戴冠

「ダリア、おはようさん……?」

 アジサイの控えめな声に、ダリアが薄らと目を開く。その目には何も映していない。彼の目には、ただただ潔癖で真っ白な天井が映っているだけだった。

 反応は無い。アジサイは手を伸ばし、躊躇ったように引っ込めたが、そっとその手をダリアの頭に当てた。

「熱、上がっとうなァ。具合、どう?」

「……水飲みたい」

「そう。今持ってくるわ」

 アジサイは立ち上がると、潔癖な部屋を出て、図書館内のウォーターサーバーへと向かった。小さく息を吐き、目を伏せる。

 シオンから命じられた、司書としての仕事。それは、熱を出したダリアの看病だった。いつもならば、皮肉と毒舌でそれを跳ね返していたが、アザレアに出会い、精神的に安定したシオンは、その逆であったアジサイをいとも簡単にねじ伏せた。

 友人の危機に寄り添わぬ人間など友人ではない。所詮君は管理者にすぎない。

 その言葉はアジサイに深く突き刺さった。ここ最近、正気を失ってしまったダリアの姿が頭を過ぎって、渋々承諾したのだった。

「あかんわァ……ほんまこういうの慣れてないねんな……」

 独り言は虚しく消えていく。

 ダリアは、自分が信じていたものが──否、抑圧して信じざるを得なかったもの──突き崩され、瓦解してしまった。彼は、虐待の結果、親を信じざるを得なかった。そうでなければ生きていけなかったからだ。

 無論、アジサイとて気がついていないわけではなかった。シオンもヒナゲシも、キキョウですらも気がついていただろう。ダリアの両親は、狂っていた。狂っていたものを、子供らしく、どうにかして信じなくてはならなかった。

 彼は、ずっと子供だった。良い子だった。大人にならねばならないときが来た。アジサイはそう思っている。

 コップに冷たい水を入れて、ダリアの部屋に戻る。ダリアは相変わらずぼんやりと目を開けているだけで、生きているのに死んでいた。彼を覆う憂鬱が、彼の視界を曇らせていた。

「水、持ってきたで」

「……ありがと」

「はい。飲める? ストロー差す?」

「いい……」

 ダリアはゆっくりと起き上がり、コップを受け取った。今の彼は三十八度近くの熱を出しているから、体を起こすのも一苦労である。水を飲み干すと、ダリアは再び横たわった。

 彼の目からは、何もせずとも涙が出る。熱が出れば、頭痛も酷かろう。ただ、それがアジサイには、泣いているように見えてならないのだった。

「……なぁ、ダリア。これは俺の独り言やさかい、聞かんでもえぇからな」

「……うん」

「聞かんでもえぇ言うとるのに」

 アジサイは苦笑する。手を組み、足を開いて座ると、彼は長い長い溜め息を吐いた。

「俺には、家族はおらんかった。せやけど、生まれたときから処刑人と葬儀屋の仕事をしとった。それが当たり前やった」

「……うん」

「せやから、結構疎まれとってな。俺は忌子として隔離されて。そんとき、何でも食わなあかんくて、何でも食って、不味くて吐いて、それからしばらく拒食症を拗らせるくらいには、キツい生活やってん」

「うん」

 今話している過去は、「パンドラ=クルス」としてのものに近かった。

 彼の生まれは、小さな村。死体を埋める、日本で言う穢多のような役目をしていた。日本では穢多は革製品の売上で過ごしていたが、その村ではそんなことも無く、ただただ汚らしい仕事として扱われていた。

 彼はその過去を、もうずいぶん前のものとして克服している。彼にとっては、所詮は過去。ゆえにこそ、その壮絶な過去は話すに値するのだった。

「村を逃げるように出てからも、俺はただただ人殺しに明け暮れとった。俺はそれしか知らんからな。殺し屋を請け負うようになった。散々虐められとったから、人を虐めるのが気持ち良くて堪らなくて──せやけど、嬉しさは無かった」

