マリア像を叩き壊すように

 シオンは煙草に指を沿わせると、隣で座ってぼんやりと花園を眺めるダリアに目をやった。

 ヒナゲシやキキョウ、ヒマワリによって、アネモネ図書館の屋外は美しい花々で飾られるようになった。

 その一角に、ガーデニングテーブルが置いてあり、そこは喫煙者用のスペースとなっている。司書の中にはシオン・ヒナゲシ・キキョウ・ダリアと喫煙者が多くいるからだ。もしも屋内で吸えばツバキの怒りを買うことになる。

 ダリアは色彩豊かな花々を、虚ろな目で眺めていた。彼の目はいつも虚ろに黒かった。色彩を飲み込み喰らう漆黒。光をも受けぬ黒。そんな彼の目には、花々は映っていなかった。

 シオンとダリアは特筆するほど仲が良いというわけではなかったが、特筆するほど仲が悪いというわけではない、と二人は考えている。そこに会話が生まれないことを除けば、二人は良い仲だ。

「シオンさんってさァ、どうして僕のことをそんなに好むんです?」

 そんな関係に一石を投じるようなダリアの言葉に、シオンの目が緩く光る。ブラッディレッドの瞳に光が灯り、口角が上がった。

 ダリアはシオンの方を見ていない──変わらず花園を眺めているだけである。一つ、大きく咲くダリアを眺め、無表情で空っぽな顔をしていた。

「どうして、か。人を好くのに理由は無い、違うか?」

「まぁね、顔が良いから、とか、なんか雰囲気が良いから、とかで他人を好くのが人間ですし」

「事実、僕は顔が良い男性が好きでね。道理でアリスには君も含めて端正な顔つきが多いわけさ」

「でも、僕のことが好きなのは顔のせいじゃないんでしょう?」

 まぁ、ね、と答えると、シオンは煙草を灰皿に押し付ける。ライターを胸ポケットにしまうと、スカーフに手を当てて、横に目を逸らした。

「強いて言えば……君が、僕の兄によく似ていたから、だろうか」

「キョーミ無いですねー、まぁ、他人に良く見られてるなら良かったなって思います。僕も良い人だと思ってるので」

「君のそういうところが、僕にとっては不思議で興味深いんだ。なぜ君はそうも他人に無関心になれる?」

 手を組み、シオンは三白眼でダリアを見上げる。ダリアは視線を花園から机に置いたティーカップに向け、うーん、と唸りながら、何も入っていない紅茶をティースプーンで混ぜた。

 彼は頑なにシオンと目を合わせようとしなかった。シオンもそれを知っている──彼は他人と目を合わせて話すときは、スイッチが入っているときだけだ。

「他人は変えられませんし。他人の考えてることも分からないし。理解するのは止めようと」

「しかし、君は随分と観察眼に長けているではないか。よく分かっていると思うが?」

「統計データから分析してるんです。こう振る舞うと相手がこう反応する、ってのを蓄積して、そこからデータを引っ張り出す。ですから、分かったような気になってるだけなんですよ。人間って生得的にパターン認識能力と限定された処理能力を持ったプロセッサーでしょう?」

 ダリアはそう饒舌に述べる。心底愉快そうに、心底満足そうに。シオンはそんなダリアを、まるで恋人でも眺めるような恍惚とした目で眺めている。

 ふと、ダリアが話すのを止め、シオンを見た。シオンはにこりと微笑む。ダリアは目を逸らす。

「……なんか、じろじろ見られると気持ち悪いですね」

「嗚呼、いいねェ、唆る本音だ」

「あの、本当に気持ち悪い」

「悪いね。僕は君みたいな人間が好きだよ」

「それは良かった。でも僕はアンタのことどうでもいいですよ」

「そういうところがな」

「これ無限ループですよね? やめましょう、僕を褒めるのは」

 ダリアは眉を寄せ、不快さを前面に押し出した。シオンはより一層愉しそうに笑う。ダリアは口元に煙草を寄せ、大きく息を吸い込むと、黒い黒い煙を吐き出した。シオンの顔に、その煙が微かにかかる。

