嗚呼、愛しのオム・ファタールよ

 「それ」が人間だなんて、きっと、一度だって思わなかった。今だって、出会ったそのときだって、俺は「それ」を、人間だと思ったことも無い。そして、今後一生そう思うことは無いのだ。

 あの人は──人間ではないのだけど、便宜上そう示そう──一度見たら忘れられないほど美しかった。モデルや男優と言われても疑わない。亜麻色の長い髪、蜂蜜色の垂れ目、長い睫毛、細くもよく筋肉のついた身体、白い肌。その美しく洗練された体は、むしろ人形と示すにふさわしいと、俺は思う。

 だから、あの日、傷だらけのあの人が俺にそっと微笑み、自分の灰桃色の唇に人差し指を当て、俺の名前を呼んだあのとき、俺は胃を握り潰されるような寒気に襲われたのだ。

「内緒、ですよ」

 気持ち悪い、と思った。それはもう、吐きそうなほどに。女々しくも雄々しい、その体付きといい、甘ったるく吐息混じりな声といい、何もかもが、花のようだった。

 これは人間じゃない。こんなに傷を負っているのに、痣だらけなのに、可憐に微笑む彼は、人間であるはずがない。

 神崎慧は、俺の先輩だ。



 神崎慧という生徒は、柔道部の中でも折り紙付きの怪力、誰も彼には敵わなかった。それでいて、女性のように長い髪をしていて、しなやかで、一見すればか弱そうに見える。いつもにこにこと穏やかに微笑んでいる、後輩からすれば優しい先輩だった。

 他の後輩が「唯一優しい先輩」として慕う一方で、俺は彼を毛嫌いしていた。昔の俺は荒れていたから、優しくされる方が見下されている気がして腹が立つし、厳しく締め付けられれば全力で反抗する。

 さて、そんな生徒が、三十年前の日本教育において、目の敵にされないわけが無かった。クソみたいな顧問は平気で俺たちを叩くし、罵るし、体罰の全てを網羅していた。特にあの人は目立つ見た目をしていたから、顧問はあの人を甚く嫌っていた。

 髪を引っ張り、殴り、組み伏せ、されど、あの人は反抗しない。ただ微笑を浮かべているだけだ。それがさらに顧問を激昂させる。そして竹刀で叩かれる。後輩たちが彼を慕っているのにはもう一つ理由があり、それは、あの人に顧問の目が行っているときは、自分は一切虐められないからだ。

 そんな最低な理由であの人を好きになれるわけも無い。それも俺があの人を好きになれなかった理由だ。

 神崎慧は、殊に被虐に長けていた。あの人はきっと、被虐と共に生きてきたんだと思う。それは昔も今も変わらない。だから、クラスメイトに身包み剥がされて、女子生徒とヤらされていたときも──俺は、俺は──俺は、それをまざまざと見せつけられることになるのだ。

 あの人は、笑っていた。すきだよ、さとしくん。そう言って泣きながら自分の上で腰を振る女子生徒を、周りを囲んで騒ぎ立てる男子生徒を、女子生徒を、笑って眺めていた。

 思わず家に帰って吐いた。妹に心配された。無視した。何も聞きたくなかった。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い──生徒らの笑い声と、女子生徒の喘ぎ声と、ふ、と漏れるあの人の吐息が、気持ち悪くて、何も食べられなくなった。

 目を閉じても、あの人が虚ろに微笑んでいる様がこびりついて離れなかった。嗚呼、知っている、この顔は、優の顔だ。大丈夫だよ、お兄ちゃん、そう言って傷だらけの背中を隠して笑っている、あの顔だ。

 あんな顔ができるのは、人間じゃない。次に見つけたら絶対に止めてやる。そんな正義感をも打ち砕く、彼の静かで妖艶な声。体育館裏、俺が胸倉を掴んだら、あの人は俺を力強く突き飛ばし、ふらふらと背筋を正しく、唇に人差し指を当てて──

「内緒、ですよ」

 美しいアゲハ蝶だ。

「先生に見つかったら、あの女子生徒にも迷惑になりますから。それに、あの子は悪くない。ただ僕を愛していただけ。可哀想じゃあありませんか? ですから、見逃してあげてくれませんか?」

 馬鹿かよ。

 俺はあの人の綺麗で綺麗で端正で美しくて妖艶で甘くて優しい顔を思いっきり殴った。あの人は一瞬ふらりとよろけた後、すぐに元の姿勢に戻って、頬を抑えながらクスクスと笑った。

 何がおかしいんだよ。何で此奴は笑ってるんだよ。殴られたら痛いって言うのが当たり前だろうが。お前は、お前はサンドバッグか何かかよ、お前は人間じゃない。

 憤慨して、涙を散らして殴りかかる俺に、あの人は何も言わずにその頬を差し出した。右の頬を殴られたら、左の頬を差し出せ。そんな阿保臭い教義を、あの人は堅実に守っていた。



