両辺を未知数で割る
「姉さん、何見てるの」
「あら、スミレでしたか。少々フローチャートを」
「フローチャート、って……うわ、何これ」
スミレは赤い目を見開き、頬を掻く。無造作に置かれたホワイトボードには、黒の水性ペンで書いたとは思えない凄まじい書き込みが成されていた。プログラミングでも見た気になって、彼は目眩を覚える。
その整った複雑な字面を眺め、ヒマワリは顎に手を添える。黒縁眼鏡の奥の目は、ホワイトボード全体に向けられていた。
「これは、人間の行動パターンの一つですわ」
「行動パターンの一つって……」
「全てイエスノークエスチョンで図式化できないかと。スミレ、貴方はAIだと伺っていますが、貴方の頭にもこんな図式が入っていらっしゃるのですか?」
「たぶん、そうだったんだと思う。俺という人格をプログラミングしたプログラマーは本当に凄いな……でも、俺はこんなに複雑な行動原理で動いてたわけじゃないぞ。あくまでプログラムされたことしか言わなかったからな」
スミレも首に手を当て、その複雑すぎるフローチャートに、伊達眼鏡越しの赤い目を細める。
二人は人間だった頃の記憶を綺麗さっぱり忘却してしまっている。一時期は神が作り上げたこのプログラミングを所有していたのだが、二人はまたこれを分析する側に回ってしまったのだ。
「今の俺の脳がどうなってるか……それは分からないよ。この動きですらも、人間の形に落とし込まれるときに、人間的にプログラミングされただけかもしれないし……」
「ですが、ある程度は図式化が叶いましたわ。人間には一定の行動パターンがあると言って過言にはならないのでしょう。心理学的、脳科学的に、社会科学的に、今の人間が解き明かした知識を限界として、人間の行動パターンの全てを書き起こすことが叶えば、私たちはより良い司書になれると思いますの」
そう言うと、混み入って見えなくなった文字だらけなホワイトボードを、手持ちの端末で写真として保存する。そして、クリーナーで尽くそれを消し、再びそこに何かを書き出そうとした。
スミレはそれを止める。振り返ったヒマワリは首を傾げ、ぽかんと口を開けていた。
「姉さん、そろそろ休憩にしないか?」
「私はまだ疲れておりませんが……」
「そうじゃなくて……なんていうか、そういうの、不可能だと思う」
「と、言いますと?」
ヒマワリは黒いペンを置き、ソファに足を揃えて座った。スミレはその向かいに座ると、小さく息を吐き、じっとヒマワリの目の間を見つめる。
「姉さん。たぶん、人間はそんな簡単に解き明かせないと、俺は思う」
「それは、どうして?」
「たった一つの計算式では導き出せない。そのときの身体的コンディションも、精神的コンディションも関わってくる。そのときの天候も、気温も、周囲の環境でさえも関わってくるから、」
「でしたら、それも計算式で算出すれば良いのです、スミレ。それは、貴方が一番存じ上げていることだと私は思いますわ」
ヒマワリは端正な顔を少しも崩さず、真摯な顔つきでそう言った。スミレも口を閉ざす。
劣化版とはいえ、スミレはプログラミングされたAIだった。人間を模していて、相手の表情や身体状態、選択肢の結果から、感情をスコア算出し、それに応じた返答をしていた。確かに、彼は人間を人間以上に理解していたと思う。
彼女は人間であった頃の記憶が無いから、人間との相互の接触が無い。ただ立って同じ体勢でいて、向こうが話してくる内容から、一方的にデータを算出していただけだ──それが、人形というものだ。そのデータが正しいかどうか、仮説検証を行う機会も無い。
ゆえにこそ、二人の価値観が対立するのは当然のことだった。かたや、プログラミングされた言葉とはいえ、相手との相互交渉を行っていたAI。かたや、持ち主から片時も離れず見つめ続け、研究していた人形。「人間」というものへの評価が違うのは、当然のことだった。
食事の必要も無いと分かっていながら、スミレは近くに置いてあったクッキー缶を開ける。香ってきたバターの香りを、「美味しそう」と感じるのは、彼らが人間になってからだ。それを実際に食べて、「美味しかった」と感じたからこそ、この化学反応で発生した香りが「美味しそう」と分かるのだ。
スミレはそんなバタークッキーを口に入れる。味覚が喜んでいる、と感じる。その感覚が「人間」らしいとさえ思えた。ヒマワリはスミレを、ただ笑顔で眺めている。
「姉さんは食べないのか?」
「空腹を感じたら食べますわ」
「……姉さんは、好きな食べ物とか無いの?」
「いえ? 特にありませんわ。私たちは生存に必要な栄養を摂るために空腹を感じるのでしょう? そして、その必要な栄養素が摂れたとき、人間は満足感を覚えます。でしたら、必要な栄養であれば、それがどうであれど良いと思いませんか?」
