少女よ、忘却と共に冒険せよ
「で、でも、そそ、そういうの、ず、狡いと、思うんですよ」
セーラー服の少女はそう言ってスカートを握り締めた。向かい側に座るのは、白衣を着た眉目秀麗な男性だ。烏羽玉の黒髪を揺らし、どうしてかな、と優しく低い顔で尋ねる。
「だ、だって、わ、私が悪いのを忘れて、そ、その、やり直す、って……つ、つつ、都合が良い、と思います」
「どうして、あなたが悪いのかな」
「わ、私……ブスだし、性格悪いし……あ、頭も悪いし、は、話すのも下手だし、オタクだし……」
「不細工で性格が悪くて頭が悪くて話すのが下手なオタクは生きちゃいけないなんて法律は無いだろ?」
「う、うう、でも、が、学校じゃ、生きちゃダメだって、死ね、って、い、言われたんです。い、家でも、親に、そ、その、知恵遅れ、とか、馬鹿、とか、言われて、う、生まれて来なきゃ良かったって、い、言われたんです」
奥歯をガチガチと鳴らし、少女は震えながら答えた。吃音持ちの彼女が言葉に詰まるたびに、苦しそうな吐息が漏れる。
向かい側に座る男性は、ふむ、と呟くと、再びにかっと笑い、お嬢さん、と声をかけた。
「友達とか、親族とか……何か、頼れる人はいたのかな?」
「い、い、いません。お、おばあちゃんも、おじいちゃんも、わ、私のこと、馬鹿にするんです。と、友達は、い、います、けど、別の中学、で」
「お嬢さんは知ってると思うけど、今は中学に通わなくても高校には上がれるんだ。戻ったら、そっちに行ってみる、ってのはどうだ?」
「に、逃げちゃ、ダメだと、思います」
「お嬢さん。人間がAIと違う点は何か、知ってるかい?」
遥かに背の高い男性を見上げ、少女は暫く押し黙った後、首を横に振った。ボサボサの髪が揺れる。
「AIは、物事を忘れられないから、人間ほど多くのことを覚えていられないんだ。人間は物事を効率的に忘れることで、ここまで賢い生き物になったんだ」
「は、はい、で、でも」
「だからさ、『忘却』って悪いことに聞こえるかもしれないけど。最高に良いことなんだよ。事実、私の恋人も……忘れることで、前に進めた。もっと賢い人間になれたんだぜ」
ブルーベースの白肌が、ほんのりと赤くなる。男性は目を逸らし、恥ずかしそうに笑う。少女はその顔をまじまじと見た後、再び俯いた。
「か、彼女、いるんですか、凄いです」
「彼女じゃねぇよ、彼氏」
「彼氏⁉︎」
「あなたの過ごす世界じゃ、同性愛は鼻つまみ者だろうな。でも、ここじゃ極普通のこと。
実際、学校を出てみると、あなたみたいな人間でも生きていける、って分かるよ」
男性はそう言って、自分の左手に右手を重ねた。薬指には、銀の指輪が輝いている。
「私が好きな人も、とても生き辛い人だった。虐められっ子だったんだ。けれども、今ではその辛い記憶を忘れて、前に進んでいる。
逆に、いつまでもとある記憶が忘れられなくて、前に進めずに存在意義を見失い、死んでいく奴もいる。既に死んだ時間に閉じ込められて、ゆっくりと周りに忘れられていく……
賢い人間はさ、忘れることができるんだよ。それは決して、逃げたことにはならない。馬鹿だっていいじゃねぇか、すぐ忘れたっていいんだよ、お嬢さん」
「……で、でも、学校じゃ、良くない……」
「お嬢さんが本当に馬鹿なのか、まだ分からないぜ? 世の中には、様々な教育方法がある。お嬢さんには合ってないだけかもしれない。大丈夫だ、あなたにはまだ、見ていない世界がたくさんある」
「み、見てない、世界……」
少女はその言葉を咀嚼するように、何度も呟く。男性は手を組むと、目を伏せて笑った。
「お嬢さん。新たに帆を立てて、船旅に出よう。まだ知らない世界に行くんだ。それはきっと怖いことだし、いっぱい失敗するかもしれない。私たちも、あなたが必ず成功するとは約束できない。
でも、あなたが責めるようなあなたでも、幸せに生きていける世界があるはずさ」
「わ、私でも、いい、んですか?」
「あぁ。顔なんて整形すりゃ変えられるし、勉強は一生懸命やればできる。話すのだって練習すれば上手くなる。オタクなんて直す必要すら無い。性格だって、物事が上手くいくようになれば、自ずと良くなっていくものさ」
「わ、私、は……」
「その代わり、何かの記憶を置いて行ってもらう。その代わり、っていうか、あなたのマストになる記憶を作ってもらう。さぁ、何を置いて行こうか」
少女は顔を上げ、潤んだ目をぎらんと輝かせて、男性をじっと見据えた。黒い前髪の隙間から、アッシュブラウンが覗いている。前傾姿勢になって、膝の上で拳を握り締め、詰まって出てこない言葉の代わりに、精一杯息を吐く。はー、はー、と、一音一音、確かめるように。
「わ、私、は、で、できなかった、こ、こと、忘れます。じ、自分じゃ、ダメだ、って思ってたことを、わ、忘れます」
「劣等感を置いていく、でいいのかな」
「れ、れっとうかん、って、なな、何ですか」
「『自分にはできない』って思い込むことだよ」
「そ、それ、です」
ぶんぶんと首を縦に振って、少女は頷いた。男性の膝の上に置かれた本に、記憶が刻み込まれていく。すると、少女の足元から、煌めく淡い光が放たれて、少女の姿が消えていく。
決意に目を光らせた冒険者が、ありがとうございました、と詰まりながら答えた。
「行ってらっしゃい、良い旅を」
金の光が消えていくと、男性は大きく息を吐いた。口角が下がり、疲れが顔に現れる。そんな男性を、キキョウ、と呼び、亜麻色の髪の男性が近寄ってきた。
キキョウは少し頬を赤く染めると、座りなよ、と隣を指した。キキョウの隣に座った男性は、中性的で妖艶な笑みを浮かべる。
「お疲れ様、キキョウ」
「あぁ、ありがと、先輩」
「僕の話をし始めた時は、此奴惚気始めたぞ、って思ったんですけど。彼女が前を向けたようで何よりです」
「そうだな。忘れるって、決して逃げることじゃねぇんだよ」
相手の手に自分の手を重ね、キキョウは遠くを見つめる。キキョウの恋人・ヒナゲシは緩く笑むと、そうですね、と優しく返した。
「永遠に忘れないで、終わった過去と生きていく……それもまた、生き方の一つなんだろうけど。そういう人は、過去と共に置き去りにされて、いずれ忘れ去られていくと、俺は思うよ」
「えぇ、本当に。過去と共に墓に眠るんです」
「だから、忘れられないようにするには、忘れる必要があると思う、俺は。確執を、劣等感を、絶望を……間違ってるかな、先輩」
「いいえ、あんたの言うとおりだと思いますよ」
ヒナゲシの節のある手がキキョウの頭を撫でた。キキョウは長い睫毛を瞬かせ、ふふ、と笑い声を漏らす。
「だから俺は、憎悪を忘れたんだ」
「そして僕は、絶望を忘れましたから」
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