シオンの種に水を撒く
「また断ったんだね、アジサイ」
「当たり前やんか、アザミからの指示やで? 彼奴の指示に従うのはムカつくんやけど」
人間界の旅館にて、風呂から出て来たミカン・アジサイの二人は和室の椅子に座り、互いに向き合った。旅館で出された着物を着る二人はまるで恋人のようだったが、その間の空気は冷たい。
ミカンは小さく息を吐くと、頬杖をつき、大きな窓の向こうの夜景を眺めた。六階からは遅くなっても忙しなく走る車の光が小さく見える。
「……ハルジオンを顕現させないのは、どうして?」
「何で、も何も。館長様のご命令だから」
「館長は一応アタシだし、アタシは良いと思ってる。アンタだってそれだけで断ったりしないって分かってる。なら、アンタの方に考えがあるんだべ?」
「全部お見通しやねんなァ」
「アンタはアタシの愛し子だから」
アジサイはお手上げのポーズをとって首を竦めた。その後、手を組み、少し前傾になって小さなミカンを見下ろす。口角を上げ、にこにこと笑いながら、コードスイッチングを試みた。
「アザミがあの図書館を建てた目的、知ってるか?」
「……いきなりスペイン語で話さないで、頭が追いつかない」
「確かに、人間の記録を収集することは大切だ。だが、なぜ彼処にシオン一人を残したか? なぜツバキやクロッカスを呼んだか? それこそがアネモネ図書館の存在意義だ」
「難しい言葉を使わないでもらえる? ……それで、アザミが何を考えたって言いたいわけ?」
「彼処は、いわば精神病院だ」
ミカンはしばし沈黙した後、精神病院、と日本語で繰り返した。黒い憂げな目をアジサイに向けて、怪訝そうに細める。
アジサイは夜景をコントラストとして煌めくペリドットの目を、三日月型にしてみせる。
「彼処は、シオンを含む司書の更生施設、って言った方が良いか? 彼処で人間関係を構築することで、彼らの抱える問題を解決しようとしている。そして何より、最初はシオンのために作られたリハビリテーション施設だ」
「それと、ハルジオンを顕現させないこととの関連性は?」
「お嬢さんには分からないだろうな。彼奴は確かにお前の可愛い可愛い『カリニート』かもしれない。だが、彼奴はあくまで殺人者だぜ、」
「……あの子だって、必要に迫られなければ殺人なんて──」
「自分で作った爆弾にまだしがみつくか、ノーベルさん」
ミカンはアジサイの皮肉に黙り込んだ。アジサイは悠揚に微笑み、肘掛に肘をつく。足を組み、ミカンを冷たい宝石の目で見下し、王子様のような威厳のある姿勢をとってみせる。ミカンは彼に跪く従者のように、俯いて首を垂れていた。
「アザミはその危険性を知っている。今ハルジオンを顕現させたところで、彼奴のことだ、ハルジオンを監禁して出てこなくなるかもしれないぜ? 彼処はあくまでシオンとヒナゲシを大きな柱として立ってる船なんだ」
「……分かってる、分かってるけど……キキョウが、カトレアが、ずっとシオンを心配してる。最近は起きてくる時間が少ないって。どうにかして彼を楽にしてあげたいの、アタシは……たとえ過保護だとしても──」
「あのなァ。それはシオンがどうにかしなきゃならない問題だ」
ミカンが着物を握り締め、そうね、と苦しそうに呟いた。アジサイは白い歯を輝かせ、爽やかに笑ってみせる。だが、その糸目の底は計り知れぬ──どこかに潜む狂気を、ミカンは、冬の寒さのような、突き刺すような痛みとして感じていた。
一方で、アジサイは思い詰めてしまったミカンを冷ややかにせせら笑っていたが、黙り込んでしまい、沈黙が生まれると、んー、と繋ぎ言葉を言ってから、再びコードスイッチングを試みる。
「まぁ、そんな思い詰めることあらへんよォ。要は今までどおり、彼奴らに全部お任せ、どう生きるかは己で見つけてもらった方がえぇやんか? って話やねんなァ」
「……反論のしようも無い。アタシは過保護だった。どうにかして、早く停滞から抜け出させてあげようと──」
「何で人間はそんなに生き急ぎはるん? あんたらが賢いから?
俺たちはあんたら人間様にそんなに期待してへんよ。一朝一夕で人間が変わるなんて信じてへんわ。ってか、人間は死ぬまで変われへんやん。そんなふうに変われるあんたらの方がおかしいねんで?」
「……アタシたちの方が、か……」
ミカンは顔を起こすと、神妙な顔をして机を見た後、クス、と吹き出し、着物の袖で口元を隠した。アジサイはきょとんとしてそんなミカンを見下ろす。
「あはは……本当、あの子たち、良い子だから……きっと、きっと退路を見つけ出す。彼らの手で。あの図書館で、あの子たちは少しずつ前に進んでいく、そう信じてる」
「何や知らんけど、自分なりに納得いったって感じやねんな」
「そうね、納得した。待てばいいだけのこと……それが、アタシたちの役目なんだね」
「アタシ『たち』って、何勝手に俺まで混ぜとんねん。俺はそんなに期待してへんで」
「そう、そうね。アンタもまた、きっと成長してくれる」
「何やねん、母親面しよってからに、阿呆らし……」
吐き捨てるように言ったアジサイは、頭を掻いて不快さを前面に押し出す。ミカンは少しだけ血の気の戻った顔で、アジサイを見上げた。黒真珠の二つの目が、穏やかに丸く笑む。
「アンタらが自分で幸を見つけなきゃならないんだね……アタシは待てるよ、たぶん。だって、アンタらはこうしているうちにも、少しずつ変わっていって……アタシに面白いものを見せてくれるから」
「俺はコンテンツちゃうねんけどォ?」
アジサイの嫌悪感剥き出しの一言にも、ミカンはただ、そうね、といつものように返し、再び頬杖をついて夜景を見下ろした。
車が忙しなく動いて、無数の流れ星のように見えた。
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