「うん」

「せやけど、今はやめとるよ。別にあの殺戮の日々は愉しくも何とも無くて、ただただ、惰性のような日々やったと思っとうよ」

「うん」

「……俺、何でこないなこと話しとるんやろな。お前がこれで楽になるなんて思ってへんのに」

 長い溜め息と、眉間にシワの寄った顔。最後の一言は、アジサイの独り言に近かった。ただ、とアジサイは一言続ける。

「狡い、気がして。お前の過去を知っときながら、俺の過去を話さへんのは、狡いなって」

「……馬鹿だなァ、アジサイは……」

 ダリアが小さく呟く。アジサイは顔を上げ、クク、と笑うダリアを見つめた。

「自分から弱みを見せて、誠意を見せたつもりになって……付け込まれるかもしれないのに……」

「……せやな。せやけど、俺はもうこの過去を引きずらへんよ。これは所詮過去で、今の俺とは違う」

「そうだね……偽善、だね」

「偽善、やな。すまん、ダリア」

「……ごめんね、嬉しいよ」

 アジサイは目を見開く。ダリアは重たい腕を目に当て、乾いた笑い声を発した。

「その偽善が、嬉しくて仕方ないよ……」

「ダリア……」

「嫌だなァ、卑しいなァ……」

「卑しくなんかあらへんよ。人間は他人の不幸を喜んでえぇねんで」

「他人のことなんか、どうでもいいのに」

 ダリアの声は掠れている。アジサイは、ダリアの額に貼られたシートに手を当てると、箱から新しいものを出して貼り直した。つめたい、とダリアが声を漏らす。

「どうでも良くないのが、友人なんとちゃうか。貸し借りとか気にしてしまうところとか、な」

「……はは、別に、何も解決してないよ……」

「なにも解決しいひんよ、そりゃァ──まだ始まったばかりやさかい。こっからどう生きるかが大切なんとちゃうか。俺もそう、お前もそう」

「……そう、ね……」

 再びダリアが体を起こした。ふらつく頭を、アジサイが慌てて押さえる。ダリアは喉を鳴らして嗤いながら、その黒い目に鈍く鋭い光を宿した。それはまさに、黒鉄の切っ先のようで──アジサイは、ぞわりと背筋が震えるのを感じた。

 嗚呼、イイ顔だ。

 ダリアは口角を引き上げ、憎悪に満ち溢れた笑顔を浮かべた。憎悪を知らぬダリアの、初めての感情だった。

「あのクソ親共に押し付けられた世界なんざ、ぶっ壊してやるよ……」

 酷く低い声だった。ダリアが往年押し殺してきた感情のこもった、熱のある言葉だった。アジサイは思わず嗤いだすと、ダリアの背に手を当て、したり顔で続けた。

「そうだ。お前は彼奴らに一矢報いるためにも、そのような生を生きろ。お前は彼奴らと同じ精神病棟行きにはならないと誓え」

「ハッ、精神病棟行きなんて御免だね。あんなのはあの豚共にぴったりな豚箱だからな」

「そんじゃ、正気に戻れそうか?」

「あぁ、もちろん。あんな家畜共に悩むなんざ、時間をドブに捨てるようなものだからね」

「その意気だ。誇り高く生きろよ」

 ダリアは顔を起こすと、アジサイに向かって笑いかけた。今度は、いつもの妖気な笑顔だった。されど、彼は相変わらず熱に浮かされていて、すぐにふらついてしまう。アジサイはそれを支え、ダリアを寝かせながら、まずは風邪を治すところからやな、と楽しそうに言った。

 アジサイが被った冠を、ダリアも被る決意をした。彼らは彼らの人生の王となることを決めた。それは即ち、アジサイにとっては、ダリアが自分の位置まで上り詰めてきたことを意味した。

「嗚呼、まったくお前は、可能性の塊だなァ……」

 みくびっていた、とアジサイは心の中で呟く。変化の訪れぬ人間だと勘違いしていた。一生自分らが面倒を見るものだと勘違いしていた。今はもう、ダリアは、目の前にある壁を何を築いてでも乗り越え、アジサイと対等になろうとしている。

 また眠りに就こうとする静かな獅子を見ながら、アジサイはたいそう嬉しそうに、赤みの差した顔で微笑するのだった。

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