文字数に意味など無い
言葉とは、実に無力だと思う。
それは決して、僕の後輩が、センパイを殺すために自殺しました、と言ったからではない。そういうことではない。
「テメェ……ッ! 殺す!」
勿論、そんな後輩にこう返した後輩を見たからでもない。
「初めまして、ですよね? だって僕、どうやらアンタらを殺してここに来たみたいだし。僕、ダリアっていいます。元神崎昴です」
「はい、初めまして。別世界からの来訪者ですか、遂に殺りましたか」
「どの面下げて来てんだ、あぁ⁉︎」
「センパイ、冗談きついっすよ。隣にヤクザを連れてくるなら言ってくれれば良かったのに」
修羅場である。僕以外の誰もオブラートに包もうという気が無い。
別にこんな状況に鉢合わせたから、言葉の不自由さに苦しんでいるわけではない。むしろ昴──否、九輪目の司書、ダリアは言葉を使いこなすのが上手いくらいだ。キキョウだって、カウンセラーをやっていたくらいだから、真面目に話せば衝突を避けた言葉遣いなど簡単だろう。
彼らはこれでも、言葉を尽くしている方なのだ。僕も僕で、言葉には自信があった。されど、僕を憂鬱にしているのは、先程出会った自殺志願者だった。
──話してくれないか、君は何を忘却したいのかな。
シオンは困った顔でそう尋ねた。向かいのソファに座る小さな子どもは黙りこくっていた。
子どもの頬には、赤く腫れた痕があった。見るからによれよれになったTシャツの袖で顔を拭っては、へらへらと笑い、死んだ目でシオンを見つめる。シオンの飄々とした笑顔が、次第に曇っていくのが分かった。
そこに現れたのが、キキョウだった。
──今から質問してもいいかな。
キキョウは彼に、イエスノークエスチョンだけを与えた。彼は首を振ったり、首を傾げたり、こくこくと頷いたり、そうしてカウンセリングは進んでいった。
宿題が終わらなくて、母親に怒られた。学校では貧しさと知恵遅れを馬鹿にされた。夏休みの最後の日、死ぬしか無いと思って飛び降りた。
大人からすれば、その程度のことで、と軽く流せるだろう。虐められる側にも原因がある。言い返せば良い。宿題なんざしなくたって生きていける。
だが、彼は本人が自覚するように、いわば「知恵遅れ」だったのだ。言い返す言葉を使いこなすことができなかった。他の選択肢を塞がれてしまった。だから、笑うしかできなかった。
それを知恵遅れとは呼ばない、とはキキョウの言葉だ。発達障害かもしれない。自閉症かもしれない。それは脳の障害であり、精神論ではどうしようもないのだ。
「センパイ、聞いてます?」
「え、はい、聞いてないです」
「駄目だこりゃ。先輩、此奴と一緒に行動すんのはやめろ」
「何でですか。良い後輩ですよ」
「此奴、あんたを寝取ることしか考えてねぇから」
「僕はセンパイの体にしか興味無いので」
まだ会話は平行線らしい。地味にテンションが合っていないのが面白い。
だが、僕は困惑を示しつつ笑って返すことしかできなかった。昔ならば頭を捻って良い答えを出していただろうに、少々疲れてしまったのだ。
すると、ダリアは真顔に戻り、センパイ、と少し低い声をかけてきた。
「アンタ、変わりましたね」
「何がです?」
「寡黙になった」
「あー、分かるかもしれねぇな。先輩、昔より話さなくなった」
「そうでしょうか」
自覚はしていなかったが、確かに僕はかなり受け身になった。口数が減った気がするのだ。
人でいることを捨ててから、僕は無理をすることをやめた。頭を回し、必死に相手を言いくるめようとするのをやめたのだ。すると、僕は自分の感情を伝える手段を失ってしまった。
知恵遅れだと自分を傷つけた少年は、結局家族にも学校にも居場所を見出せず、死んだ。シオンからの提案を蹴った。
──もう一度やり直したいと思う?
キキョウの優しい声に、彼は首を傾げた。
──全部を忘れても同じだと思う?
