仮面舞踏会は終わらない

「僕は、とんでもないことをしたのかもしれませんね」

 ヒナゲシがそう言って本を置く。ツバキは脚立から降りると、座り込んだヒナゲシを見下ろした。

「急にどうかしたのですか?」

「……いや、嫌なことを思い出しまして」

 そう言って、ヒナゲシは一冊の本を手に取る。在り来たりな日本人の名前が書かれた本だ。完結済のシールが貼られている。

 ツバキはその本を見ながら、蜂蜜色の目を曇らせるヒナゲシに穏やかな声をかけた。

「お話ししてください」

「……この男の一生を見てて、思ったことがあるんです」

 ヒナゲシがぱらぱらとページを捲る。幸せそうな笑顔、泥だらけの体育祭、素敵な奥さんと可愛らしい子どもが写り、そこから先が断絶している。自殺だ。

 笑顔塗れだった写真が導く結論にしては、あまりに急だった。されど、写真の周りに書かれた記述には補足が書き加えられている。

 ──男は、一生懸命に善人を演じた。

 ムードメーカーであり、リーダーであった彼は、人一倍に責任感が強かった。その裏で、彼は他人を信用できなかった。

 ──男は、妻との喧嘩を理由にして自殺した。

 責任感が強いゆえに、その責任に酔うがゆえに、家庭を疎かにした。彼の笑顔の裏を、妻は剥がし去ったのだ。

 ヒナゲシが小さく息を吐く。ドドメ色の溜め息。黄色くなったページに染み込んで、憂鬱のインクを香らせる。

「彼だって信じたくなかった。偽善に酔ってる自分を引きずり出されて……居場所を失ってしまった。ありのままの、笑顔の仮面の下を知られてしまった」

「ありのままでぶつかり合うのが、人間なのではなくて?」

「あぁ、僕もそう思っていたんです。僕も……そう信じて疑わなかった。だから、相手の仮面を剥いでやろうと躍起になった」

 ヒナゲシは拳を握りしめ、眉を寄せる。ツバキは赤茶けた瞳を隣のヒナゲシに向けると、笑んでいた口元を下げた。

「その先に待っているのが、黒くどろどろになった虚無だとしても……僕は、それこそその人自身だと信じていた。でも、そうすることは、相手を壊してしまうことだったんだ」

「……ヒナゲシさん」

「知りたくもなかった自分を知ってしまった。道化を演じていれば、上手くいった仲があった。僕は確かに、その黒の奔流を受け止められる自信がありましたが……彼自身には、そんな勇気が無かった」

 顔を手に当て、ヒナゲシは項垂れる。ツバキはそんな肩に手を置き、再び優しくヒナゲシの名を呼んだ。

「自分と向き合うのは……酷く、恐ろしいことです。ありのままの自分など、他人の前に差し出せるほど美しくもない。今でこそ、僕はこうして他人に晒すことを恐れませんが……僕は本当に最低で、最悪で」

「以前申し上げたとおり、私たちはそんな最低で最悪なあなたを愛しているのですよ」

「だとしても……僕の『本当』など、誇れたものではない。役職の名を被ることは苦しいが、役職でいることは、何者でもなくなることより遥かに楽だったのかもしれない。

僕も、僕も仮面を剥がしたら、生きていけなくなってしまった。あまりの自分の醜さに絶望してしまったんだ」

 ヒナゲシの目がぎゅっと細まる。憎悪と悲壮の混じった、黒々しい声色だ。唇を噛み、嫌悪に染まる。

「『ありのままを愛してあげよう』など……なんと愚かだったんだ、僕は……そこには、何も無いのに。何も無い自分を、彼らが愛せる自信などありやしなかったのに……」

「……あなたは、今、ありのままのあなたですか?」

「……いいえ。僕はこれでも、僕を演じています」

「そうですね。あなたが仰るとおり、私たちは『他人にこう見られたい』というペルソナを被って生きていますね」

 ツバキはそう言うと、シャンデリアの垂れ下がる天井を見上げた。どこからともなく香ってくるコーヒーの香りに目を細め、口角を緩ませる。

「人間は、私たちが思うよりもずっとずっと醜いと思います。それを、必死に美しく見せているのだと思います。私たち非人間は、そんな努力に感服致します。取り繕うことを、無駄な努力だと言うこともできます。

