正直であればこそ
「私は彼を愛していたの……それは本当なの……」
しくしくと泣き続ける女性を前に、隣の男性・神崎昴──いや、ダリアは眉を下げ、心底哀れむような顔で、お姉さん、分かりますよ、と答えた。
司書長たる僕・ヒナゲシは隣に座り、新人司書の働きを眺めることにした。というか、心配で仕方無いのだ。目の前で泣き続ける女性には到底分からないだろうが、隣に座る男──いや、性別は無いと言っていたか──は絶望を何より愛する変態なのだから。
「だから、彼と一緒に死のうとしたの! なのに、なのに、どうして彼は私を置いて行っちゃったの……? 私を愛していないから?」
「確か、お姉さんは心中をしようとして、彼氏さんに逃げられてしまって、一人で死んでしまったんですよね」
「そう、そうなの。どうして? 私、彼を愛していただけなのに……! どうして彼は一緒に来てくれなかったの⁉︎」
「まぁまぁ、お姉さん、落ち着いて」
ダリアは微笑み、女性の手を取った。
名も知らぬ女性の訴えは実に悲痛だった。聞いているこちらも、胸が引き裂かれそうな気分になる。愛していた人と心中を図ろうとする気持ちは、僕よりもキキョウの方が詳しいだろう。
一緒に死ぬということは、死後も結ばれるということ。魚座の神話によれば、親子が足にリボンをつけて海に潜り、魚になって逃げたのだという。事実、二人は今も空に並んで輝いている。
女性が泣き悶え、美しい顔を乱して泣くのは、本当に痛ましいものだ。恋とは人間を狂わせる大きなピースであるからだ。人間が処理しきれない大きな感情であり、バグだ。
「うぅ……だって、だってぇ、愛しているなら、一緒に死んでくれたって……」
「彼氏さんは、アンタを愛していたんですか?」
「愛していた、と思ってたの……好きだよって言ってくれたし、何回もヤったし。彼、凄く優しく抱いてくれて……あぁ、ごめんなさい、そんな下世話な話……」
「いいえ? どれくらいの仲だったんですか?」
「あの人、浮気してて……でも、謝ってくれたの! だから、私、あの人を信じていたくて」
女性はそう言ってスカートをぎゅっと握りしめた。
裏切られたのだろう、つまりは。彼はちっとも女性を愛していなかった。彼の目的は、おそらく包容力のみ。良い体に、献身的な性格。所謂セックスフレンド、という奴だろう。
身を売っていた時期もあるから、彼女の気持ちは理解できる。自分の体にしか価値が見出せないことの、いかに悲しきことか。自分の体がたった三枚の紙切れに交換されるのだ。
いつもの僕なら、お気持ちは分かりますよ、さぁ話していってください、ここに悲しい気持ちを置いていきましょう──そう声をかけただろうが、今の僕にその権限は無い。同じような台詞をなぞるのはダリアの方だ。
「そうですねぇ、でも裏切られたのでしょう? 彼はアンタを愛していなかったってことですよね?」
「う……何で私が、そんな目に……」
「そりゃ、アンタがそういう性格だからじゃないんですかァ?」
「え……」
女性が少し顔を上げる。苦悶に歪んだ顔が揺れる。ダリア、と僕は名を呼んで諌めたのだが、ダリアは普段通りの愛想の良い笑顔を浮かべたまま、残酷にも言葉を続けた。
「真実の前では、どんな愛も無力ですよ。たとえば、愛していたから殺してあげたんだー、とか、愛していたから一緒に死ぬんだー、とか、綺麗事はありますけどね。愛してないんですよ、つまりは」
「ち、違う! 私は彼を愛していたの!」
「愛していたら殺さないんじゃないですかね? それに、彼だってアンタを愛してなかったわけですよね。それって完全に無駄なんじゃないですか?」
「無駄じゃ……無駄じゃない……私はただ、彼を……」
「どうでも良かったんですよね、つまりは」
ケラケラと嗤うダリアに、胃の底が冷たくなるような感覚を覚える。氷柱を無理やり喉に突っ込まれたようだ。またくしゃくしゃに顔を歪めていく女性を見ながら、僕も思わず息を呑んだ。
完全に無駄だった。愛はそこに無かったからだ。どんな言い訳で飾っても、愛はそこには無い。愛されてはいないのだ、彼女は。
キキョウが聞いたら憤慨するだろう──ダリアは不変で、人相の良い顔をしているのだから。
「よりを戻したい、って言ったとき、アンタは彼を信じたんですよね? 一度裏切った人なのに?」
「だ、だって、私が重たいのが悪くって……!」
「いや? そーゆーのはカンケー無くて、単純に彼がアンタにキョーミ無くしたってことだろォ? ま、そりゃそうだろうね、アンタ、ただ肯定してくれる都合の良い女だし」
「ダリア、あんたねぇ……!」
「お人好しだから付け上がってきたんですよ、その男。あれあれ、僕って結構優しいこと言えるんですね?」
そう言って肩を竦める彼は、泣き出す女性を目の前にして戯けていた。
つくづく共感性に欠けた男だ、と思う。たった今、無数の嘘より、一つの真実の方が、女性には鋭く突き刺さっただろう。そして、女性だってそれが真実だと理解しているから、俯いて泣き続けているのだ。
