王者は剣を交わす

「あんたですね、ダリアをおかしくしたのは」

 金属音を立て、ティーカップが置かれる。アジサイは一度瞬くと、甘い微笑みを浮かべたヒナゲシを見下ろした。

 アジサイは本来、司書の仕事はしない。するとしても、ツバキやクロッカスの手伝いくらいだ。「司書」の本来の意味らしく、本の整理を主に担当している。それはミカンの采配であり、本人の望みでもあった。

 一方のヒナゲシは、司書長である。彼はキキョウとヒマワリを除く司書に寄り添い、共にカウンセリングを行う。

 そんな二人の接点といえば、ダリアくらいだった。

 ヒナゲシは茶の長い髪を緩く結び直し、にこりと蜂蜜の笑みを浮かべる。アジサイは手を組み直すと、へらっと人の良い笑顔を浮かべた。

「おかしくなった、って?」

「自覚、無いんですね。アジサイさんは、どこまで図っていて、どこまで図っていないか読み取り辛くって困ってます」

「……せやから、説明を」

「ダリアは今まで自分を疑ったりしなかった」

 アジサイの口角が下がる。ヒナゲシは上品な手つきでティーカップに指を掛けると、まだ湯気の立つ紅茶を口に含んで飲み下す。舌に熱さの一つも感じない。彼は視線を水面に落としたまま、淡々と続ける。

「彼は精神病質者です。自分のことを省みることはありませんし、自分のことを改めることはありません」

「あはっ、よう分かっとうよぉ。彼奴はほんま自己中心的やし、そういうとこが面白くて付き合ってんねんけどなァ」

「ですが、彼は今、自分を振り返りつつあります」

 背筋を正し、優しく甘ったるい声で続けるヒナゲシと、徐々にその表情を険しくしながらも、作り笑顔を続けるアジサイ。冷え切った彼の目と、温かい紅茶とが、アンバランスなコントラストを生み出していた。

 ヒナゲシはまるで、子どもを見るような穏やかな目を、誰もいない宙に向ける。その様はまさに、聖母のようだった。

「彼は今、ようやく自分の欲求に、自分の頭に刻み込まれた偏見に、気が付きつつあります。それはとても望ましいと思いませんか、ねぇ?」

「……で、それが何で『おかしくなった』になんねん?」

「彼にそれは必要だったのですか?」

 アジサイの目が、きっ、と鋭くなった。今まで微笑んでたのを潜め、鞘に包んだ刃を剥き出しにする。そして首元に近づける──彼は低い声で、少し早口で、応えた。

「ほんま、阿保ちゃうか? 『変化しないこと』を賛美してるなんて、どっかの宗教団体ちゃいます?」

 ヒナゲシの目蓋が震えた。哀れむような、そんな殊勝な笑みだ。アジサイは喉の奥がぞくりと震えるのを感じた。

 気持ち悪い──彼はそう吐き捨てた。それでもヒナゲシは、そんな言葉を物ともせず、平坦に笑い続ける。

「つまり、あんたは彼を変えたかったから、あえて彼を傷つけたんですね?」

「……あー、ハイハイ、そういうやつやんな? 『うちの子に手ェ出したらいてこますぞ』精神やんな?」

「それはキキョウの仕事です。僕には関係無い」

「教祖様はつくづく信徒を扱うのがお上手でいらっしゃいます。自分のもんに手ェ出されたから俺にキレとうだけやろ?」

「僕は怒りません。訊きたいだけなんです」

 ヒナゲシはこてんと首を傾げ、愛らしく笑う。香るラベンダーに、アジサイは苦々しい顔をした。

 彼の言葉は、人の建前を溶かす。溶かし尽くして本音を剥き出しにして、そのドクドクと脈打つグロテスクな本音を抱きしめる。妊婦が腹を撫でるように。可愛らしい兎を撫でるように。そうすることで、野生は消え去り、晴れて「我が子」が出来上がる。

 アジサイもその掌の上で転がされていることを、強く自覚していた。こうしてヒナゲシに嫌悪感を持ちながら、アジサイは化けの皮を剥がされていく。そしてその後に待っているのは、底無しの肯定──話せば話すほど、離れられなくなる。

 それに囚われているのが、「信徒」だ。

「……俺はお前とは話さない」

「そんな、僕は人とお話しするのが大好きなのに」

「お前に都合の良い話しか聞かないだろうが。そういうとこまでシオンの写しみたいだな」

「シオンの写し……光栄です。僕は賢くないので、」

「かわしてんじゃねぇよ。何が言いたい」

 遮るようにアジサイが刃を突き刺す。ヒナゲシは微笑みを崩さない。彼の微笑みは変わらず、慈悲深く美しく、それでいて胡散臭い。詐欺師の微笑みだ。そう言えばヒナゲシが黙り込むことを、アジサイもよく知っている。