「逆に、嫌いな食べ物とかは?」
「嫌いな食べ物というのはおそらく、脳が『それは食べてはいけない』と反応するがゆえのものなのだと思いますわ。ゆえにこそ摂食障害というものが存在するのだと思いますわ」
こうして二人が話すのは珍しいことではなかった。
人間であった頃から、住んでいる場所は違えど、二人は電話などで連絡を取り合っていた。二人は人間として生まれて、別の家に引き取られたのだが、しばらくして同じ親から生まれた子だと知らされた。
顔を合わせたその瞬間に、二人はふと、不思議な感覚を覚えたのだ──この人が、自分と運命を共にするのだ、と。
二人は忘却された時間の中で、別の時間を過ごしていた。その記憶を消したとしても、二人の不思議な繋がりは消えなかった。ゆえにこそ、スミレはヒマワリのことを「姉さん」と呼んでいるし、ヒマワリはスミレのことを弟のように扱っている。
この姉弟の会話はしばしば、「人間」がテーマとなっていた。無論、たった今もそうである。
「そんなに人間はマシンのようには出来てないと俺は思うよ」
「なぜでしょう? ロボトミー実験などで、どこに刺激を与えればどんな感情を示すかは明かされ始めています。電気信号で動くのは私たちも人間たちも同じではなくって?」
「……姉さん! 俺たちは人間なんだよ。俺たちはようやく人間になったんだ!」
「いえ、スミレ。私たちは人間のアドバイザーですわ」
ヒマワリはそう言って模範的な微笑をたたえる。スミレは頭を掻くと、大きく息を吐いた。
「……姉さんと俺じゃ、人間への興味が違うんだな。どっちかっていうと、俺はクロッカスみたいで、姉さんはツバキみたいだ」
「クロッカス様もツバキ様も人外ではありませんか。そこに何の差異が御座いますの?」
「クロッカスは、なんていうか……人間になりたいからさ、凄く人間なんだ。複雑だし、もしかしたらヒナゲシとかダリアよりも人間してるかもしれない。でも、あの、アジサイ? とか、ツバキとか……人間を見守ってるだけで、自分は人間じゃない、って感じがするんだ」
スミレは赤い目を曇らせる。ヒマワリは紅茶を淹れると、それを口に運び、甘いですわね、と呟く。眉を上げ、少し驚いたような顔をしてみせる。
そんなヒマワリに、スミレは俯き、手を組んだまま、姉さんは、と話しかけた。
「姉さんは、変わってしまったんだな」
「私が? 貴方は、私との記憶が無かったのではなかったのですか?」
「そうだよ、記憶は無いんだ。でも、姉さんは昔の方が人間らしかったのかなって」
「いえ、あんな生、生きながらにして死んでいるようなものでしたから。貴方もそうでしょう?」
「……姉さん」
スミレは眉を下げる。ヒマワリの表情はつんとすました笑顔のまま変わらない。
二人の過去は焼き払われた。二人の過去は全て「無かったこと」になった。今の二人はその断片を知るのみだ。望んで手に入れた人間としての生を、自ら捨てるほどの苦痛があったこと──その存在さえも忘れてしまったとき、初めて完全な忘却だと、二人は言えるのだ。
ヒマワリは、スミレ、と優しい声をかけた。彼女は端正に微笑む。
「人間でも、人間でなくても良いのです、私たちは。そもそも、もう人間でないのですから。どうあるべきなど、存在しないのです」
「姉さんは、ね。俺は、人間になりたい。こんな簡単にフローチャートや方程式で導けないような、複雑すぎる神様からのパズルに、もう少し近づいてみたい」
「スミレ。統計学的に言えば、人間になりたいというその願いそのものが、人間らしさを語っていると、私は思いますわ」
「……姉さん」
「私は、人間になりたいとは思っておりません。ですが、聖夜、貴方が人間になりたいと願うならば、全力でバックアップ致しますわ。私の集めたデータを全て差し上げます」
「でも、姉さんは、」
「私は、これが良いのです」
ティーカップを置き、膝の上に手を乗せると、ふふふ、と言ってヒマワリは微笑んだ。微かにシンメトリー性が崩れていた。
「私は、人間をそばで見ている、人でなしでいたいのです。人間でなくたって、自分の意思で生きていくことはできますわ」
スミレは顔を上げると、ヒマワリの微笑んだ紫の目を見つめたあと、つられて笑い出した。額に手を当て、そうだよな、と独言を言う。
「そうだよな、人間じゃなくたって……」
「えぇ。何か貴方の力になれましたでしょうか?」
「俺も、姉さんを支えたいな。姉さんの望みがあるなら、俺も頑張るから」
「でしたら……これからも、私の研究の標本になってくだされば」
「あはは、何それ、姉さんいつからメイド辞めたんだよ」
二人の声が揃って、高い高い天井へと消えていく。二人は顔を上げ、そっくりな顔で笑っていた。
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