代替の愛

「アヤメ……さん、夕飯が出来たそうだよ」

「あ、えと、その、さん付けなんて、そんな……」

 アヤメはキキョウの声で本を整理する手を止める。キキョウは本棚の端から顔を出し、引き攣った笑顔でアヤメを呼んだ。アヤメはアヤメで、緑の目を逸らし、おろおろと答える。

 同じ背くらいの二人だが、その年齢差は実に二十歳を上回る。かたや四十を越えた青年、かたや齢十八の少女。されど、キキョウはそんなことも構わず、アヤメを敬称で呼ぶ。この有様が、二人のぎこちない関係性を物語っていた。

 アヤメは本を置き、キキョウの後ろを軽鴨のように付いて行った。時折ひょこっと顔を出しては、キキョウに、どうした、と硬い顔で言われ、何でもありません、と返して顔を伏せる。着物を着ているアヤメの歩幅は小さく、キキョウの歩幅は大きいもので、二人の歩くペースは一致せず、キキョウが何度も振り返って確認する羽目になっていた。

「悪い」

「そんな、謝ることなんて……」

 また沈黙。二人はただ俯いている。橋渡し役たるクロッカスの不在は、二人にとって、何か重苦しい雰囲気を背中に乗せる。

 食卓についても、先に食べ終わってしまっているシオンとカトレアや、食事そのものを必要としないツバキとクロッカス、まだ仕事をしているヒナゲシやダリアはいない。スミレかヒマワリがいれば良かったのだが、現在は不在らしい。二人は口を噤んだままご飯をよそい、同じテーブルについた。

 いただきます、の声の後、しんと静まり返ったダイニングにて、二人は鉛のような食事を行う。味こそ美味しいけれど、沈黙がその味でさえも奪っていく。

 二人揃ってご飯を食べ終え、皿を洗おうとアヤメが立ち上がると、キキョウが、いいよ、俺がやるよ、と優しく声をかける。大人らしい端正な微笑に、アヤメはこくこくと頷き、再び座り込んだ。

 皿を洗い終わるまで、アヤメは座ったままだった。キキョウは戻ってくると、何度か瞬き、驚いたようにぽかんと口を開ける。

「待ってたのか?」

「え、えぇ、はい、申し訳無くて」

「そんな……」

「そ、その、本当に、申し上げて良いか、分からないことなのですが。キキョウさんは、私のことが苦手なんですよね。何か、私にできることはありますか……?」

 玉虫色の目が、不安そうにキキョウを見上げる。彼は目が合うや否や、すっ、と横に目を逸らした。口角を上げたまま、悪いな、と困ったように返す。

「あんたは何も……何も悪くないんだよ。あんたには何もできないと思う。俺が駄目なんだ」

「そ、そそ、そんな、自分を責めないでください」

「あんたを見ると、その……い、妹を、思い出すんだ」

 キキョウは頭を掻き、気まずそうにそう答える。アヤメは手を止め、首を傾げた。

 アヤメは、キキョウの妹──もう故人だ──のことを知らない。ゆえにこそ、彼が青ざめる理由が分からないのだ。大丈夫ですよ、と反射的に返しても、彼の顔色が変わらないところで、ようやく事の重大さに気がついた。

 キキョウの手は、震えていた。

「あの、キキョウ、さん……?」

「……ぁ、あ、お兄ちゃんが悪かった、ごめん、優、ごめん……」

「き、キキョウさん、しっかりしてくださいっ!」

 アヤメはキキョウの頬を叩く。あまりにも軽快な音に、アヤメ自身も、無論叩かれたキキョウも目を丸くした。自分が何をしたか自覚するまで数秒かかったが、アヤメは顔を赤くして、すみません、と何度も繰り返して頭を下げた。

 キキョウはしばらく頬に手を当てて呆然としていたが、表情を和らげると、すまない、と優しく笑った。

「気が動転してた。悪かったな」

「い、いえ、本当にごめんなさいっ、つい……」

「つい、ってことは、あんたが生きてたときもそうだったのかもな」

「私が、生きてた頃……」

 アヤメは赤い着物の袖から、自分の白い手を見やる。彼女は確かに無意識的にこの行動をした。前世の記憶を失った彼女にとって、無意識に眠る動作こそが彼女の経験であることを示しているようでならなかった。