 優を返してくれ。俺の優を返してくれ。何でお前らなんかが俺の優を奪うんだよ。何で優が死ななきゃならなかったんだよ。お袋の激高に巻き込まれて無理心中? はぁ? 馬鹿じゃねぇの? なんて愚かなんだよ? 自分勝手、身勝手、臆、阿保かよ、ふざけるな、嗚呼唖々ふざけるなお前ら人間なんて大嫌いだ死ね死に晒せ全員死ね全員殺してやる絶対に許さない絶対に許さない死ね死んじまえ。

 でも、もう遅い。彼奴らは死んだ。

 何で、前もって、殺さなかったんだ、俺は。あんな生きる価値も無い屑どもをどうして殺さなかったんだ。優が壊れる前に。どうして。どうして、どうして、どうして、どうして──どうして、何で、俺はそんな弱虫だったんだ。

 最低なお兄ちゃんだ、俺は。

 優を、返してくれ。



「嗚呼、本当に大変でしたね」

 あの人の優しい声。

「あんたはよく頑張りました」

 あの人の温かい肌。

「理不尽に激昂して、与えられた運命に抗いたくて、必死だったんですね」

 あの人の節のある指。

「頑張って強がったんですね」

 あの何かの黄色い目。

「もう頑張らなくていい。僕に全部その理不尽をぶつけてください」

 あのナニカの薄い唇。

「大丈夫、僕は痛くありませんから」

 あのナニカの亜麻色の髪。

「辛かったでしょう。痛かったでしょう。それを思えば、僕は少しも痛くありませんから。いつでも僕を頼ってください」

 あのナニカの白い顔。

「ですから、ほら、泣かないで。

今日からあんたは、僕が守りますから」

 潰れるべきその何かに、裁かれるべきその何かに、優しく甘いそのナニカに、緩く妖艶なそのナニカに、気持ち悪いナニカに、俺は黙って拳を振り下ろした。髪を引っ張った。何度も。何度も。突き刺すように。打ち抜くように。穿つように。痛めつけるように。そのどれもがぐにゃりと歪んで「それ」にのめり込んでいく幻覚を見た。「それ」は笑っていた。

 あの人と付き合うことを決めたその日、俺は、人間である資格を失った。



 土曜の早朝、俺より先にあの人が起きていた。昨晩夜を共にしたというのに、あの人は何ら変わりない様子で規則的な食事を摂っている。

 寝ぼけ眼であの人に話しかけると、彼は、今日は仕事ですから、と答えた。いくら事務作業とはいえ、警察官に休みは無いらしい。

 俺が適当に答えると、それと、とあの人は何でも無いような顔で付け足した。

「今日は、外泊しますので」

 外泊。その言葉の意味は、あの人にとっては、俺以外の誰かと一夜を共にするということ。あの人はソレに関して依存症だから、当然のように毎夜別の人と肌を重ねる。仕事の上司に迫られたのでつい、とか、同僚の女性に迫られたのでつい、とか、何股でもかけるのだ、あの人は。

 俺はさもソレが当然のように、そうかい、とだけ答えて、布団の中に戻った。

 あの人は人間らしい体裁を整えて、事後と思えないほどに若々しく清々しい顔つきで微笑み、亜麻色の長髪をポニーテールに括った。

 その体は何年経っても洗練されているし、その顔は何年経っても非の打ち所が無いし、何年経ってもあの人は人間ではない。最後に振りかけたシトラスの制汗剤が精々あの人を人間たらしめようと努力するくらいだ。

 あの人は、人間じゃない。人間だなんて一度も思ったことが無い。きっと女神か悪魔か何かだ。そんなあの人に体を任せ、心を任せ、救いを求める俺は、人間でいる資格を失った俗物でしかない。人間らしさを削ぎ落とされた羽虫に相違無い。

 そんなあの人に救いを求めて、あの人の甘い香りに誘われて、あの人の光に誘われて、今日も羽虫が集ってくる。あの人の甘い言葉は羽虫を歓喜に打ち震えさせ羽音をブンブンと鳴らさせる。俺はその中の一匹だ。あの人の前では、誰もが俗物になる。あの人には誰も敵わない。あの人を堕としたがる人間がいるなら、それこそ堕天使か何かだ。

 あの人は、美しい。それは、人でないからこそ、美しいのだ。



 だから、俺は傲慢な彼奴を決して許さない。あの人に意地汚く擦り寄り、幸せを得ながらにして、欲望を満たすだけ満たして、あの人をこっ酷く捨てた彼奴を決して許さない。羽虫のくせに人間面して生きている彼奴を決して許さない。

 その憎悪は忘却され、今の俺はただの正義感の強い羽虫に戻った。人間性を死によって削ぎ落とされ、俺は司書になった。

 あの人を貶めた彼奴を許さないためにも、俺は司書を続けている。彼奴の存在意義を殺すために。惨めな顔で彼奴が現れたとき、笑顔でこう言ってやるのだ──お前もあの人の羽虫になる気になったんだな、と。

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