愛なんて、大嫌いだ

 ぐい、とアヤメの顔が近くなる。足袋を履いた彼女の背は、ハイヒールを履いたヒナゲシの背を遥かに上回る。詰め寄られたヒナゲシは、思わず本を抱えたまま後ずさった。

 しかしながら、アヤメは特に敵対的な意志を示さない。じーっとヒナゲシを見て、あの、と小さな声で話し始める。


「ヒナゲシさんって、男性ですよね?」

「え……まぁ、はい、そうですけど……」

「ず、ずっと気になってたんですけど。ヒナゲシさんって、ご結婚なさってるんですか?」


 そう言って頬を掻き、アヤメは斜め下を向く。消え入りそうな声でぼそぼそと尋ねられ、ヒナゲシは思わず、その少女じみた仕草に笑い出してしまった。


「ふふふ、結婚してますよ」

「そ、その、私たちって人間じゃないんですよね。ってことは、結婚してる人も人間じゃないんですか?」

「えぇ、そうなりますね。僕の恋人は、キキョウなので」

「桔梗? ……えっ、キキョウさん⁉︎」


 アヤメが目を丸くする。斜め上に向けて、あぁっ、と声を上げて手槌を打った。彼女はふと、キキョウも同じ銀色の指輪をしていたのを思い出したのだ。

 その驚きっぷりに、ますますヒナゲシは愉快そうに笑う。椅子に座り、本を置くと、頬杖をついてアヤメを見上げた。


「彼は僕の幼馴染でね。生前から恋人だったんです。そして、これを機に婚約しましょう、ということで、この図書館公認でキキョウは伴侶となりました」

「は、はわわ……本当なんですか? そ、そっか、だからキキョウさんはヒナゲシさんに優しいんですね……?」

「面白いことを。キキョウは誰にでも優しいんですよ」


 アヤメはきょとんとすると、意外です、と口にした。

 まだアネモネ図書館にやってきて日は短いが、キキョウやヒナゲシが司書として働くところはちゃんと目にしている──いわば、研修期間だ。キキョウが自殺志願者に優しく接しているのを何度も見ているはずだ。

 ヒナゲシは笑って肩を揺らす。アヤメは目を逸らし、その、と繋ぎ言葉を口にした。


「ヒナゲシさん、恋とか嫌いそうだと思って……」


 アヤメの言葉に、ヒナゲシの片眉が上がる。へぇ、と口から漏れた言葉は憂鬱のグレー。アヤメはヒナゲシの向かいに座ると、斜め下を向いたまま続ける。


「無礼を承知で申し上げますと……いろんな司書さんを見てきましたけど……やっぱり、司書長なだけあって、ヒナゲシさんが一番人間に厳しいと思います。人間っていろんな理由で自殺しますけど、結構失恋の自殺って多いんですよね。そういうとき、いつもヒナゲシさんは当たりが強いように思えます」

「正直で宜しい。そうかもしれませんね」


 玉虫色の目が純粋に輝く。濁った蜂蜜色の目は、それを避けるようにして床に向けられた。藍色の溜息、灰色の微笑。


「恋だ愛だなんて言って、自ら居場所を失う人間が馬鹿馬鹿しくって仕方無いんです。どうして死んだんですか、って聞いて、言い訳のように恋愛沙汰を口にする人間を見ると、可哀想で可哀想で仕方無くて」

「ヒナゲシさんは、愛が嫌いなのですか?」

「嫌いではありません、おそらく。ただ、好きでもありません」


 ヒナゲシの視線は下がったままだ。暗く重く、鈍く深い、絶望と混沌で目が曇る。彼の虹彩には、純粋さの欠片も無い、無限に続く闇だけがあった。


「強いて言えば。ナンセンスなんですよ、愛も恋も。それらを正統性にして、悪行をして、僕らの何が悪いんだ、という人間があまりにも多すぎる。脳が吐くエラーを抑えきれなかった人間が惨めだというのに」

「でも、その、エラーを吐く脳を持ってるのが、人間だと思います。私、難しいことは分かりませんし、好きな人がいたことも無いので分かりませんが」

「そうやって開き直った人間が多すぎる。愛さえあれば何でも許される……だなんて、完全な嘘なんです。僕も昔はそうだったし、人々も僕にそうして接してきた。だから、僕は愛や恋というものを穿った見方をします。そう言えば宜しいですか?」


 アヤメは、はい、と静かに答えた。彼女はヒナゲシが述べた理論を、一つ一つ糸を解くようにして落とし込もうとする。その過程で、ヒナゲシの瞳が讃えるグレーの糸を落としてしまうような、そんな感覚を覚えた。

 一方のヒナゲシは、普段通りの微笑を浮かべている。彼の心は一つの織物だ。解くことは可能だが、それを諦めたくなるほど美しい着物だ。

 解き切ったヒナゲシの憂鬱の中に、一つ、アヤメは何か黒いものを見つける。それを手に取って、眺めるようにして、髪で目を隠したヒナゲシを真っ直ぐに見つめた。


「私には、分かりませんけど。ヒナゲシさんは、愛を憎んでいるように見えます」

「憎む……?」

「はい。愛に強い執着みたいなものを感じます。愛というものがどれほどどうでもいいものか申し上げたのは分かりますが、その裏に、何か劣等感のようなものを感じてしまいます」