されど、人間とは嘘に塗れて生きているものです。違いますか?」

「違わない」

「誰しも『こう見られたい』というプライドがあると思います。そこを剥がしたとき……壊れてしまうんです。壊してしまったとき、その責任を取るのは、非常に難しいのでしょうね」

「事実、彼らは逃げた……」

「そう。必死で仮面を被ろうと、逃げ出すはずです。または、もう仮面を被らず、醜い顔を晒し続ける。

あなたの『無理をさせたくない』という気遣いが、獣を生み出すのです」

 ヒナゲシは固く口を結び、こくりと頷いた。閉じた本を抱きしめ、長い睫毛を揺らす。ツバキはそんな様を見ると、真っ直ぐ前を見据え、インクの海に溶けるような静かな声で続けた。

「確かに、仮面を被ることは時に人々に無理を強います。されども、その努力こそ世界に対する求愛だった。それは、あなたが一番ご存知でしょう」

「……そうですね。僕は、世界に蔓延る人間に、精一杯の道化で報いた……そして、同じような人間を増やさないために、『ありのまま』を、汚く醜い本性を晒させた。僕はそんな獣たちを、労ってきた……」

「だからこそ、今のあなたは迷宮なのでしょう? 本心を隠し通し、誰にも開かないように鍵を掛けたのでしょう? あなたは私たちに、偽りを見せ続けるのでしょう?

美しく在りたいから。美しい自分を愛したいから。私たちの期待を、自分の期待を裏切らないように」

「まったく、よくご存知なんですね」

 ヒナゲシは顔を上げると、くしゃっと顔を歪めて笑った。酷く疲れ果てたグレーの笑顔だった。

「僕の気遣いは、時に、他人の自尊心を壊してしまうのですね」

「それに気付けただけ良いことです。私は何もしていません、あなたがあなた自身でその結論に辿り着いたのですから」

「それにしては、遅すぎましたよ……」

「遅くたっていいのですよ。何度でも前を向いて立ち上がるあなたを、私たちは応援しています」

 ツバキはそう言うと、拳をぎゅっと握って見せた。頑張ってくださいね、と言い、頬を赤くする。温厚な笑顔に、ヒナゲシは思わず目を逸らした。

「ありのままを愛する、なんて、愚かしいです。そんなもの、僕はもう信じませんし、言えません。そんなの……無責任、なんですよ、きっと」

「愚かしい、ですよね。でしたら、こう言いましょうか──いつでも独りで強くある必要など、ありませんよ。いつでも頼ってください。あなたには、仲間がいるんですから……ゆっくり、信じられるようになりましょう?」

「そう言えば良かったのかな。いつでも頼ってくれ、って。真実を明かせ、ではなくて。僕は……そう言って、誰かの背中を守ってあげるべきだった。救うのではなく、寄り添ってあげるべきだった」

「これからは自殺志願者に、キキョウさんに、ダリアさんに、スミレに、クロッカスに、ヒマワリに……そして何より、シオンに寄り添ってあげてください。きっと、本音を吐かせるだけじゃ救えない。

彼らの偽りを、守ってあげてください。あなたが守るのは、彼らの仮面です」

 ヒナゲシはこくんと頷くと、膝に顔を埋めた。そんな肩に手を当てると、ツバキは小さく笑った。

「ふふ、そんなことを言う私が、それができていないんですけどね」

「……顔を上げたら、いつもの僕に戻っていますから。見なかったことにしてください。僕の仮面を、守ってください」

「えぇ、構いませんよ。顔を上げるまで、そばにいますから」

 髪の先から香る墨の匂いを感じながら、ヒナゲシは強く袖で目元を拭った。ツバキはその隣で、ヒナゲシのシガレットの香りに酔い、眠たげに目を閉じた。

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