第二章:ようこそ、アネモネ図書館へ

ようこそ、アネモネ図書館へ

 「いぬのおまわりさん」という曲をご存知だろうか。子猫が迷子になって、泣きながら犬の警察官に訴える話だ。何を訊いても、誰に訊いても「分からない」仕舞いで、遂には警察官も困り果てる。

 このアネモネ図書館には、自殺志願者がやってくる。大抵は暗い過去を持っていて、話すよう促すとつらつらと過去を述べていくものだ。僕らはそんな自殺志願者にアドバイスを与えたり、時には突き放したりしながら、新たなチャンスを与えるのを仕事としている。

 導き手とはいえ、僕はもうお巡りさんではないのだ。

「わ、分からないんです……私、どうして死んだんですか……?」

 司書長・ヒナゲシは困り果てていた。

 片手に持った端末の中、電脳体・クロッカスはうんうん唸りながらデータを参照し、司書・ツバキはああでもないこうでもないと言いながら図書館中を右往左往。

 隣でヒナゲシの恋人であり、カウンセラーの経験があるキキョウが、赤い着物を着込んだ少女に笑顔で話を訊く。されど、その少女は首を振り、黒いポニーテールを揺らし、玉虫色の目をきょろきょろと動かすだけだ。

「……つまり、あんたは自分の名前以外何も覚えてないんですね」

「は、はい……あ、でも、多分自転車とかは乗れると思います。さっき見せてもらった文字も読めたので、完全に記憶喪失ってわけじゃないと思います……だけど、生きてたとき? の記憶が全く無くて……」

 少女は自らを、アヤメ、と名乗った。背丈はハイヒールを履いたヒナゲシよりも高く、力は体を鍛えているヒナゲシ並に強い。見た目はクロッカス同様女子高生並なのだが、身のこなしは成人男性にも劣らない。

 欠伸をしながら、シオンがクロッカスに声をかける。クロッカスは青い眼鏡の下、蜂蜜色の目をぐるぐるさせていた。

「無いんです、無いんですよっ! 無いんです! どれだけ探しても過去のデータが無いんです!」

「……少なくとも、日本人で自殺志願者なら把握しているつもりなんだがな。出身が発展国なら言語解析で他の国の人生も見られるが……それでも無いんだろう?」

「無いです……カグラザカ、アヤメ。存在は把握できますが、バックログが削除されてるんです……」

 疲れ果てたツバキが、手に多くの本を持ってふらふらとヒナゲシの隣に座り込む。ヒナゲシの肩に寄りかかり、もう限界です、と音を上げた。もう数時間クロッカスとツバキは探索作業を行なっている。

 アヤメは目を逸らすと、ごめんなさい、と何度も言って頭を下げる。

「本当に、申し訳ありません……ご迷惑をおかけします……」

「まぁまぁ、お嬢さん。とりあえず整理しよう。何の記憶があるんだっけ?」

「えっと……私は、神楽坂菖蒲といいます。十八歳、日本人です。頭は良くないんですけど、身のこなしには自信があります。

で、記憶は……目を覚ましたら、どこかの部屋にいて、誰かと話して……その後、アザミ、っていう女の子に会いました。

アザミさんは私に、アネモネ図書館という場所に行け、と言いました。そして、連れてきてもらいました」

 少女は淀み無く話していく。膝の上で手を揃え、背筋を伸ばしている様から、育ちの良さを感じ取る。

 正直に言おう、僕は彼女がここに来ることを知っていた。本来の館長たるアザミが僕に「新入り」の到来を予告していたのだ。今のところ、アザミとコンタクトを取れるのは僕くらいだ。

 シオンはもう一度欠伸をして口元を隠すと、アヤメ、と静かに呼んだ。アヤメはハキハキとした声で、はい、と答える。

「ふわぁ……何も思い出せないなら、何も差し出せるものが無いということで、僕らは君を輪廻転生に送らなければならないかもしれない。

君は、生きたい? 死にたい?」

「……分かりません。でも、死にたくはありません。私、本当に、死のうとなんて思ってもいないんです」

 胸に手を当て、アヤメは凛々しい顔つきで答える。やはり、背の大きさも相まって、遥かに年上に見える──アザミのそれによく似た、大人びた雰囲気を感じさせた。

「忘れてしまったということは、覚えている価値が無い過去だったのかもしれません。でも、私は、きっと新しいチャンスを貰ったんだと思います」

「……そうでしょうね。アザミが人間を救うときは、やり直す機会を与えるときです。司書長たる僕も、隣のキキョウも、今は寝ているダリアも、皆アザミに招かれました。そして、生きる希望を持っていました」

「私、思うんです。過去なんて無くたって、生きていける、って」

 シオンの目がぎらんと輝く。ブラッドレッドの、サーペントアイズ。見慣れた光景に、僕は思わず笑ってしまった。彼は立ち上がったキキョウの代わりに僕の隣に座り、手を組んで三白眼でアヤメを見つめる。彼女の頬が微かに硬直した──蛇に睨まれ、緊張しているのだろう。

 彼の髪から、微かに珈琲の香りが漂ってくる。眠気を誘う、甘くて官能的な香り。彼が獲物を捕らえるときに嗅ぐわせる、略奪的で危険な香りだ。

 その香りに釣られて、ツバキの手伝いをしていたスミレがやってきた。大人に囲まれても、微かに緊張したアヤメの顔色は変わらない。

「ほう、聞こうか? 記憶も失い、経験も失った君が、どうしてそう思う?」

「確かに、経験は失いました。でも、言葉は知っています。昔、多分身体に自信があったことも分かります。私に身についた過去の残滓が、私を後押ししてくれるって思うんです」