 ただ、アジサイは、無駄な殺生は好まない。ヒナゲシもまた、無駄な折衝は好まない。それだけだ。

「……僕は別に、あんたに敵意を向けているわけでも、否定的なわけでもありませんよ? おかしくなった、というのに語弊があるようで、そこは謝罪します。

むしろ僕は肯定的なんです。誰も気がつかせることができなかった彼の本心を暴くのを、手伝ってくれて、」

「そしてお前のものにした。違うか?」

「……それは別に、僕が望んだことじゃなくて、」

「弱みにつけ込んで甘い言葉を吐く詐欺師の常套手段だ。違うか?」

「……話は最後まで聞けよ」

 ヒナゲシの声が低くなる。遂に彼の表情から慈悲深さが消えた。悪魔の面が剥き出しになる。アジサイは歪んだ笑みを浮かべ、狡く笑った。

「ほぅら、出てきはった。それが本性やろ? ほんっま、自分の都合の良い話しか聞かへん愚か者やわァ」

「それはどうも、僕は都合の良い話しか聞かないんだ。都合の良い話をしてくれる人間としか関わらないからなァ?」

「開き直っちゃって、あはは、ほんま、阿保みたいやわァ。さっさと自分のもんに手ェ出すなァ言うとれば良かったんに、なァ?」

「人の話を最後まで聞きやしない、行間を読めやしない、決めつけてかかる。屑の骨頂だな」

「決めつけてかかるのはお互い様、やねんなァ?」

 ははは、とヒナゲシは不敵に嗤った。彼の顔が歪む、歪む。愉悦に満ちる。ヒナゲシが隠し持っていた地雷が露わになって、刃が放たれる。アジサイはそれを、乱舞するように、演舞するように受け止める。

 それがあまりにも愉快そうで、互いに血が迸っているのに、そんなのも気にならない。ヒナゲシは痛みを感じないし、アジサイは血に興奮する。

「僕が言いたいのはそんなことじゃない。ダリアの自尊心をぶっ壊しにかかったのはあんたか、と、それを意図的にやったのかどうなのか、と訊きたいんだよ」

「アレか? アレは意図なんて無い。思ったことを言うただけやで?」

「友人としてそれはどうなんだよ?」

「何やァ、結局論点はそこやねんなァ?」

「ダリアはあんたの友人ですらない。友人ならば気を使う。ならばなぜあんたはダリアを手放さない?」

 ヒナゲシの打った一手が、アジサイを黙らせる。ぴたり、と止まったアジサイに、ヒナゲシは長い前髪の隙間から、くぐもった目を向け、すう、と息を吸い込んだ。

「あんたこそ、『面白いから』ダリアを自分の手の内に入れて観察したいだけだろうが」

 ゆらり。エメラルドの瞳が揺らぐ。ヒナゲシは俯きがちなまま、ククク、と喉を鳴らし、蛇のように口を開いては、舌を出して嗤う。

「『面白いから』司書を引き受けた。『面白いから』ダリアを友人として置いておくことにした。

人を教祖様呼ばわりする前に、どうしてそんな簡単なことが見えない? あんたは賢いんだろう? 何でもお見通しなんだろう? なァ、なァなァなァ、そうなんだろう?」

 アジサイは押し黙る。自分の体を抱きしめ、憂うように、嘆くように、興奮を抑えるように震えるヒナゲシは、ただただ嗤っていた。泣きそうな顔で、愉快そうな顔で、恍惚とした顔で。

「嗚呼、唖々……あんたもやっぱり分かりやすい! みんなみんな分かりやすい! 手に取るように分かる! 頼ってほしいなんて言うのは、自分の手の内に入れておきたいから! 毒舌を吐いては自己正当化に溺れる自己正当化の豚……ッ!」

「……阿保、やな。一つだけ間違っとうよ」

 ヒナゲシの死んだ目が、じとりとアジサイを睨み付ける。彼は心底、つまらない、と言いたげだった。冷めたハニーイエローがアジサイの言葉を待っている。

 腹の底を震わせ、アジサイは答える。その声は怒りにも愉悦にも満ちていない。いっそ、空虚ささえ孕んでいた。空っぽで、寂しげで、それでいて憂鬱な──彼の中身が、ごろんと、その場に落ちる。

「……ダリアのことを、物だなんて思ったことは無い、つもりだ。友達になりたい、と思っている……」

 そうですか、とヒナゲシは静かに返した。

 アジサイは自分の手を見つめて、憂げに目蓋を閉じた。絞り出すようなその本音が、ヒナゲシの突き刺した刃から溢れ出して、血溜まりになって広がっていく。

 そもそも、二人の剣舞は、あまりにも無理があった。かたや、今でも罪悪感に震え頭を下げ続ける臆病者。かたや、死を願い快楽を求めて世界を彷徨う異邦人。二人は剣を持つには、あまりにも、あまりにも傷つきすぎていた。