 キキョウは息を整えて座ると、アヤメを目の前に座らせ、大きく息を吐き、手を組んだ。

「あんたには言っておくよ。まぁ、俺はこんな話、先輩にしかしたこと無いんだけどな……俺があんたを避ける理由を」

「私のせいでは、ないのでしょうか……」

「あんたは悪くない。何から話したらいいんだろうな……そうだな、俺には妹がいた。俺の本名は、神城誠。妹の名前を、優という。丁度あんたくらいの歳だったよ」

 濡烏色の目が、光を失いながらも、穏やかな目でアヤメを見つめる。アヤメはそんなキキョウを、ただじっと見つめ返し、真摯に話を聞いていた。彼女の無言とは、決して無関心ではない。

 キキョウは遠くを見やり、アヤメの後ろに、黒髪のセーラー服を見た。

「……彼奴はさ、俺のことが大好きだった。俺の家庭が崩壊してて、親から虐待されて生きてきたんだ。特に優は……弱かったもんだから、親父が酷く粘着してな。お袋はクソみたいな尻軽女だったから、その鬱憤を晴らすためだったんだと思う。

そんなもんで、優が信頼できるのは俺だけだった。優は俺を愛していたから、俺にだけは危害が加わらないようにと、必死に俺を庇った。俺も俺で、優を深く愛していた。だから、優のために親父を殺そうとしたときもあった」

「そう、だったんですか……」

「でも、それじゃ、あまりに悠長だったんだ。俺は何度も自分を責めたさ……どうして優が奪われる前に、親を殺してなかったんだ、って。そんなこともできない臆病者だったんだ、って、俺は……」

 声が弱くなり、キキョウが俯く。アヤメは眉を下げ、そんな、と小さく呟いた。

「そんな、そんなの、キキョウさんは悪くないじゃないですか」

「……でもさ、それでも……親父とお袋が喧嘩してさ、俺が丁度遅い日だったんだ……三人が、首を吊って死んでて……無理心中だった。それから、凄い勢いでマスコミが押し寄せて、親戚に怖がられて、嗚呼、もう、最悪だった。俺の証言を聞いて、中にはこんなことを言う奴もいたんだ。

……『何で先に親を殺さなかったんだ、臆病者』って」

「おかしいです、そんなの……! 殺人なんていけないことで、」

「あぁ、分かってる。おかしいんだよ。でもさ、それでもさ、俺には、そう言う優が見えるんだ」

 アヤメが口を閉ざす。彼の死んだ目が見ているのが、自分でないことに気がついたからだ。背中を冷たい手で触られるような、妙な悪寒に、思わず腕を摩る。

 キキョウはあぶくを吐くようにぽつりぽつりと言葉を吐く。暗い水面に泡が上がっていく。キキョウが沈んでいくのを、彼の妹は見ていた。

「優は、本当に俺を愛していたんだ。嗚呼、そうさ、俺たちはあと少しで近親相姦を犯しそうだったくらいには愛し合っていたよ。だから、俺が女性と関わろうとすると、俺に泣きそうな顔で言ってくるんだよ。『おにいちゃんの、ひきょうもの』って。それを見てから、女性が怖くなった。吐き気がするんだよ。特に、あんたみたいな、黒髪の少女を見ると……優が、俺に囁きかけてくるんだよ」

「……キキョウさん……どうして、自分を責めるんですか……? 妹さんだって、あなたのことを心から愛しているんですから、きっと……あなたが生きていることを、喜んでいると思います」

「……分かんねぇ、分かんねぇよ。俺だってそう信じたいんだ。でも、どうしても信じられない。俺がそれを信じて幸せになろうとすると、ふっ、と頭が揺らいで、優が出てきて……いや、もしかすると、それは……」

 アヤメは何度も瞬く。キキョウの目が逸れたからだ。彼が自嘲するように嗤うと、泣き黒子の細い目が陰った。

「……俺自身、なのかもしれないな。あの日、三人が首を吊ってるのを見た、俺自身が……ずっとずっと、俺を恨んでいるんだと思う」

「……キキョウさん」

「悪い、そうだよな。あんたら女性に責任転嫁したらいけないんだ。優は、そんな悪い子じゃなかったと、俺は思っているから」

「私の方こそ、ごめんなさい……その、本当はアザミさんに、言われていたんです」

 キキョウがはっと顔を上げる。アヤメは慌てて手を前に出して振り、いえいえ、違うんです、とキキョウの推測を訂正する。

「アザミさんに言われたのは、その……言って良いことと、悪いことがある、ってことです。だから、言う前に一度考えてから話しなさい、と言われたんです」

「……そうか、アザミも……確か、同い年くらいだったよな」

「はい。あの人は時々私の部屋に遊びに来てくれて……って、私の話じゃないですよっ、すみません」

「いいんだ。アヤメは、大人だな」

「えっ……?」

 アヤメが玉虫色の目を丸くする。キキョウは大人らしく端正に笑い、口角を緩く上げた。

「俺みたいなおじさんの私怨で、面倒な目に遭ったのに、少しも動揺してない。あんたはやっぱり、強い娘だよ」

「そ、そうでしょうか……ただ、その……キキョウさんは間違ってない、って思います。キキョウさんだって、私が苦手だけど、ちゃんと関わろうとしてくれましたし……それに、復讐だってしなかったわけだし……」