「……劣等感、ねぇ。僕がもしも賢くなければ、そんなことを言ったら人間たちは激怒しますから、気をつけましょうね」

「え、はい……?」


 ヒナゲシは方を竦めて笑った。アヤメは目を丸くして首を傾げる。ヒナゲシの言葉の意を解していないのは、ヒナゲシから見ても明白だった。


「愛とか、恋とか……人間を狂わせる、大きなエラー。これを、僕はコントロールしたい。この感情を、僕は決して良い感情だとはいえない。依存、庇護欲、支配欲……そんなものと結び付けたくなります」

「どうしてコントロールするんですか? 恋も愛も、自然に生まれるものなのに……一目惚れとか言うじゃないですか」

「可愛らしい乙女ですね。一目惚れなんて、人間の生存本能に染み付いた反射的エラーなんです。そんな動物染みた感情を、まるで理性ゆえだとでも言うような、そんな愚かな人間が嫌いです。そして、そんな愚かな感情に酔いしれながら、それを褒められたり、慕われたりする様は……本当に、不快です」


 握り締めた拳が赤く染まる。銀の結婚指輪がきつく彼の指を締め上げた。痛みも無いのに、痛むようにヒナゲシは顔を歪めている。

 アヤメはしばらく黙り込み、純真無垢な目でそんなヒナゲシを見つめる。膝の上で手を揃え、身を震わせることも無く、ただ、真っ直ぐに。


「ヒナゲシさんは、キキョウさんに愛されていますよね。それは嫌じゃないんですか?」

「嫌……では、ありません。ですが、僕から愛を向けるときは、気をつけるようにしています。他人を有象無象に変えてしまうような、他人を物のように扱うような愛し方など、したくありませんから」

「そんなふうに考えてるの、ヒナゲシさんくらいだと思います」


 手を組み、アヤメは俯く。ヒナゲシの目が緩くアヤメに向けられた。


「人間、そんなに賢く生きられないと思います。自分の持つ感情が、どう迷惑をかけるかとか、それで何が起きるか、とか……そんなの、分からないんです。

訳が分からないんです、そこから凄い力が出てくるときもあるし、むしろ元気を無くしちゃうこともあって……だから、愛とか恋とか、友情とか信頼とかも、凄いんですよ。そんな訳の分からないものに、真面目になっちゃうんです。馬鹿なんです、人間って」


 アヤメは顔を上げ、堰を切ったように語った。彼女の表情には一点の曇りも無い。ヒナゲシの目が揺れた。


「でも、真面目になっている人を馬鹿にする権利なんて、無いと思います。どんなに馬鹿馬鹿しい理由でも、その人にとっては大切なんです。

私だって、なんか知らないけど、なんかこう、生きていたいなって思って、真面目にシオンさんとお話ししました。それに、ヒナゲシさんのその賢さと優しさだって、本気で考えてるからなんですよね?」

「本気で……考えて……」

「ヒナゲシさんはたぶん、人や自分から逃げないで、本気で向き合おうとしてるんです。だから、私は尊敬します。そして、賢すぎるから、人間が他に目を配れないのを見て、嘲ってしまうんだと思います。そういう人間が、悪いことをして、ヒナゲシさんを傷つけてきたから」

「本気で、向き合おうと……?」


 ヒナゲシがぼんやりと反芻する。アヤメは、顔を真っ赤にすると、すみません、全然筋通ってませんよね、すみません、と言って手で顔を覆った。

 リピート、リメンバー、リコール。ヒナゲシはアヤメの言葉を機に、暗い暗い自分の眼球の闇に飛び降りた。彼の頭を駆け巡ったのは、未知数に身を朽ち果てさせ、人々を傷つけた全て。自分自身の姿。

 ようやく闇から這い上がってきて、大きく息を吸って、長い沈黙の後、ヒナゲシは口を開いた。


「……僕は、本気だったんでしょうね……全部分かり切ってて、その上で、本気で何かをしようとした……そのとき、他人の本気と本気がぶつかって、戦っただけで」

「ヒナゲシさん」

「僕は、酷く擦り切れました。彼らは、僕に刃を向けました。それが覚悟ありにせよ、無しにせよ、傷ついたのは確かでした」

「その、傷ついたことまで否定しなくていいと思います。それは、あなたのせいじゃないですし……」

「いえ、いいえ、そんなことが言いたいんじゃありません。彼らだって本気だった。僕だって本気だった。

人間は、真剣に馬鹿やってるんですよね……ねぇ、そうでしょう、アヤメさん」


 ヒナゲシの縋るような弱い声に、アヤメは押し黙った。か細く、ふらついていて、必死になって闇の中で息をしている。彼の憎悪の中で、絶望の中で、ヒナゲシは必死に生きようと足掻いている。アヤメには、そんな様が見えたような気がしたのだ。