「見下されてる気分になって心底不快なんですよね。センパイもそうだ。何で何奴も此奴も僕を小動物のように可愛がるわけ? 挙げ句の果てに、キャンキャン吠える子犬呼ばわり。自分よりか弱い人間がいるから可愛いんでしょう、比較の人類悪は嫌いです」

「いや? 僕はむしろ、君を心から尊敬しているよ。君は他者と自分を比較しない。人間は他者と自分を比較し、様々な負の感情に呑まれるからな。君のようにそういうものと無関係な人間は好きさ」

「……僕を考え無しな人間とでも思ってるなら、僕は怒りますよ」

 ダリアは頬杖をつき、黒い瞳孔を下に落とす。濁った紅茶に彼の顔は映らないし、彼の目に紅茶が映ることも無い。

 シオンは鋭利に光らせていた目を緩め、申し訳ない、と静かに謝罪した。

「……僕だってこうやって無条件に崇拝されたり、軽蔑されたり……意味分からないんですよ。どうしてそんなに他人に興味を持つわけ? いや、頭では分かってます。ちょっと狂ってるくらいが可愛いんでしょう。僕は見世物ってことですよ」

「僕の兄もそう言っていたよ──人間のことは全く分からない」

「悪役を傍観する大悪人共に揶揄われてる気分なんですよ。僕はこんなにも正直に真面目に生きてるのに、周りは能書きを垂れる、捻くれてクソばっかり。人間を小動物としてしか扱えないクズばっかり……まぁ、つっても、僕もそういう馬鹿を駒として使ってるからWIN-WINの関係ですかね?」

 肩を竦め、ダリアが戯けてみせた。口角を上げ、女狐のように微笑む。泣き黒子のある左目を細め、歪に笑う。シオンは目を伏せると、至極黄昏たように、そうだね、と返した。

「正直者は馬鹿を見ます。こんなに正直なのに。正直に生きろって言うから正直にしたら、『もっと口を慎め』って言われるんですよ。はぁ? って感じじゃないですか? かと思ったら、『そうやって正直にものを言う人大好き!』なんて言われるんです」

「あぁ、まったく、人間とは矛盾しているなァ」

「だから人間なんて信用できないんです。自分に都合の良いときしか持ち上げない。自分がいざ正直にものを言われて傷ついたとき、信者はアンチになります。自分の期待にそぐわなくなったとき、僕は最早その人のカリスマでも何でもなくなる。僕は正直で変わらないのに」

 舌鼓を打ち、ダリアは眉を寄せた。横髪を弄り、足を組む。重たいニコチンの香りがシオンの頬を撫でた。

 ダリアがこのような顔をするのは珍しい、というのはシオンの見解だ。ダリアはいつも不敵な笑みを携え、にこにこと微笑んだまま、スミレやヒマワリなど知り合い程度の人間には美辞麗句を並べ、キキョウやヒナゲシなど友人と呼べる人間には正直に言葉をぶつける。気持ち悪いですね、と言うときですら、彼は笑っている。

 シオンはそんなダリアに、自分の兄──榊原瑠衣を当てはめる。彼はヒナゲシによく似ていた。いつでも微笑んでいる、美しいカリスマ。嘘塗れで、虚栄心の塊。そうすることでしか、他人から愛されなかった。

「っていうか、何で僕が他人を非難するときだけ怒られるんですかね? 理不尽じゃありません? 普段から人々は僕に『こうあってほしい』って期待を押し付けてるのに。僕がそうすることは許されないんですかね? 他人を傷つけない物語なんて存在しないんですよ」

「無礼を承知で申し上げるなら、そうして開き直ることは思考停止だと僕は考える。それでもなお、他人を傷つけない方法を探るのを推奨する、が──そんなのは理想論だ。君の気持ちは痛いほど分かる」

「理想、ねぇ。どうしてそうも金型に押し付けて僕らをお坊さんか何かにしたがるんです? 僕はセンパイみたいなクソ善人でも何でもないですよ……あ、いや、僕って結構良い人だな。それは認めますけど」

「押し付けたくはないんだ、そこは誤解しないでほしい。僕はアリスの形を無理に変えたいわけでも、変わらないでいてほしいわけでもない。アリスが変わっていく様を眺めていたいだけなんだ」

