愛されなかった反英雄へ告ぐ

 コーヒーを飲んで一息入れていたキキョウの元に、亜麻色のポニーテールが現れた。目の下には隈があるが、それでもなお妖艶で耽美な笑顔を浮かべる。瞳の色がブラッディレッドでなければ、キキョウはコーヒーカップを落としていたはずだ。

 眼鏡を外し、服のポケットに入れると、よぉ、と紅茶色の苦く芳しい声で話しかける。対面に座った男は、口角を薄く上げてキキョウを見つめた。

「シオ……ハルジオンか?」

「ご明察。本日はハルジオンがお相手致します」

 ハルジオン、と名乗った男は、クスクスと笑って肩を揺らした。

 キキョウはこれを名乗る男が何者か知っている──シオンだ。他でもないシオンこそ、ハルジオンなのだ。それは気分で変えているわけではない。精神医学用語で言えば、「解離性同一性障害」だ。

 ベルベッドのソファの上、肘掛に肘をつき、浅薄な笑みを浮かべる彼は、シオンの裏人格を司っている。

「どう? 図書館暮らしも慣れてきたか?」

「ま、まぁな……昴……ダリアがいるのが厄介だが、変な奴はいないし、先輩の世話もできるし。死ぬよりは良かったと思う」

「そうかい。忘却した『憎悪』とは縁を切れそう?」

 憎悪、という言葉に、キキョウは喉に黒い何かがつっかえたような感覚を覚え、すぐに肯定の言葉が出なかった。その黒い何かは、首を引っ掻いて吐き出してしまいたくなるものだったが、かろうじて飲み下した。

 キキョウが図書館に来て忘却したものは、彼から世界へ向けられた「憎悪」だった。自分の愛したものを奪った世界への憎しみは、確かに図書館生活で薄れつつある。出会う自殺志願者たちと触れ合うことで、自らの憎悪にも蹴りをつけてきたつもりだった。

 されど、キキョウはすぐに答えを出せなかった。ハルジオンは片目を細め、嫌に歪に笑う。

「そう焦んなくて良いって。だってお前、四十数年間も憎悪と同居して生きてきたんだろ? 綺麗さっぱり忘れられるわけ無いって」

「でも……昔よりは、人間に興味が無いから、マシにはなったんだけど。時々、自殺志願者を見てると、キレそうになる」

 キキョウは拳をぎゅっと握りしめる。爪が食い込み、白い肌が血液の色で赤くなる。その色が指に広がっていくのを見ながら、キキョウは吐き捨てるように呟いた。

「理不尽に捨てられたクライエント、復讐心を抱えていたクライエント、まだ年端もいかぬ、幼い子どものクライエント……ああいうクライエントを見ていると、憤りを覚える。人間なんて所詮利己主義で、自ら被害者になってくれる誰かを求めてる乞食ばかりだ、って」

「随分と正義感のある司書だなァ、お前」

「……先輩は、そういう馬鹿に喰われた。そういう馬鹿どもに振り回されて、自殺したんだよ」

 キキョウの開いた手に、赤く垂れた血の幻覚を見る。睡眠薬をあおったヒナゲシは、煽るようにして、自分の首を剃刀で切った。真っ赤な血が滴り落ちる。

「先輩みたいな人間を殺める世界に、救ってやる価値は無いんじゃないかって、今でも思う。そういう人間どもはみんな不幸になっちまえって。自分は悪くないって思ってる人間、全員見捨てられちまえって思う」

「やはり、憎悪からは逃げられないんだな」

「……ここでいっぱい人間について学んだから、再燃しただけだ」

 ハルジオンは薄い笑みを貼り付けたまま、上機嫌に答える。シオンならば、ここでタメになる話をしてくれるのだろうが、ハルジオンはへらへらと笑ってキキョウを見つめるだけだ。

 キキョウはふと、ハルジオンとの会話の数々を思い出す。彼はいつも聞き役に徹する。シオンはどちらかといえば、相手に出題し、その答えを出させ、話を展開する──まるで教師のような存在だ。