「愛も恋も……馬鹿げてます、あんなのを信じて、そもそも信頼なんか馬鹿らしい、人間なんて所詮自己顕示欲と自己愛のケダモノなんですから、えぇ、そうなんです、そうなんですよ、アヤメさん」

「ヒナゲシさんの言うとおり、だと思います」

「でも、でも……! でも、それが真剣で、だから、馬鹿で、白痴で、人間は本当に、愚かで……未知数で、計算なんかできなくて……自分の愛で、自分の正義で他人を傷つけるなんて少しも思ってなくて! 馬鹿なんですよ、ねぇ、そうでしょう⁉︎」

「……ヒナゲシさん、そんな悲しそうな顔しないでください」

「馬鹿だ、あんなの、彼奴らは馬鹿なんだ! でも、でも、だって、真剣なんですよ、彼奴らは……そんな計算のできないもので、他人を傷つけるくらいには! 僕も、彼奴らも、あんたも、お前らみんな、嗚呼……馬鹿なんです、馬鹿なんですよ……ッ」


 アヤメが目を伏せる。ヒナゲシの声が潤んで歪んだ。嗚咽混じりになって、俯いた彼の美しい顔が濡れていく。泣きじゃくる。口元は笑んでいて、笑い声が漏れているのに、呼吸だけは泣いている。


「……僕がもう少し、馬鹿なら、ですよ? こんなこと、気がつかなくて……あんたに言われたことに、嗤って返して、人間はだから愚かしいのだ、だから人間なんてクソッタレだ、って言えたんです……ねぇ、そうでしょう……?」

「……はい、ヒナゲシさんは、とても賢いと思います。言わされたとか、そういうのじゃなくって……賢いからこそ、分かってしまうんだと思います……経験が、何を作るか」

「えぇ、えぇ、そう、僕は賢いんです、ッ、えぇ、賢いんですからッ、知っているんです、知っているんですよ。愛なんてバグは、本当に、本ッ当に、馬鹿にできないほど真剣で、大切なんだって……そんなもの、嘲笑う資格なんて僕には無いんです、えぇ、そうなんですよ、そう、そうなんです……」


 アヤメは自分の脳を、空っぽの脳を恨んだ。愛されたことも、愛したことも無い、まっさらな自分を初めて愚かだと思った。

 ヒナゲシは自分の脳を、あまりに発達した脳を恨んだ。愛されたことも、愛したこともある、歪んだ自分を初めて愚かだと思った。

 彼の嗚咽が、次第に静かになっていく。呼吸が整って、俯いて口を結んでいたアヤメが顔を上げる。


「……憎悪だったんですね、これは……愛に傷つけられた憎悪と、怒り。このままその不条理を嗤い、嘲り振る舞い続ければ、僕はただの、絶望を苗床とする怪物になってしまう。他人の大切なものを踏み躙って嗤う化け物になってしまう」

「ヒナゲシさんは、凄いです。人間でい続けようとしてるんです、今でも。

私も、人間であり続けたいんです。化け物になんてなりたくない。私、思ってたんです、馬鹿なままでいいって。何も分からないままでいいって。でも、違うんです。人間であり続けるには、人間を受け入れなければならないんだって。他人目線から見てちゃいけないんだって」


 アヤメは強く布を握り、垂れ目を見開く。泣き笑い、解けた笑顔と見合う。ヒナゲシとアヤメは、しばらく見つめ合い、黙っていた。

 二人の人間が、何も言えずに黙っていた。

 少しして、アヤメが口を開いた。足の先を内側に寄せ、再び俯く。


「……馬鹿ですよね、私たちは。道理も立たないことに熱くなって、おかしくなっちゃって……でも、そんな私たちを、受け入れなきゃいけないんだと思います」

「えぇ、本当に……嗚呼、最悪だ、大嫌いだ、人間なんて。でも、その生を嘲笑ってしまったら……僕はそのとき、本物の化け物になってしまうのでしょう。その努力を踏み躙り、馬鹿にしたとき……僕は、僕の形を保っていられなくなります」


 ヒナゲシの手が震えている。顔を覆い、隙間からメランコリーな濡れた目を晒して、大きく息を吐いて。


「愛が、理不尽が、憎くて、憎くて、仕方が無くても……どれだけ惜しくても。彼らが、それに真剣に向き合う限り……僕は、愛を憎んではいけないのですね」

「……そんなに、厳しく生きなくても、」

「駄目なんです。駄目なんだ。

僕は、賢いから。乗り越えるんです、この憎悪を。悔しくって、悔しくって、理不尽で、何奴も此奴も馬鹿だらけで。でも、醜くても良いから、地を這いつくばって、血反吐を吐いて、僕は、前に進むんです、ねぇ。あんたは、どうしますか」


 ようこそ、アネモネ図書館へ──そう言って手を差し伸べたときと全く同じ顔で、ヒナゲシは泣き笑った。アヤメも釣られて涙を流しながら、こくこくと頷いた。


「私も……私も、新しい人生を、作ります」


 泣き濡れた二人の人間の目には、確かに互いの目が映っていた。

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