四文字の啼泣
そこは一面のネモフィラ畑だった。きっとヒナゲシが整備してくれたのだろう、ありがたいことだ。
花畑の中心には、白いティーテーブルが置いてある。イングリッシュガーデンだ。アネモネ図書館は、外でお茶が楽しめるようになっている。こちらは、カトレアが用意してくれたものだ。
テーブルに着き、一人、コーヒーを飲んでいる人影が見える。赤茶の髪に、鼻の高い横顔。黒いスーツで、足を組んで、悠揚とティーカップに接吻する人。
僕は取り憑かれたように、半ば狂乱して走った。自分の意思ではとてもではないが止められそうになかった。走っているのだって、自らの意思なのだから。足が動かないのは、しばらく動いていないからか。
ふらつきながら、躓きながら走ってくる僕に気が付いたのか、座っていた紳士はこちらに振り返る。ブラッディレッドの両眼、細くきりっとした眉。彼は実に現実味を帯びた声で、僕の名前を呼ぶのだった。
「拓馬」
「る、い、瑠衣、瑠衣、どうして君が、瑠衣──」
「転ぶぜ? そう焦んなよ」
辿り着いたところで、瑠衣を抱きしめた。瑠衣、瑠衣、僕の愛しい瑠衣。僕の愛おしい兄。その温もりは本物で、彼から微かに香るコーヒーの香りも本物で、僕は堪らなくなって強く抱きしめる。
愛してる。愛してる。ずっと会いたかった。そんな言葉は口にする前に涙に変わっていく。瑠衣は黙って僕の頭を撫でて、よしよし、と、子供をあやすように言うのだった。その節のある手が愛おしくて、もう、食べてしまいたいほどに彼は甘ったるくて。
「そんなに抱きしめなくたって、どこにも行かないさ」
「瑠衣……瑠衣、愛してるよ、瑠衣」
「はいはい、ありがとう。俺も愛してるぜ、ダーリン?」
嗚咽が止められなくて、彼の胸の中で泣き続ける。どれくらい泣いただろう、自分の中の水分が無くなってしまったと感じてから、ようやく顔を上げた。
あーあ、コーヒーが冷めちまった、と彼は口を尖らせる。ミルクと砂糖をたくさん入れた、もはやコーヒーと呼べない液体を片手に、座れよ、と言った。
大人しく向かい合って座る。彼はティーカップの中身を飲み干してしまうと、ハンカチで口元を拭いてから、改めて足を組んでこちらを見つめた。
「どうだ、最近は?」
「……君がいなくて、寂しい」
「そんなことは無いさ。俺はいつだってお前のそばにいたはずだぜ?」
「違う……僕は、君を……」
「なに、死んだくらいで引き剥がされる仲じゃないだろ、俺たちは? そこに命の有無なんて関係無い、違うか?」
「……違う」
違う。自分の手が酷く震えていて、止められない。
そう、僕はこの右手で、彼を殺した。殺したくて殺したわけじゃない。ただ、彼を殺さねばならない展開に陥ったのだ。
「許して、許してくれ、瑠衣、君はだって、もう君じゃなかったから、君を助けようと、」
「そうだな。謎の集団に洗脳され、意味の分からないナニカを崇める様は、お前にとっても辛いものだったと思う。だが、体は失ったが、存在は残ってるじゃないか。今、目の前にさ」
瑠衣はそう言って、自分を指差す。もう泣き疲れたと思ったのに、僕はまた声を上げて泣き出してしまった。子供のように、赤子のように。
体を殺したのは、僕だ。彼から体を奪ったのは僕なのだ。彼が存在しないのは、僕のせい。
別に殺したくて殺したわけじゃない。ただ、彼が何かを崇めるために、何かの存在を称えるために存在していたのが耐えられなかったのだ。
僕はそんな彼を見ていられなくて、殺した。助けてあげるには、それしか無かった。僕にとって神だった彼が、誰かが拵えた可愛い可愛い別の神様を阿呆らしく崇めているのが絶対に許せなかった。
ねぇ。だから、瑠衣。僕を許して。お願い、ずっと僕のそばにいて。戻ってきて。甘える僕を許して。そのためなら、永遠に眠り続けたって構わないから。
「馬鹿だなァ。お前は今、夢の世界に永遠にいてでも、俺と一緒にいたい、とか考えてるんだろう?」
「どうして……」
「分からないわけが無いだろう? 俺の愛しい愛しい番犬なんだから。お前が考えることなんて、手に取るように分かる。
だが。俺は、やめろ、と言うよ、ダーリン。お前には大切にすべきものがある。お前はここにいてはいけない」
「やだ、嫌だ、瑠衣、僕は──」
「お前はちゃんと現実を生きなければならない」
瑠衣が僕の肩を掴む。体が離れる。ぎゅっと心臓が締め付けられるように痛くなって、怖くなって、息ができなくなった。
嫌だ。嫌だ。瑠衣、行かないで。そばにいて。
僕は、僕は生きたくなんかない。
「拓馬……?」
「……は、はぁ、はぁ、僕は、っ、生きたくなんか、生きたくなんかない、瑠衣、僕を殺してくれ、ねぇ、瑠衣ッ!」
「拓馬、落ち着けって、」
「嫌だ! 嫌、僕はもう、生きたくない……ッ!」