真実では何も救えない。ただ虚しく現実を押し付けるだけだ。それが優しいのか、優しくないのか、僕には分からない。ただ、僕だったら嘘を与えていただろうと思う。
刃に貫かれ、痛みに呻く彼女を見るダリアは、心底嬉しそうだった──そう、元来此奴はこういう性分なのだ。相手を言い負かし、泣き喚かせ、絶望に暮れる顔を見るのが一番興奮する。そんな顔をした人間の首を絞め上げ、殺すとき、殺したとき、死に顔を見て、彼は絶頂感すら覚える。
今だって、きっとこの女を絞め殺したい欲を必死に抑えて笑っているのだろう。そこが彼の精神力の強さを思わせる。
「……まぁ、ですから? アンタが悪いし、アンタは悪くないですよ。そんなに泣かなくたっていいんじゃないですかね?」
「分かってたの……分かってた……私なんてただの当て馬なんだって……分かってはいたの……」
「必死に信じてたんですねぇ。健気でいいと思いますよ、僕はね。そういう人間ほど、捨てても面倒にならないし」
「私、そういう人だったんですね。私……そんな人のために、死のうとしてたんだ……」
「そうそう。死ぬ前に分かって良かったじゃないですか。うんうん」
そう言って、ダリアは傍に置いていた本を手に取る。その本に、自殺志願者の忘却したことを記名するのが、我々司書の役目だ。そこに書かれるのは、大抵は壮絶な過去であるし、悲劇だ。だが、あくまで主観であるから、喜劇のように描かれることもある。それがさらに悲しさを増すのだ。
女性はびしょびしょの腕で目を拭い、顔を上げた。ダリアはにこりと笑い返す。
「ってことで、アンタにはチャンスがあります。嫌なこと忘れて、現世に戻るってこと。五体満足かは保証できないけど、意識はあるから大丈夫ですよ」
「そ、そんな……私が、いいんですか?」
「良いに決まってますよ。逆に、何で悪いんです? クソ男と出会っちゃって人生終わっちゃいましたー、なんてクソつまんなくないですか?」
司書たちは自殺志願者たちに「チャンス」を与える。差し伸べられた手を取るかどうかは、本人たちが決めることだ。必要無い記憶をここに置いていって、新しい人生を生きる。なんとも優しい制度だ。
The library of Anemone。見捨てられたものの集まる図書館。だからこそ、忘れる権利を与えるのだ。悲しみを、苦しみを、忘れ去って、もう一度やり直す機会を与えるのだ。
ダリアは、ね、と言って首を傾げた。嗚呼、狐の笑みだ。狡賢く、甘い笑顔だ。「背信」的なその狂笑は、僅かに花の香りがする。この仕事をきっと誰よりも楽しんでいるのだ、彼は。
「……分かりました。私……彼との思い出を、忘れたいです」
「それでもう一回都合の良い女になるわけですか?」
「違います。彼と過ごした楽しかった日々を、忘れます」
前髪の隙間から見える女性の目は、ぎらぎらと光り燃えていた。ダリアの口角がすっと上がる。
「承認しましょう。アンタの『幸福』、確かに頂戴いたしました」
膝の上に置かれた本に、彼女の名前が書き込まれる。女性は一言二言言うと、ありがとう、と呟き、光の泡になって消えていった。
ダリアが大きく息を吐く。口角を下げ、真顔に戻った後、再び微笑み、僕の方を見た。善人を絵に描いたような整った笑顔だ。
「はい、お仕事おしまーい。もう一人でもやれるでしょう?」
「僕はひやっとしましたよ。何でああいうこと言うんですか?」
「そりゃ、まぁ、あの女を絶望させたかったからですね」
「性格悪いですよ。まぁ、最後の誘導は良かったですけど」
「あは、やっぱそう思います? 僕って天才なんですよねぇ」
頬杖をつき、甘えるような猫撫で声でそう答えた。ダリアの金がかった茶の髪が揺れ、三白眼が細まる。
「あの人、これから復讐鬼になりますよ」
「……え?」
「楽しかった全てのことを忘れて、絶望して現世に帰っていったんですよ? あの男のこと、どうするか分かりませんよねェ?」
「え、あんた、」
「あは、これだからたまんねぇよなァ、情に狂った人間って」
頬が赤くなり、目が妖しく潤む。喉が鳴って、口角が歪む。硬直した指が、快感を示している。
「愛と憎悪さえありゃ、自己正当化して、人間だって殺せるんだもんなァ、人間という化け物はさァ……」
嗚呼、駄目だ、頭が完全にイっている。今、彼は精神的快楽の絶頂にいるのだろう。自分の快楽のために、他人を不信感で狂わせる男なのだ、此奴は。此奴の目からすれば、全てのものは自分の欲望を満たす駒に過ぎず、それらに価値など無い。
サイコパシーとは、そういうものだ。
「……ほんと、あんたらしいですね」
「そこでちゃんと叱ってくれないと、警察官失格ですよォ?」
「警察はもう辞めたので。それと、それはあんたにも言えることですよ」
「人の死体が見たいから警察官になっただけなんだけどなァ……」
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