「宣言的記憶と手続き記憶があったとはいえ、それは君を生かすに値するのか?」

「せんげんてききおく……? とにかく、私は……もしも本当に死にたくて、全て忘れてしまいたかったら、神楽坂菖蒲という名も捨ててしまったと思うのです」

 シオンの言葉遣いは難しい。心理学用語も使えるし、挙げ句の果てに医学用語まで使えてしまうのが彼だ。他の誰よりも聡く、知識豊富な男だ。だからこそ、僕は先生と崇めるのだけど。

 アヤメは玉虫色の目をきらりと輝かせた。頬を張ったまま、揺らがぬ声で答える。

「それに、記憶が無いと、人として駄目なのでしょうか。過去が無いと、今は無いのでしょうか。私には何も無いかもしれませんが、今、神楽坂菖蒲という私が生きているだけで、良いと思うんです」

「……へぇ、お前、面白い子だな。少しも動揺してない。中身が空っぽだから、複雑でもない」

 え、とアヤメが声を出して戸惑う。ソファに肘を乗っけて、スミレが端正に微笑んだ。スミレの「目」が、アヤメの本質を見抜いたのだ。

 どんな人生を生きてきたにせよ、記憶を失い、この主張を裏付ける経験も無いのに、ここまで強く主張できるのは、どれほどに心が強いことか。一人の恋人の記憶を失って心が壊れてしまった人、友人を失って罪に囚われてしまった人──過去とは時に、人を弱くする。

 経験が人間を作るとはいうが、経験が人間を臆病にするのもまた事実だ。空っぽで何も無い、まっさらゆえのこの希望的思考に、僕ら記憶に囚われた人間共はただ愕然とする。

 玉虫色の目は、白い光を通して透き通っていた。

「空っぽ、かもしれません。今の私は、与えられた神楽坂菖蒲という過去の死人をなぞるだけの偽者かもしれません。それでも、生きていたいと思うのは、罪なのでしょうか」

「……君を現世に返してやりたいのは山々なんだが、何せ参照先のデータが見つからない。君を返す場所が見当たらないんだ、アヤメ」

 シオンの声色は緩いカフェオレだ。唇はカーブを描き、蛇のような目は笑みを描く。アヤメは肩を落とすと、そうなんですね、と落ち込んだ様子を見せる。

「ただ、唯一君が現世に戻ることができる方法がある。そのための代償は重いものだが、覚悟はできるかい」

「ほ、本当ですか?」

「君には『人ならざる者』になってもらう。現世の時の流れから隔絶され、悠久の時を生きる人でなしになってもらう。君はもう、普通の人間とは生きていけない……言い換えれば、僕の友達に、かな」

 アヤメの顔が少し明るくなる。そこに希望を見出せるなら、シオンの「スカウト」は成功だ。かつてシオンが僕にそうしたように、キキョウにそうしたように、ダリアにそうしたように。

 人ならざる者となった僕らは、いわば人間の形を持った人間の管理者だ。四次元に生きる怪物だ。物語と、AIと、電脳体と、ドールと、人形たちと生きている。アザミとて魔女を名乗っていたから、姉であり館長たるミカンだってもう人間と同じ時間は歩めない。

 僕らは中身こそ進化するが、もう外側は変化しない。生きたい限り生きることができる、なり損ない。僕はそれでも良いと思った──どうせ死ぬのだから。どうせ、この図書館の日々は、長い走馬灯に過ぎないのだから。開演ブザーは、鳴り止まないのだから。

 今、目の前に座る赤い着物の少女の脳内でも、きっと開演ブザーが鳴り響いているのだ。烏羽玉の黒髪と、銀の厳ついピアスと、透明で裏の無い玉虫色の目と、白い肌が、全てが、再演のための白粉なのだ。

「君を、この図書館の司書としてスカウトしよう。十輪目、今日から君の名は『アヤメ』だ」

「司書……? ここは、何をするところなのですか?」

「ここは、自殺志願者に再度現世でやり直すチャンスを与える代わりに、その妨げになる記憶を頂戴するという図書館です。僕もかつては人間でした。無論、現世に赴くことも可能ですが──今からあんたは、不老不死の化け物、ってわけです。

……さて、名乗りましょう、僕は十一の司書を束ねる司書長・ヒナゲシ。こちらを、館長代理のシオンといいます」

 僕とシオンは並んで手を差し伸べる。僕に寄り掛かっていたツバキも、片目を開いてにこりと微笑む。スミレも、アヤメに興味心を唆られて、赤い目を爛々と輝かせる。キキョウはまるで、自分の妹を見るかのように温かい目で見守る。疲れ果てたクロッカスも、端末の中から星を詰めたような黄色の瞳でアヤメを見つめていた。

「僕らと一緒に来ませんか、アヤメ」

 前を向き、歩んで行こうとする人でなしよ。僕らの手を取れば、必ずや、楽園を見せて差し上げよう。僕らと共に、悠久の時の中で、どう生きるべきか悩み、足掻き、新たなる自分を作り出していこう。

 アヤメは俯き、少し黙った後、こくりと頷き、立ち上がった。身長が同じ僕とシオンよりも遥かに高いところで、アヤメの双眼が希望に輝く。

「はい……! 私、頑張ります……!」

 シオンと握手をして、次に僕と握手をする。手の力が思ったより強くて、思わず笑ってしまった。

 アザミが可能性を見出した新たな花が今、一つ、紫色に花開いた。

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