 ハルジオンはある意味で、冷たい。結論を語り、相手が話すのを待っているだけだ。悠々とした笑みを浮かべ、皮肉を時折混ぜるだけだ。

「あんたは、シオンみたいに語らないのか」

「俺? 俺は語らないさ。聞き役に徹するだけ。んで、ちょーっと最後に良いこと言うだけ。キャバ嬢と一緒、本番はヤらない」

「……やっぱり、そういうとこも先輩に似てるよ。ハルジオン、あんたは先輩そっくりだ」

「だよな。で、シオンはお前そっくりだ」

 キキョウが息を呑む。ハルジオンは眉を下げ、困ったように笑った。ブラッディレッドの瞳が、穏やかに奥で光っている。シャンデリアの光を受け、橙に微笑んでいる。

「これは、俺じゃなくて、シオンの話」

 ハルジオンは肘を離すと、手を組み、目を閉じた。口角を下げ、膝に肘を乗せ、静かに語り始める。

「昔々、あるところに、自分の兄を崇拝する弟がいました。弟は自分の命に代えてでも兄を守りたいほどに愛していました。ところがある日、兄は攫われてしまったのです」

「……弟は、シオンか?」

「兄はなんととてもヤバい集団に洗脳されてしまいました。兄はその集団を崇め奉り、素晴らしい、素晴らしい、と連呼したものでした」

「……ハルジオン」

「兄にはもう、自我などありませんでした。彼の目には、その教団しか見えていませんでした」

 キキョウが口を挟めど、ハルジオンの語りは止まらない。低く、冷たく、なおかつ、底で熱く燃える炎のような声で、彼は嗤う。

「しばらくして、弟は兄を見つけることができましたが、兄はとうに狂っていました。自我を失った彼を見て、弟は決意しました──死こそ救いであり、彼を解き放つには、殺すしか無いと。

憎悪を抱いた彼を止められる者は、もはや誰もいませんでした」

「……それで、シオンの兄殺しに繋がってくるのか」

 ハルジオンが目を開く。眠たげに伏せられた睫毛が揺れる。下がった口角からは、エッジの効いた声が漏れ出す。キキョウはその光景から目を離せなくなっていた。

「弟は、最愛の兄を殺しました。そしてその兄を、海へと、投げ捨てました」

 キキョウは脳裏にその光景を思い浮かべる。水底に沈んでいく見慣れた景色を眺め、自らの正義を執行した彼の手には、何も残らなかった。何もかもが海に沈んでしまった。

 自分も、もしも人を殺してしまったとしたら──ヒナゲシと、心中できなかったとしたら。世界を滅ぼすほどに憎悪し、何もかもを破壊し尽くす。ヒナゲシの同僚を、部下を、警察を、殺し尽くす。そんな姿が、容易に想像できてしまうのだ。

 目の前に座るハルジオンは、シオンが見せる幻覚だ。ハルジオン、否、彼の兄は、もう死んでしまったのだ。シオンが作り上げた、かつての兄が、目の前で話しているだけなのだ。

 まぶたを持ち上げ、ハルジオンは奥歯を噛んで笑う。目を細め、緩やかにカーブした花唇は、甘い蜜の香りを携える。

「正義感と憎悪は、人を狂わせる。これらは表裏一体だと、俺は思う。

愛と憎悪で瞽になった彼奴は、何もかもを失った。何もかもを消し去った。独りになって、独りに耐えられなくなって、俺を生み出した。今の彼奴は、俺の存在を知らない」

「……統合されることを、恐ろしいとは思わねぇのか」

「いや、全く? 俺はもう死んでるはず。もしかしたら魂が重なってるとかそういうミラクルはあるかもしれないけどさ。何にせよ、俺は早く彼奴のために死にたいんだ」

 ハルジオンが指を二本立て、頭に突き立ててみせる。バーン、と言って、銃に見立てた指で頭を撃ち抜く。足を組み、大胆不敵に笑む姿は、年齢も性別も奪われた美しさを持っていた。

「もういいんだよ、って。お前の兄は死んだんだ。

なぁ、ヒナゲシを虐めてた奴らだっていなくなったんだろ? だったらもう世界を恨まなくていいんだよ。そんなんじゃすぐ狂っちまうぜ、お前」

「シオンの例は極端すぎるだろうが」

「そうかもな。だが、お前もそういうことをしかねないから、気をつけろって話だよ。良い話はおしまい」

 そう言うと、ハルジオンは小さく息を吐いた。キキョウが言葉を見つけられずに俯いていると、ハルジオンは微かな声で、あのさ、と沈黙を繋ぐ。

「……シオンは元々、自殺願望持ちの鬱病患者だったんだよ。だから、独りじゃ耐えきれないって、俺なら理解できる。だから俺がいるんだって、思う。奥さんとも相談して、俺の存在はシオンに伝えないことになった」

「俺も……俺も、先輩がいないと生きていけなかったと思う。独りじゃきっと耐えきれなかったから……先輩が毎日毎日泣くようになって、壊れてしまって、死のうとしたとき……俺は世界を殺す方じゃなくて、先輩について行く方を選んだ」

「最後まで秩序と善を守る人間だったんだなァ」

「そうだな。大切な人を奪われる苦しみは、俺が一番分かってるからよ」

 キキョウの濡鴉色の目が曇る。目の前のポニーテールは、かつてのヒナゲシの面影に重なった。濁った赤い目がこちらを見つめれば、どんよりとした蜂蜜色の目がこちらを見ていた姿を思い出す。

 そして、ヒナゲシはかつて自分の誇りだったポニーテールを、園芸用ハサミで切り落とした。

 今でこそ伸びてきた髪をキキョウが結ってやるが、ここに来たばかりの彼はまだ髪が短かった。彼が苦しみ、絶望し、他人に言われた言葉を繰り返しながら壊れて行くのを、キキョウはずっと隣で見ていた。