「……はは。あの後は荒れたよ。今はこうして精神科医やってるけど、当時は酷い苛めっ子だった」

「え、えっ、キキョウさんが⁉︎」

 頬杖をつき、憂げに溜め息を吐くキキョウと、さっき開いていた手を握って膝の上に置くアヤメ。二人の会話は、ここに来るまでよりだいぶスムーズに、滑らかに進んでいた。時計の針が動くのも、二人には聞こえていない。

「そう。今でこそ先輩と付き合ってるけど、当時はとんだ暴力彼氏だったさ。でも、先輩ってああだろ? 俺が荒れてたときも、逃げないで受け止めてくれた……って惚気話がしたいんじゃなくてな、あんたにもそんな心の強さを感じるんだよ」

「強い、って言われても……私は、ただ、その……キキョウさんが悪い人じゃないって、分かっているので。その、気を使ってくれる良い大人なんだって、知っているので」

「そうかな。あんたのそういうところは、本当に良いと思う。でも、大人からのアドバイスだ」

 キキョウは結んだ髪を指に巻き付け、眉を下げて笑った。アヤメはふと、自分の胸に手を当てる。今までぼやけていたキキョウが、ピントが合ったようにはっきりと見えた気がした。キキョウもまた、薄暗い光をたたえて、黒いもやの無いその実像を、アヤメを、しっかり捉えていた。

「見た目は優しそうに見えても、中身は怖い大人はたくさんいる。俺もそうだ。いくらお嬢さんが力強いとはいえ、大人はもっと小賢しい手でお嬢さんに危害を加えるかもしれない。だから、疑うことを忘れないでくれ」

「疑う、こと……どうして、私がキキョウさんを……」

「他人を疑えないとさ、一方的に信じるばかりで、壊れてしまうんだ。俺の恋人もそうだったさ。そして、一度裏切られたら、その傷は癒えないほど深く深く刻まれる。だから、いいんだ。俺のことを避けてくれたっていい」

「そんな……私は、ただ、キキョウさんのことが知りたくて……」

「言い方が悪かったな。ただ、俺は……優に言ってあげたかったことを、言いたいだけなんだ。彼奴は、最期まであんなクソみたいな父親と母親を許していたよ。俺はそういう人間を見ると、どうしようもない怒りに襲われる」

 組んだ手が震えている。キキョウは眉を寄せ、視線を落とした。アヤメはそんなキキョウを見つめると、暫く黙った後、再び顔を上げ、はい、と明瞭に答えた。

「人を疑うのが正しいかは、分かりませんけど。私のためを思って言ってくれたんですよね、キキョウさんは」

「そうかもな。ただの老婆心だよ」

「でも、それってつまり、キキョウさんからの好意ってことですよね」

「え? あぁ、うん、そうだな」

「だったら、キキョウさんのことは疑いません。だって、本当に恐ろしい人はそんなふうに忠告してくれませんから」

「……っ、ははは! アヤメは本当に……本当に、いい奴だよ……」

 キキョウが顔に手を当て、哀しそうに笑う。アヤメは少し頬を赤くして、そうですかね、と照れた後、再び姿勢を正してキキョウのことを真っ直ぐに見据えた。

 彼もまた、視線に気がついて姿勢を正す。二人の視線の高さは然程変わらない──二人とも身長は同じくらいだからだ。疲れたような真顔のキキョウと、目をきらりと輝かせた真顔のアヤメ。二人の視線は今、ようやくぶつかり合った。

「私は、少しキキョウさんについて知れたと思います」

「……そうかい。俺のことなんか知っても、何にもならないさ。内省に付き合わせて悪かったな」

「いえ、私も勉強になりました。これからも、よろしくお願いします」

「そんな畏まらなくても……でも、まぁ、そうだな、よろしくな、アヤメ」

 はい、と返したアヤメは、緊張が解けたように微笑んだ。

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