 ヒナゲシはティーカップを下げ、座り直す。彼はもう、微笑んですらいない。向かい合うアジサイを、まるで道端の石でも見るような顔で眺めているだけだ。

「分かりませんよ、そんな本心。普通の人にそんなこと、分かると思います?」

「……彼奴は、聡いからなァ。この間も、俺の本心を見抜かれたし」

「自分の物だからといって、見縊ってはいけませんよ。彼はとても賢く、鋭い」

「そんなことが言いたかったのか、あんたは」

「別に。僕はただ、そんな二律背反なあんたの本心が知りたかっただけ」

 吐き捨てるように言うヒナゲシを、アジサイは微かに嘲笑った。ヒナゲシの顔つきは変わらない。テーブルクロスの縞をただ眺めている。虚ろに、静かに。

「ハッ、教祖様らしいな。他の誰もをまるでゴミクズのように扱って、豚のように飼育して、監視して。本音を引き出して何になるかと思えば、結局は弱みを掴んで詐欺師紛いのことをするだけ。とことん最低やな」

「えぇ、僕は詐欺師です。ですから、嘘も吐きますし、人も騙します。僕は演技の得意な人間なんです」

「そんなあんたに心酔してる奴なんか、あ……?」

 ヒナゲシの顔が綻んだ。再び悪魔の笑顔になる。眉を上げ、挑発的に微笑んだ彼は、スマートフォンの画面を見せた。

 表示されているのは、「神崎昴」の文字と、「通話中」の文字。

 アジサイの喉がヒュッ、と鳴った瞬間、携帯から爆音で笑い声が上がった。

『あはははははは! マジで気がつかなかったんですかァ? 超面白い! ガチで驚いてますよねこれ? ちょっとビデオ通話にしてくださいよ、センパイ』

「はいはい、今しますよ」

「阿保ッ、おい、やめ、」

『御機嫌よう、アジサイ! いやー、面白いもん聞かせてもらいましたよ、その顔最高ですねェ!』

 画面の先でダリアがケラケラと嗤っている。アジサイは自分の顔が、酔いが回ったように熱くなっていくのを感じていた。ヒナゲシはヒナゲシで、片目を細め、にやりとあくどい微笑みをしているのだった。

 アジサイは自分の顔に手を当て、俯く。やはり、掌で転がされていた。ヒナゲシとの乱舞ですら、全て虚構。そう片付けようとしたときに、ヒナゲシは相変わらず化けの皮の剥がれた声で、まァ、と小さく呟いた。

「あんたと舌戦してたときは、シオンと話してるみたいで心底面白かったけどな。あんた、やっぱり面白いよ」

「……阿保か、アレも全部演技だろうが!」

「演技じゃありません。あんたは分かってない。僕はあんたの言葉に心底傷ついたし、僕はあんたを傷つけた。そこだけは、本当だ」

「じゃあ、何でこんなこと──」

「あんたの本音が聞きたかったんです」

 電話越しのダリアがようやく笑い終わる。大きく息を吐き、モノクル越しの目を擦りながら、ダリアはアジサイに向かい、いつもの女狐らしい笑みを浮かべた。

 無意識的に、ヒナゲシの言葉を聞いたアジサイは、ダリアから目を逸らす。確かに、彼の面は剥がれ落ちた。他人を物としてしか扱えないはずのアジサイの、小さな慈悲。それは彼を辱めるものであり、貶めるものでもあった。

 電話越しのダリアは、アジサイ、と楽しそうに言う。アジサイは鬱雑ったそうに目を細め、何や、とちっとも優しくない声で答えた。

『僕も、アンタと良い友達でいたいんですよ』

 アジサイが目を見開く。顎を乗せ、そっぽを向いていたアジサイは、少し俯き、赤茶の髪から赤い耳を見せて、そうかい、と投げやりに返した。

 ヒナゲシは足を組み直し、髪の先を弄りながら、斜め下を見やる。

「僕としても、あんたの本性が分かって助かった。あんたは僕が思うほど徹底した王子様じゃない」

「……そうですよ、俺は所詮可愛らしい王子様だ。自分の臣下を甘やかし、慕われることに幸せを感じる。人殺しの経歴だっておまけのようなものだ。

俺の方こそ、そんなに面白げが無いねんで、ダリア」

『んー、いや、センパイで慣れてるんで、全然許容範囲ですよ。でも可愛がられるのは心底ムカつくんで、そこは対等にしません?』

 アジサイがちらりと画面に目を向けた。ダリアは三白眼でアジサイを見ている。にへらっと笑いながら、陽気に、甘いお菓子のように。そんな様を見て、ふと、アジサイの口角が緩んだ。

『僕、そろそろ対等で遊んでて面白い友達が欲しいんですよねェ。あらかた殺しちゃったんで、そういう奴ら』

「……は、俺はそう簡単に殺されへんよ?」

『ま、いざとなったら殺り合いましょうよ? 最高に唆ると思いません?』

 ふふふ、と笑い返すアジサイを見ながら、ヒナゲシは元の甘ったるい聖母の顔に戻り、口を微かに動かした。

──うらやましい。

 それを、二人が見ることは無かった。

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