頭を抱えて座り込む。脳の中がぐちゃぐちゃになって、一面黒。耳を塞ぐ。生きたくない。生きたくない。瑠衣のいない世界なんて嫌だ。瑠衣のいない世界なんて、彼のいない世界なんて──
怖い。苦しい。憎い。嫌い。悲しい。辛い。醜い。痛い。眠い。怠い。寂しい。暗い。寒い。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。楽になりたい。
殺してほしい。何も要らないから、もう、楽にしてほしい。
「……拓馬……なぁ、頼むよ……」
瑠衣が頭を撫でてくれる。嬉しい。幸せ。温かい。優しい。美しい。僕は、僕はずっと、ここにいたい。ここなら誰も、誰も僕を責めないから。誰を恨む必要も無く、誰を憎む必要も無く、もう一人じゃない。ここは、優しい。
ネモフィラが青薔薇へと咲き変わっていく。神からの祝福の色。美しい。赤い瞳の瑠衣が、よりいっそう目立って見える。彼は、本当に美しい。
ゆっくりと視界が黒くなっていく。嫌だ、行かないで、瑠衣、殺して、僕を殺して──
君が殺してくれないなら、僕は、生きるのを止めるから、ね。
◆
「おはよう、ハルジオン君」
目を覚ませば、いつものようにカトレアが食事を用意してくれている。ネクタイをしっかりと締めてから、彼女に挨拶をして、食事を取る。
美味しい、と聞いてくるカトレアに、俺は笑顔で返す。確かに美味しい。俺の妻が作ってくれた料理も美味しいのだが、カトレアの作る料理はどちらかというと、所謂「おふくろの味」に似ている。
「いつも悪いな」
「いいんだよ、ハルジオン君だって、私の大切な人なんだから」
カトレアはそう言って桃色の目を細める。
顔には出さないが、きっとシオンのことを心配しているだろう。カトレアはいつもそうで、なんとか無理をして大丈夫なフリをしてくれるだけだ。
黒い髪をサイドポニーにして、カトレアはラフな服にエプロンを着る。職場の作業着らしい。相変わらずよく似合っている。
「カトレアさんは、どうして皆のために仕事を?」
「どうして、って……だって、アネモネ図書館の司書たちは、ハルジオン君とシオン君の家族みたいな者でしょ? 勿論、私一人じゃ支えきれないけど、ハルジオン君もいるから大丈夫!」
「そっか。俺も頑張って働くよ」
「もー、無理しないでね? ハルジオン君だって体は弱いんだからー」
「そうだな、本物みたいにはいかないか」
あはは、と二人で談笑する。されど、俺たちは恋人でも何でもない。カトレアが愛しているのはただ一人、シオンだけだ。
こんな日々が、もう何週間も続いている。シオンが生きるのを止めたその日から、ほとんどの時間は俺が表に出るようになった。時折シオンに声をかけるのだが、彼は一向に起きる気配が無い。
カトレアにそのことを伝えたときは、酷く泣いていた。そこで怒っても良かったはずだ──拓馬君が私を捨てた、と。それでも彼女が恨まないのは、拓馬を失った悲しみを知っているからだ。
「……カトレアさんには本当に……うちの弟が迷惑をかけているな」
「ううん、いいの。私もね、拓馬君を失ったとき、何ヶ月も立ち直れなくって……だから、シオン君にはきっと、時間が必要なんだと思うんだ。私、待ってるから」
手を後ろに隠して、にこりと笑う。白いシャツに映える、赤紫色の笑顔。俺はその姿を見る度に、怖くなる。
健気で、純粋で、ゆえに重たく縛りつくような愛情を感じるからだ。
きっと彼女は、シオンのためなら文字どおり何だってするのだろう。惜しげもなく愛を振り撒き、愛を理由に何事をも正当化できる人間だ、彼女は。
ご飯を食べ終え、流しの方に食器を持っていく。やっとくよ、と言うカトレアさんは他所に、自分で洗い物を始めた。
水の音を聞きながら、回想する。なら、いっそ俺を殺して貰えば──そう考えたこともあった。しかし、俺を殺すことはすなわちシオンを殺すことになるから、そうもいかない。
カトレアもシオンも、中途半端に俺の存在を受け入れているから、俺という人格を殺そうという気にはならないのだ。
昼ごはんになるサンドウィッチを作っていると、ハルジオン君、とまた明るい声で下から話しかけられた。
「何かな」
「シオン君、何か言ってる?」
包丁を持つ手が止まる。にこやかに覗き込んでくる圧が苦しい。何も言ってないな、とだけ返して、また食パンを切っていく。
嗚呼、愛しのカトレア。その愛と期待の重さで、俺は潰れてしまいそうだ。いっそ、シオンと心中してしまおうか。
カトレアを見送って、そこで笑顔を失う。笑い方が分からなくなる。鏡を見やれば、目の下にくっきりと隈が刻まれていて、眠たそうな顔が映っている。
拓馬、悪いけれど、俺の方こそ死にたいよ。お前の場所を奪って生きるのは、あまりにも息苦しい。
いつになったら目覚めるのだろうか、俺たちの眠り姫は。
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