彼はこくりと頷いた。
アネモネ図書館は、全ての自殺志願者を救えるわけではない。活動拠点は日本であり、しかも自殺する人々のほんの僅か、運の良い人しか救えない。その中でも、このように忘却などでは救えない人間もいるのだ。
そのとき、僕は言葉の不自由さに歯痒くなる。彼がもっと言葉を上手く使えたならば、もっと自己表現が上手かったならば、とたらればの話に憂鬱になってしまう。
「信頼しているから、話さなくても分かる、と思ってしまってるんでしょうね」
「人間には信用する価値なんて無い、って、アンタの世界の僕も言ってませんでした?」
「言ってましたけど、ここには人間はいませんよ」
話さなくても分かる、などという傲慢な空想が、僕を寡黙にする。事実、僕は人に自己開示をしないのが欠点でもあるのだ。その努力を止めてしまったからこそ、寡黙になっているのかもしれない。
その分、ダリアとキキョウは自己開示に長けていると思う。ダリアは根っからのサイコパスなので、自分の意思を通そうとするし、キキョウはキキョウで正直者なので、自分の思ったことはすぐ口から出す。
僕は、自分の感情を抑圧することしか考えていなかった。自分の感情があるから、他者に迷惑をかけるのだと思っていた。だから、次第に自己開示を避けるようになったのだ。
などと思いながら、図書館の外、花の咲き乱れる庭にて、三人で煙草をふかしていると、まるで現実世界にいるような気分になる。されど、僕らは人でなしであり、ここは異世界なのだ。
「でもよ、先輩は結局のところ、他者不信が残ってると俺は思う」
「おや、そうですか?」
「言わなくても分かる、じゃなくて、言ったところで分かるわけ無い、ってのが先輩の思考パターンだと思う」
「よく知ってますね」
言葉とは実に無力だ。
僕がいくら頭を回したところで、他人が自分を好いてくれるわけではないのは、よく覚えている。自分が言葉を上手く操れないのを、他者が言葉を上手く産出できないのを眺めては、その無力さに絶望する。
必死に論理立てても、必死にレトリックを凝らしても、誰かの心一つ動かせやしない。自己開示をできなければ、他者の言葉の渦に呑み込まれて殺されるだけだ。
このように考えるのを、僕は何一つ口に出さない。カウンセリングの時間を取ってもらって、じっくりとキキョウと話せば、このようなことはすらすらと口から出るのだが。
「僕は、キキョウとダリアは言いたいことをはっきりと言えるタイプだと思いますよ」
「んなもん、あんただから言えてんだよ」
「僕も同感です。アンタの前だから言いたいこと言ってるんですよ」
「そう、なんですかね……?」
「俺にははっきり言ってくれていいんだぜ、先輩」
はっきり言うも何も、言葉にする境界線が彼らとは違うのだ。何を思っていようとどうだっていいだろう、というのが僕の主張だ。そして、それを口に出しはしない。
「ありがとうございます」
これが僕の口から出た言葉。ここが僕が思った言葉。
言葉少なな自殺志願者を見るたび、僕は無力感に苛まれる。まるで僕を見ているかのようだ。僕はキキョウやシオンというカウンセラーに誘導されれば何かを話すことはできるが、僕にはその誘導の仕方も分からない。
僕の言葉では、彼らを救えない。
ならば、なぜダリアは、キキョウは、僕に本音を吐いてくれるのだろうか。
「あんたらは……どうして、僕がいいんですか?」
「先輩、言葉が足らない」
「その、どうして僕相手には本音で話せるんですか?」
「分かってんだろ。あんたは黙って俺の話を聞いてくれるからな」
「そうですよ。センパイ、僕が何言っても聞いてくれるでしょ?」
「聞きはしますけど、同意はしませんよ」
「それでいいんだって。話を聞いてくれるんだな、って思うだけで、俺は救われてるんだから」
そう言ってキキョウは頬を掻く。
言われてみれば、僕を殺したいとまで言う後輩の話も、僕は黙って聞いていられる。キキョウにだって、何度も嫉妬されて、何度も心中を持ちかけられて、僕はそれを聞いて宥めてきたのだ。
僕はおそらく、言葉を尽くすよりも、聞いている方が得意なのだ。知恵遅れと馬鹿にされた彼も、不器用だと言われる人々も皆、聞いている側に回る方が得意なだけなのかもしれない──否、聞いている側に回ることしか、できなかったのかもしれない。
「だいたいさ、セラピストに大切なのは傾聴なんだよ。黙って相手の話に耳を傾ける。でも、黙ってるだけじゃなくて、おうむ返ししたり、具体化したり、説明を要求したりして、クライエントの反応を引き出すのが大切なんだ」
「あー、専門用語はよく分かりませんけど、センパイそういうの得意ですもんね」
「そう! だから、先輩は他人を救える人間なんだよ」
誇らしげに笑うキキョウ、頬杖をついて適当に答えるダリア。二人は僕の庇護対象だ。だから、何を言っても愛らしい。それを言うつもりは無いのだけど。二人と話しているときは、聞き役に徹している方が心地良い。
話さなくても良い、という信頼なのか、話したところで分からない、という不信なのかは、未だに分からない。だが、キキョウの言葉を信じるなら、僕は他者を救うことができる生き物なのかもしれない。
お前に救われる人間の方が不思議だよ、と、何度でも言われた言葉をフラッシュバックした。お前は言葉を使うのが本当に上手なんだな、と言われた言葉を、何度でも自分に突き刺した。
どうして、傷ついたのに、何も言い返せなかったのだろう。その答えは単純明快。
下手なんだ、言葉による自己開示が。
聴く側に回った僕が、こうして他者を救っているのは、自分の不器用さゆえか、不信感ゆえか──僕にももう、分からない。
「そんな誇らしい人間ではありませんよ、僕は」
幾つ言葉を覚えても、幾つレトリックを凝らしても。僕の心を語る正しい言葉など見つからない。だから、沈黙を選ぶ。沈黙は金、雄弁は銀。かつては銀の方が価値が高かった。しかしながら、畢竟、言葉は無力なのだ。
煙草を灰皿に押し付け、また話し始めた二人の会話に、僕は黙って傾聴を続けた。
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