希望に満ちた絶望を

 男は縋るような思いで目の前の美形を見ていた。長い髪と端正な顔立ちは、壮年の男から年齢や性別を奪っている。金の丸渕の眼鏡の奥から、蜂蜜色の瞳が男を見つめていた。

 司書長と名乗った男は、傍に本を置き、にこりと愛想良く微笑んだ。

「ようこそ、自殺志願者。僕はヒナゲシと申します。ここはアネモネ図書館。記憶と引き換えに、もう一度現世でやり直すチャンスを与える場所です」

「やり直す、って……俺は……死ぬつもりで死んだのに……勝手なこと言うなよ」

 男は項垂れ、頭を抱える。されど、ヒナゲシと名乗った男は甘い笑顔を浮かべたまま、男を見下ろしていた。

「どうしてです?」

「俺にはもう、金も、未来も、無いんだよ……あの人を失ってから、何もかも……」

「あの人、って誰ですか?」

「俺の……恋人、だった」

 奥歯を噛み締め、男は俯いたまま手を組む。男の脳裏に、長い髪を揺らす白いワンピースの女が浮かんだ。

「彼奴は……彼奴は交通事故で死んだ……」

「友人はいらっしゃらなかったのですか? 親は何と?」

「友人? 親? 彼奴らが? 葬式で俺に『また新しい恋を探そうぜ』『きっとお前の幸せを願ってる』って言った彼奴らが⁉︎

いねぇよ、いねぇんだよ友人なんて! どいつもこいつも勝手なこと言いやがってよォ……! 俺には、あの人しか……」

「どうして、お金まで失ったのですか?」

「ヤクを買ったんだよ……あの人が、彼女が見えるからよ……」

 男の腕に、無数の注射痕を見とめる。ヒナゲシは目を細め、あらまぁ、と夫人のような穏やかな口調で答えた。

「彼女しか、俺にはいない……俺は彼女しか愛せないんだよォ、俺が彼女に会うためには、死ぬしか無かったんだよォ……」

「そうですか。では、現世に戻る気は無いと?」

「無い。無いよ、俺には何も無いんだ。金も、居場所も、彼女も、親も、何も……仕事も……後悔してるんだよ、人生に……でも、どうしようも無い……」

「おやおや、それはお気の毒」

「ッ、テメェ、」

 顔を上げ、男はヒナゲシの胸ぐらを掴んだ。しかし、ヒナゲシはにこりと微笑んだまま、その手を捻り返す。呻き声を上げた男に素早く組みつき、気づけば、ヒナゲシは男に馬乗りになっていた。

 見上げたヒナゲシは、妖女のように艶かしい笑みを浮かべ、男の首にそっと指を絡める。

「荒々しいお人。あんた、友人や親が心配してくれたのに、独りでいなくなったんですか?」

「は、何しやがる、」

「居場所なんてあるはずありませんよね。だってあんた、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも亡霊しか見てないんですもの」

「亡霊なんて……ッ!」

「それで自殺したんですか。それで自傷したんですか。彼女のために。彼女に会うために。それで死にたいと仰るんですか」

「おま、え」

 男が口をぱくぱくと開けては閉じて、息をしようとする。すればするほど、ヒナゲシの指に力がこもっていく。

 ヒナゲシの口角は落ち、唇の月は欠けた。蜂蜜色だった目は、鉛混じりの金に変わっていた。

「可哀想……」

 男は体を硬直させた。もうヒナゲシの手は離れていた──それでも、男はぴくりと指の先を動かすことすらできなかった。

 ヒナゲシは目を細め、低い声でぽつりと呟く。目をカッと見開き、喉の奥から震える声を上げる。

「可哀想、可哀想、可哀想、可哀想、可哀想……」

「……ふざけんな……お前に何が」

「かわいそう、かわいそぉ……! ……あはっ」

「黙れ、黙れ黙れッ、」

「……あんたの記憶、確かに頂戴しました」

 男がびくりと体を震わせた。指の先から光の泡となって消えていく。男は首を横に振ると、嫌だ、嫌だ、と叫んだ。

「お前、俺に、何をしたんだよッ、ふざけんな、ふざけんな」

「記憶を頂く代わりに、現世にお戻りいただきます」

「やめろ、やめてくれ、死なせてくれよ、頼む、嗚呼、何でだよ、何で、」

 消えていく指で顔を覆い、男が絶叫する。男の脳裏から、白いワンピースが、黒い長い髪が、ひまわり畑が、愛しい人の顔が、名前が、ラベンダーの香りが、消えていく。

 ヒナゲシは小首を傾げ、優美に微笑んだ。

「忘れたくない、俺からあの人がいなくなったら、俺は、俺は、やめてくれ、助けてくれよおおォ……ッ!」

「おや、あんたに恋人なんていましたっけ?」

「嫌だ、あの人が、名前が、なにもない、なにも、わかんない、なんで、たいせつな、だいじな、あのひとが、ああ、ああああああああああぁ……」

 男の指先は消え、金のあぶくとなり、そこに一冊の本が残された。彼の名前が記された、新しい本だった。

 ヒナゲシは本を拾い上げると、手元のスマートフォンに目を向ける。画面の向こうで、白髪の少女がぽかんと口を開けていた。

「クロッカス、整理よろしくお願いします」

「は、はえぇ、ヒナゲシさんってこんな怖いこともするんですね……」

「僕らの仕事は、記憶と引き換えに新たなチャンスを与えること、そして、記憶を保管することでしょう? 仕事をこなしたまでです」

「でも、自殺志願者は恐怖の兆候を示していました。恐喝も手段に含んで良いのでしょうか?」

 そうして画面に先ほどの男性の心拍数や脳波のデータを提示してみせる。猫耳のヘッドフォンに手を当て、まじまじと煌めく黄色の目で見上げてくるクロッカスに対し、ヒナゲシはクスクスと笑い返した。

「恐喝じゃありません、お説教です。それに、僕は彼の幸せを願っているんですよ」

「んん? なぜですか? 理解不能です」

「周りをちゃんと見て生きなさいよ、と警告したんです。友人も親もきっと彼を大切に思ってくれている。薬なんかで見を削らないで、亡霊なんかに囚われないで、幸せを掴もうと、前に進んでほしい、ってね」

「ふむ……それは経験に基づくアドバイスなのですか?」

「さぁ?」

 クロッカスは本をスキャンしながら、理解不能です、パーソナルスペースの拡大です、と呟き、口を尖らせた。ヒナゲシは飾り付けられたトルコキキョウに口付けると、新しい花を添えましょうかね、と零し、ぼんやりと天を仰いだ。

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