零点

「ドッペルゲンガーに会うと、殺されてしまうんだって」

 そんな噂を、ダリアとて信じていないわけではなかった。そもそも、ダリア本人としても、もしも自分がもう一人いると知ったら殺害したくなるだろう。自分に殺される自分が如何にイイ顔をするか、想像するだけで彼は満たされる。

 彼が「自殺した」と報道された世界に戻らなかったのは、そのような理由も一つにはあった。いつかは自分自身に出会い、殺害してみたい、と彼は思っていた。

 それは、あまりにも唐突で、彼自身も心の準備が出来ていないとき。彼が大好きだったゲームセンターに、同じ顔をした存在がいた。

「あ……」

 声を漏らした彼は、非常に「イイ顔」をしていた。



 ダリアはその男性──神崎昴を、彼が一人で住む部屋へと案内させた。昴もダリアに対しては好感的で、勿論「自分殺し」に興味があったのだろう、とダリアは推測する。

 確かに昴の部屋は、自分自身の部屋と同じで、物もほとんど無い潔癖さが広がっていた。昴はダリアをリビングの黒い椅子に座らせると、冷蔵庫から二つレーズンバターサンドを取り出して、片方をダリアに差し上げた。

 昴は片目を細め、茶目っ気を込めて微笑む。

「あはっ、ドッペルゲンガーが存在するなんて。でも、アンタの方が大人なんですね」

「そ? 僕は今、三十の半ばくらいかな。アンタは?」

「僕はまだ二十半ば過ぎたばっかりですよ。アンタもやっぱり警察官なんですか?」

「いいや、もう辞めましたよ。連続殺人して指名手配までされましたっけ」

「かっけぇ……僕はまだまだ殺す人間を決めてなくって。あのときと同じくらい美しい人間に出会えたらなァ……」

 そう言って昴は憂げに溜め息を吐く。無論、ダリアはこの後の彼が最高に唆る相手と出会うことは知っている──神崎慧という、誰よりも美しく、誰よりも恐ろしい人間に。その衝撃に気を狂わせる様を想像するだけで、ダリアは背筋が甘く震え上がるのを感じた。

 ところで、と昴は呟く。彼はレーズンバターサンドを齧りながら、目を丸くして尋ねた。

「親で殺人の練習とかしました?」

「親で? しませんよ。アレは本番に残しておきました」

 ダリアは自分の殺人について覚えていない。しかしながら、知識としては知っている。彼が殺害したのは、手始めに神崎慧。次に神城誠。次に両親で、それ以降は大学の友人だった。感覚は覚えていないが、ダリアは両親を殺す際、神崎慧ほどではないが、それなりの快楽を得たのだと記録されている。

 そもそも、両親を殺したのは、ダリアからの親孝行のようなものだった。両親は愛ゆえにダリアを「矯正」した。ふと、ダリアは自分の手首に目を向ける。いつものようにそこには包帯が巻かれている。その下には、無数の切り傷がある。

 向かい側の昴を見る。彼の腕には、包帯が巻かれていない──「矯正」されていないのだ。ダリアは驚いて、腕を指差す。

「アンタ、リストカットは?」

「え? リスカ? あぁ、アレはもうやめましたよ。何の意味も無いので」

「何の意味も……?」

「昔は、僕はこれ無しじゃ生きていけなかったんですけどね。僕は正されないといけない人間だ、って思ってましたから……でも、カウンセリングを受けて、それが間違いだって気が付いたんです」

「……は?」

 昴はそう言いながら、クスクスと女狐のように笑った。悪戯っぽく笑いながら、腕捲りをしてみせる。そこには白い傷跡が残っていたが、ダリアのような赤い傷は一つも見当たらなかった。

 「矯正」は、いわばダリアにとってのおまじないだった。歪んで生まれてきた彼が、人の世に馴染むための躾であった。両親から離れた後も、ダリアは両親の教えを遵守するが如く、自らの身に罰を刻み続ける。

 ダリアは、精神病質を抱えているからだ。

 昴はそんなダリアのことを知らずに──同じ精神病質者だ、知るつもりも無いのだ──楽しそうに続けた。

「アンタんとこもそうだと思いますけど。センセー曰く、うちの親って発達障害持ちみたいなんですよね。父親がASD、母親が知能指数が低い……だったかな? 僕は賢いとこだけ貰ったんで、適応障害で済んでましたね。いやァ、それを宣告された親の顔は最高でしたっけ」

「……ハァ……?」

「『俺の何が間違ってたんだ!』って父親が無様に怒ってたの、超ウケたっけ。そんで、僕の場合は、そのまま児童虐待で精神病棟行きですよ。ホント、僕の十数年返せよって思いましたけど、今思えば笑える話ですよね、ハハッ」

