があったくらいだ。
さて、スミレの部屋にて、ヒナゲシとシオンは椅子に掛けて、寝込むスミレを眺める。スミレもだいぶ顔色が良くなってきたとはいえ、倦怠感には敵わないらしい、体を起こすこともできないようだ。
シオンは小さく息を吐くと、スミレ、と呼びかけた。言葉を返すだけの元気はあるようで、スミレはその声に応答する。
「悪いな、起動不全で……」
「君はオーバーワークで倒れたんだ。分かりやすく言えば、キャパシティを越えてフリーズした」
「分かってるよ。まさかフリーズするなんて思ってなかったんだ」
スミレはそう言って苦笑いをする。
シオンの言うとおり、スミレはよく働く司書だ。自殺志願者とのカウンセリングもしながら、ツバキ・クロッカスの手伝いをしている。まだカウンセリングに立ち会うには早いと判断されているアヤメ・ヒマワリは二人の手伝いをしている一方で、スミレはその両方をこなしているのだ。
ヒナゲシ・キキョウ・ダリアは、基本的には自殺志願者とのカウンセリングを担っている。時には長い時間を食うこの作業は、精神的負担がかかる。ツバキとクロッカスは図書館の整備をしているが、こちらは身体的負担がかかる。
その二重苦は、確かにオーバーワークと呼ぶに差し支えない。
「昨日まではできてたんだけどな。バグでも起こしたのかな」
「君は本当に人間の体というものを分かっていないらしいな。人間の体は電源を切ったくらいではそう簡単に回復しない。それに、身体的ストレスだけではなく、精神的ストレスも考えなくてはならない」
「はは、そうなんだな……なんだかパフォーマンスが悪いなぁ」
ヒナゲシはスミレの笑顔に顔を曇らせた。彼の頭を、生前の記憶が過ぎる。
できる限りの仕事をこなそうとしたこと。
昼は仕事をこなし、夜は身売りをしていたこと。
警察に属してからは、人々のために、自分の限界まで仕事をしていたこと。
自分がすべき仕事以上のことをこなしていたこと。
その結果、精神的に追い詰められて自殺を選んだこと。
結局それは自分のせいで、同時に不運のせいだったこと。
シオンがちらりとヒナゲシの顔色を伺う。虚ろな目をした彼を見ると、スミレ、とまた呼びかけた。
「君は『見える』人間なのだよ。それは才能であり、努力の賜物だ」
「『見える』って? 定義は?」
「至極簡単に言おう。君はCPUの性能が高い。より多くの作業をこなすことができる。しかしながら、それなりに作業中に熱が出る。つまりファンを搭載しなければ動かない。違うか?」
「なるほど……俺はファンが無かったんだな」
「えーっと……僕、パソコンに興味無いので分からないのですが……」
賢い二人に置いていかれて、ヒナゲシは苦笑する。元AIと天才の会話に、ごく普通の学生だったヒナゲシでは追いつけやしない。パソコンの扱いは他の同僚に任せていたような人間だ。
されど、スミレは納得したようで、こくこくと頷いている。シオンは一息吐くと、コーヒーを飲みながら、蕩々と述べた。
「複数の仕事を処理できるというのは確かに利点ではある。だが、その点体力と気力を消耗することは忘れてはならない。特にその仕事が他の同僚と全く同じ賃金で行われるときは、だ」
「あはは、それは僕への皮肉ですね、シオン?」
「そうだとも。君たちは他人に比べて二倍の仕事をしている。ならば褒賞も休憩も二倍でなければいけないな、違うか?」
シオンはいつもこのような話し方をする。自分の論理展開をして、最後に、違うか、と尋ねる。だから、スミレもヒナゲシも、違わない、と答える。
スミレは額に手を当てて、乾いた笑い声を上げた。自嘲するような、呆れたような声だ。ヒナゲシはそんな弱った姿に、つい自分自身を重ねてしまう。
自殺したい、とキキョウに打ち明けたとき、キキョウもこのようなことを言っていた。だが、疲労しきって絶望したヒナゲシにはそんな言葉は何一つ届かなかった。全ての言葉が、絶望の前では無意味だった。
一方で、スミレはヒナゲシが絶えず抱えている絶望の中にはいない。彼は「自分ならできるから」やっている状況で、まだその行為を他者への不信感ゆえに行っている状況ではない。
「割に合わぬ仕事などしてはならない。ボランティア精神などもっての外だ。常に利害を考えて動くことこそ至高──流石に、そうは言い切れないだろう。けれども、前半部分は正しい。
割に合わぬ仕事などしてはならない。己の限界を知り、それに相応しい仕事と休憩をとることが大切だ。精神的にも、身体的にも」
「俺は精神的には休憩していたと思うよ。クロッカスやダリアとゲームしてたりしてたし……」
「君はまったく……休憩とは『何もしないこと』。電源をオフすることだ、分かったかね?」