 ハルジオンが哀れむような笑顔を浮かべる。目を細め、口角だけを上げる。頬に手を当てる。その様も、まるでキキョウの愛した男のようで、キキョウは居た堪れなくて目を逸らした。

「……何でそんな顔するんだよ」

「哀れんでんだよ」

「哀れむなよ」

「本当、シオンにせよ、ヒナゲシにせよ、お前にせよ……皆々、お人好しだよ。いい奴すぎたんだよ。

喩えるなら、ダークヒーロー。価値観が凡人と違うから、よく偽悪的な立ち居振る舞いをする。やっぱり、ここの図書館がお似合いだ」

「……社会不適合者、って言いたいのか」

「人間不合格者、かな」

 横髪を弄りながら、ハルジオンは喉を鳴らして笑う。

「拓馬は愛する人を守るために世界を滅ぼすし、お前は愛する人を守るために心中するし。お前らの思う正義と憎悪を貫いた結果、こうなったわけだよ」

「……だろうな」

「だが、ゆめゆめ忘れるなよ。彼奴は何もかもを失って孤独になった。周りが見えないで独りになっちまったんだよ。どれだけ格好良く振る舞った勇者も魔王も、最後は独りだ。だったら、村人Aくらいでいいと、俺は思うよ」

「あぁ、分かってる。第一、そうやって格好付けて何もかもを失った人間を知ってるからな」

「良い皮肉だ」

「そして、俺は別にお前を殺す気は無い」

 ハルジオンの片眉が上がる。キキョウは逸らしていた目を戻すと、膝の上で拳を握った。

「解離性同一性障害の治療法は、確かに人格統合がベストだ。だが、生ずるきっかけとなったトラウマと向き合い、他の人格とちゃんと役割分担ができるようにすること……それも治療の一つだ。もしもそれでシオンが生きていけるなら、そして、奥さんがそれでも良いと言っているなら……俺は、あんたが死ぬ必要は無いと思う」

「俺は彼奴が見てる偶像に過ぎない。彼奴が生み出した『俺』に過ぎないんだよ。もう本当の俺は死んだんだ。俺は、彼奴にとって都合の良い空想なんだよ……」

「だとしても。シオンは、お前を忘れたくないから、シオンを名乗ってるんだよ。伊達に魔王やってるわけじゃねぇんだ、彼奴だって」

 キキョウは揺らがぬ瞳でハルジオンを射抜く。彼は何か言いたげに唇を動かし、されど黙り込んだ。

「彼奴のそばにいてやってくれ。彼奴の世界への憎悪を緩和できるのは、きっとお前しかいない」

「……彼奴には、カトレアがいる。それに、本物の俺にも、カトレアのように愛した女がいた。俺がここにいたら、あの人は──」

「お前は本物じゃない。偽物だが彼奴の兄だ、違うか」

「……そうだな。俺は、彼奴が作った、彼奴の兄だ。俺は、俺じゃない……」

 眠たげに呟き、ハルジオンは一度、かくん、と首を下げる。ナルコレプシーの症状だ。キキョウは立ち上がり、ハルジオンの隣に座ると、その体を支える。

「……嗚呼……俺が死のうとするのも、俺のエゴなのかな。俺の、正義なのかな」

「そうだろうな。お前が弟を思うあまりに成し遂げようとする正義だ」

「……はは、彼奴の見てた俺って、どんだけ格好付けてんだよ、ダッセェ。俺は、正義とは程遠い人格をしてたはずなんだがなァ……」

 うとうとしながら、ハルジオンは途切れ途切れに呟く。ポニーテールを解くと、終いにはキキョウに寄りかかって眠り込んでしまった。キキョウは動けないまま、眠りに落ちるハルジオンを眺める。

 髪を解いたのも、彼なりのシオンへの思いやりだ。手首に巻いた髪ゴムを見ていると、キキョウに女性の声が降ってくる。顔を上げれば、シオンの妻であり、四輪目の司書──カトレアがこちらにやって来ていた。

 赤紫の目を細め、ハルジオンを一目見ると、小さく息を吐く。

「……ハルジオン君と、話してたんだね」

「あぁ、ちょっとだけな」

「何て言ってた?」

「俺が早く死ねばシオンが楽になるって」

「いつも同じこと言ってるね、ハルジオン君は」

 キキョウが飲み終えたティーカップを手に持つと、カトレアは悩ましげに目を伏せた。

「ハルジオン君にもね、彼女がいたんだよ。でも、どちらも死んでしまったんだ」

「それは聞いたよ。だから、あんたは心配なんだろ」

「うん、ハルジオン君も一途な人だったから」

「……心配無いさ、本物の彼奴は、きっと彼女のそばに寄り添ってるから」

「……そう、だよね」

 カトレアは、ごめんね、と謝ると、ティーカップを下げに戻っていった。キキョウはシオンの体を持ち上げると、彼を起こさないように静かに歩きながら、ベッドルームに向かう。そして、彼をベッドに入れると、おやすみ、と呟き、部屋の電気を消した。

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