「父さんは……母さんは……間違ってる?」

 ダリアの声が揺らぐ。昴はきょとんとした顔になると、ダリアの腕に目を向け、心底驚いたような顔で続けた。

「そういうアンタは、まだソレ続けてるんですかァ? 無意味ですよ、ソレ」

 そこからはもう、一瞬だった。ダリアは懐からカラビナナイフを取り出し、昴に襲いかかる。昴は興奮に喘ぎながら、それをひらりと避けた。

「……っは、ッ、ヤバ、今のイイ……ッ!」

「父さんは間違ってないッ!」

「え、何言ってるんですか? 父さんが間違ってたんですよ。もしかしてまだ分かってない系な? あははははッ、ウケる」

「僕が間違ってるから、父さんは僕を『矯正』してくれた! 母さんは僕を『矯正』してくれたッ! そんなはず、二人が間違ってるわけが無いッ!」

「あはははははは! 絶望したァ? 絶望しちゃったァ? ふっ、分かりますよ、僕だって絶望しましたもん。あんなに僕を虐待して躾けたのは全部全部親が狂ってたから、あの二人は狂ってたんだ、あの二人の為に僕はどれだけ虐められたんだ、って!」

「狂ってなんかない……ッ!」

 ダリアは再び襲いかかるが、その動きは鈍い。昴にかわされて倒れ込んでから、嗚呼、これじゃァセンパイも殺せない、とダリアは腹に突き刺さるナイフのような冷静さを取り戻した。

 父さんと母さんが狂っていた。虐待だった。矯正など何の意味も無かった。矯正される必要など無かった。僕は狂っていなかった。

 ダリアの頭の中は真っ白で、訳も分からないまま絶叫した。

 違う。違う。何で僕は二人の行為を正当化していたんだ? どうして僕は自分を矯正していたんだ? どうして? 二人の言うことは絶対だったから矯正したんだ。二人の言うことは正しかったから、愛ゆえに罰を与えるのは正しいから両親を殺したんだ。なぜ? なぜ気が付かなかった? なぜ信じていた?

 なぜ僕は自分を間違っていると認識していたんだ?

「ああああああああああぁ……!」

「うわ、怖。精神異常者かな? まァいいや、そっちがその気なら、僕も殺しちゃおっかな……」

 昴は台所に赴くと、綺麗に研がれた包丁を持って近づいてくる。笑顔に曇りは無い。迷いも無い。彼はただ、自分の意思と欲望に基づき、独善的に立ち居振る舞う。それがサイコパスだから。

 ダリアは両目を押さえた。押さえても手からは水滴が流れていた。手がびしょびしょになっていた。彼の頭を巡る、「矯正」の数々。父親の怒号。母親の激昂。手首を切りつける音。それらを塗り潰していく黒の異常という二文字。異常。異常。異常。異常。異常。異常。異常。異常に発達した知性。異常に発達が遅れた理性。母親と父親に貼られた異常のレッテル。狂ってる。狂ってる。狂ってる。最初から全て狂っていた。

 振り下ろされる刃は、唐突に止まった。ダリアは思わず手を離す。すると、その腕をがっしりと掴む大きな陰があった。

「刃物の扱いも下手くそなガキなのに、人殺しなんて身の程知らずにも程があるんとちゃうかァ? なァ?」

 突然現れた影を、昴は凝視する。昴の白い首筋には、一本、赤く細い線が引かれていた。昴は包丁を落とし、自分の首に恐る恐る手を当てる。微かな切り傷、血痕。

 破裂するようにして、昴は笑い狂った。ふらつき、その計算され尽くした浅い切り傷に酔った。息を吸うたびに絶頂感すら覚えながら、現れた男性を見上げる。赤茶の髪に、鋭く光ったペリドット。

 その男性は、手に持ったナイフを腰に差すと、泣き崩れたダリアを引っ張り起こした。

「自分自身に会うなんて、世界が崩壊したらどうしてくれんねん、このじゃじゃ馬。もー、そういうとこ心配やねんで、お前」

「あじ、さ、」

「帰んで。ほんま、戦闘狂は一人で充分やってん」

「あは、あはははははは……! イイ、イイよ、アンタ、誰だよ! 超最高……! 血の臭いがする、なァ、アンタは、」

「アジサイ、やで」

 ダリアを抱え、アジサイが振り返る。不敵な笑みを浮かべ、挑発するように続けた。

「アジサイ。覚えとき、な?」

 ふふふ、と昴の部屋にアジサイの嘲笑が染み渡る。昴は腰を抜かして笑ったまま、その姿が忽然と消えるのを、熱を帯びた目で眺めていた。



「ダリア」

「とーさんは、まちがってなんか、あぁ、とーさんは、」

「ダリア……」

「ぼく、ぜんぶまちがってて、う……」

 トイレで何度も嘔吐するダリアの背を撫でながら、アジサイは目を細くした。気持ち悪、と呟くダリアの声は、酷く震えて掠れていた。

「さむ、い……」

「上着着せたろか、ダリア」

「いたい……いたいよ……いたいよ、とーさん……いたいよ、やめてよ……」

 ダリアは自分の手首に手を当て、蹲る。何度も同じことを繰り返すダリアの背に自分の上着をかけた。暫くアジサイは座ったまま、ダリアのうわ言を聞いていた。

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