シオンは頬杖をつき、たいそう不満足そうな顔で言った。
だが、スミレとヒナゲシはその言葉を受け止め切れていない。スミレはシオンの方に寝返りを打つ。
何もしないこと、とは。ぽかーんとしてしまった二人に、シオンもつられて口を開ける。伝わっていなかったことに気が付いたらしい。コーヒーカップを置くと、こほんと咳払いをした。
「失礼……説明しよう。『何もしないこと』とは、気力も体力も使わないことだ。
たとえば、ぼーっとするとか、放置ゲーを遊ぶとか、横になって動画を見ているとか……」
「だらだらする、ってことかな?」
「素晴らしい理解力だ。だらだらする。惰眠を貪る。お菓子でも食べながらごろごろする。
趣味と呼ばれるものは基本的に気力を使う。ダリアなんかがまさにそうだ、彼は本当に休み無く遊んでいるからな。ゲームをしていても疲れるものは疲れるはずなのだが……」
「その分働いてませんから、ダリアは。いかにサボるかを考えて、瞬発的に効率を上げて、残りはすやすや寝る。そういう賢い人なんですよ、ダリアは」
ヒナゲシの計らいで、ダリアの話題になる。彼がこの間倒れたのは、彼にしては珍しい、精神的負担からによるものだった。ヒナゲシとシオンはその一部始終を知っている。
一方で、普段の彼は非常に健康極まり無い──ジャンクフードばかり食べているというところは少しも健康ではないが。仕事するときはして、寝るときはとことん寝る。得意な時間に働き、遊び、苦手な時間は子どものように昏々と眠る。
シオンは口に手を当て、ふむ、と呟くと、ヒナゲシの説明から新たな論理を展開する。
「そのように『無理をしすぎない』人間の方が、かえって望ましく、信頼に値する──僕は、そう思う」
「そうかな?」
「いや、過言だな。常に『自分は無理に頑張ってますよ』とアピールする輩がいるだろう。ああいう人間はつまり、『自分のキャパシティをオーバーしたことを受け入れてしまう愚か者です』とアピールしていることに相応しいと、僕は『今気がついた』」
「うぐ……あんたはどうしてそうも僕を責めるんですか……」
「何も君だけではない。ここに集まった三人は皆愚か者だ。『三人寄れば文殊の知恵』とは言うが、そうもいかない例があるらしい」
ヒナゲシは目を細め、魘されている眠り姫のような顔をした。シオンは片方の口角を上げ、悪そうな笑みを浮かべるのであった。
「『最近はちっとも眠れていない』『また仕事を受け入れてしまった』『体調不良を押して仕事をした』──まったく、自己管理の不出来を誇っているようなものではないか。これまた『これくらいならできるはず』などという愚鈍な見通しを立てている証明であらざるや?」
「それもそうですけど……たぶん当人は、そこまで考えていませんよ。自分の話をしてるだけ、だと思います」
「良い反論だ、ヒナゲシ先生。これは随分と過敏な反応だな?」
スミレはまじまじと二人を見つめる。ヒナゲシが座り直して気怠そうに言うのに対し、反論されたにもかかわらず、シオンはたいそう満足げだった。
「え、今の論理、間違ってないと思うけど、俺は……」
「間違ってないさ。だが、間違っているよ。僕は信用できないと思ったが、ヒナゲシ先生はそうでなかった。何がおかしい?」
「……まぁ、いいか。賢くないと気がつけない、と思うし、そういうの」
「ちょっと、僕が賢くないって言うんですか」
「そうじゃなくて。もっと賢く仕事しないとな、と思ったんだ、俺」
スミレはそう言うと、赤い目を床に向けた。少し眠たそうに、怠そうに──それは、いつも元気な彼にしては珍しい表情だった。
「人間は常に最大効率を出せるわけじゃない。人間は複雑な変数をたくさん持っているんだ。それに応じて対処を変えなければならない。機械的な対応で、常に限界出力を出してはいけない。頭では一般的に可能だと計算結果が出ても、実際にはその出力を行うことはできない……」
「そうだな。活動量の計算式を変えるべきだ。君は高性能なんだから、それに見合った機能を搭載するか、それができなければ最大出力を使ってはならない」
「……なんか、ありがとうな。呑み込めた気がする。今はぼーっとして、ただぐっすり寝てることにするよ」
スミレはそう言うと、再び寝返りを打ち、目を閉じた。彼風に言えば、休眠モードに入った。
シオンは唇に人差し指をつけると、ヒナゲシにウインクをしてみせる。ヒナゲシは小さく一言呟くと、二人で足音も立てないで静かに部屋を出て行った。
「おやすみなさい、スミレ……」
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