 へぇ、と呟くダリアの声は、ブラックコーヒーのように苦く低い。シオンの返答に一切の興味を示さない。ダリアの中でシオンの序列は高くも低くもない──否、ヒナゲシを除く全ては同じラインなのだ。

 ただ独り、ヒナゲシだけが、ダリアの心に住み着いた怪物として佇む。笑顔を称えて──

 ダリアが額に手を当てた。あぁ、と唸るように吐き捨てる。

「くだらない、くだらない、くだらない……」

「君のしていることはそんなにくだらない、かい? 君の考えはちっとも無価値なんかじゃない」

「違う、違う、こうして考えること自体がくっだらない。どうでもいい。誰かに指示されることが面倒臭い。『君の思うとおりにしろ』とか言うんでしょう。くだらない、くだらない」

「──君は少しも間違えてないよ、ダリア。君は何も間違えていない。正直に生きてきて、今も変わろうとし続けている。くだらなくもない。君が悩み続けるのには、君が成長し続けるのには価値があるんだ」

 シオンの言葉に、ダリアが顔を上げる。ようやくダリアの黒い瞳がシオンの姿を映した。嘆くように、悲しむように、憎むように、目を細めた。

 ダリアが望むように、シオンは決して彼を哀れまないよう、笑みを殺した。酷く端正で、息を呑むほど美しい顔だった。

「君は、幼くも愚かしくもない。対等だ。尊敬はするが、僕は君の信者になったつもりは無い。君に対して反対意見を言う。そして、君を愛している」

「……イライラする。センパイみたいなこと言わないでくれます?」

「ふふ……君にとって、ヒナゲシはそれ程までに大切なのだな」

「大切、というか、無いとつまらないんですよ」

 シオンから目を逸らし、ダリアは口を尖らせた。苦い顔をしたまま、飲み終えたティーカップを退ける。金属音がすれば、鬱陶しそうに眉を潜める。

「あの人は……彼奴だけは、僕の心の中で、僕を対等に見て……馬鹿にしない。だから嫌いじゃないけど、心底ムカつく。アンタまでそういう存在になりたいわけ?」

「そうだな。僕は君と対等になりたい」

「僕を絶対に馬鹿にしないって約束するなら、他の人よりは尊重? してやるよ」

 ダリアが人差し指でシオンを示す。シオンの口角が緩み、柔らかく微笑んだ。一方のダリアは、張り詰めた無表情をしている。鋭い目が、獣のようにぎらついている。肉食動物の牙の如く、刺激的に、攻撃的に。それでも、シオンは笑っている。喰われる寸前で、笑顔で手を差し伸べている。

 しかし、ダリアの目つきが変わった。シオンは決して喰われることを喜んでいるのではない。シオンはダリアのことを、肉食動物とすら見做していない──人間だ。人間だと見做しているのだ。

「君は人々に揶揄されるような、尊敬されるような化け物じゃない。君は僕の大切なアリス、友人だ。一人の人間だ。違うか?」

「違わないけどさァ……上から目線で嫌だ」

「君だって同じように上から目線になってくれて構わない。それが対等だということだ」

「あは、意味分かんない。難しいこと言って煙に巻くのやめたら?」

「あはは、そういう感じで良いんだよ。気を使わないでくれ」

「気ィ使うのは僕の商売なので、仕方ないでしょう。ま、少なくとも無理に『普通』なこととか『異常』なこと言わなくて良いってことでしょう」

 普通でいるのも、異常でいるのも、どちらも疲れるものだ。異常でいれば崇拝され恨まれ、普通でいれば崇拝と憎悪を向けられないよう怯える日々を暮らさねばならぬ。善であるというのも、悪であるというのも、どちらかに一貫し、その責任を取り続けねばならない。

 それを、ダリアとシオンは理解したつもりでいた──あくまで、つもりなのだが。

 ダリアはライターをしまうと、気の抜けた笑顔でけろっとして笑い飛ばした。シオンもその顔を見て、頬杖をついて優しく微笑を返した。

「……ま、僕は極フツーの善人ですからァ?」

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