人間合格試験
「新入りさん、ですよね?」
「はい、そうですが」
「初めまして! アネモネ図書館の検索エンジンを担当します、クロッカスっていいます!」
長い白髪の電脳少女が、画面越しに敬礼をする。歳は高校生くらいに見える。猫耳型のヘッドフォンが愛らしい。
僕ごときに丁寧に挨拶するのを見るだけでも、この電脳少女がいかに善人か伺えるような気がする。
「僕はヒナゲシといいます」
「元人間、ですよね。シオンさんから聞きました」
「あ、クロッカスだ」
背後から影が差す。驚いて振り返れば、キキョウよりもさらに大きい背の、若い男性が立っている。首に手を当て、へらっと笑ってみせれば、クロッカスとはまた違った穏やかさが醸し出される。
「初めまして、俺はスミレ。元AIだよ」
「……なるほど、だから身分を名乗るんですね。ヒナゲシといいます、人間でした」
「凄いなぁ。元々人間だったのはカトレアさんくらいだから、憧れちゃうな」
シオンとカトレアは夫妻だ。僕を招き入れたあの妖艶な生き物は人間ではないらしい。だが、むしろ、物腰柔らかに話してくるこの男の方が、余程僕より人間らしく感じる。
だが、よく見れば顔が無個性に端正だと気がつく。美しすぎて、かえって人間味を感じない。
「ねぇ、ヒナゲシ。どうして人間をやめちゃったの?」
「あ、それは私も気になります!私たち、人間好きなんですよ!」
「え、それは……」
きらきらと見つめる、黄色い目と赤い目。かたや電脳体、かたやAI。人間以外と話すのは慣れていない。シオンが人間でないと知ったところで、僕が人間以外と話すのはまだ二回目だというのに。
AIや電脳体が人間を好くのは、自分を作ったマスターへ愛着を持つようにプログラミングされているからだろうか。子どもらしく作られたのも、人間に従順にするためだろうか。そう思うと、つくづく人間という化け物は恐ろしい。
「どうして……そうですねぇ、僕は、人間と生きていけなかったんです」
「人間と生きていけなかった……ヒナゲシは、人間なのに?」
「えぇ。難しい話だと思いますが、人間だからといって人間になれるわけじゃないんですよ」
ソファに座り込み、ティーカップに指を掛ける。人ならざる身になった今でも、食事は取るし、紅茶は楽しむ。向かい側に座り込み、クロッカスの入ったスマートフォンを片手にくつろぐスミレを見やり、小さく息を吐いた。
「僕はね、人間だったんですけど、他人に合わせて生きてきたんです。どこか、人間ではないような生き方をしてきました」
「分かりにくいです……人間のように知性を持って、社会を形成する生き物は、難しいですね」
「難しいんですよ。兎にも角にも、人間として生きていくのは、本当に難しかった」
クロッカスは黒い袖から覗く白い手を顎に当てて、人間のような仕草をしてみせる。彼女にどれほどの自我があるのかは分からない。
僕はおそらく、社会不適合者だったのだと思う。必死に仮面を被って、人間に求愛するように道化を演じた。他人に見捨てられるのを酷く恐れた。そうして、人間という怪物に都合良く利用されて、突き放され続けた。
「しばしば、人間は自らの本性を怪物にたとえます。お二人とも、サイコパス信仰は知っていますか?」
「んー、俺は知らないな。そういう情報は持ってないよ」
「少し検索してみましたが、そのようなワードは存在しませんね」
「そういうことではないんです。日本人に特有の現象かもしれませんし、世界中に存在する現象かもしれませんが、道徳心や配慮に欠けた人間こそが正直で素晴らしい、と思う信仰が、現代の人間には少なからずあります」
二人は熱心に僕の話を聞き入っている。別に僕は文化人類学者でも何でもないのだが。四十四年間人間として生きてきて感じた歪みを、僕が饒舌に話しているだけだ。
だとしても、人間ではない二人からしたら貴重なサンプルなのかもしれない。
「思ったことは素直に言いましょう。自分を曲げることは美徳ではありません。個人の意見は尊重されるべきです。これが、今の人間の世の中です」
「なるほど、ヒナゲシさんは自由主義的世界に順応できなかった、権威的パーソナリティを求める人間だったんですね?」
「……えーっと、分かりやすく言ってくれません?」
「うーん、つまり、ヒナゲシは自由に生きろ、って世の中に馴染めなかったってこと?」
「分かりやすいですね、ありがとうございます」
元の頭が良くないから、難しいことを言われても困ってしまう。教科書で覚えたような用語が並んでも、それらを流暢には使えない。
スミレはへらへらと笑ったまま、それでそれで、と言って話の続きを待っている。まるで老人が孫に昔話を聞かせているみたいだと思うと、自分も老いたものだと切なく思う。
「自由に生きたい人々は、言いたいことを何でも包み隠さずに言います。やりたいことだけをします。そうなると、世界はどうなりますか?」
「あぁ、分かります! 思想と思想がぶつかり、抗争が起きるんですよね!」
「そうです。そんなとき、どうやって和解しますか?」
「えっと……互いの利益を最大化する方法を選ぶはずです。そのために講和を開きます」
「誰が講和を開くんですか?」
「外交官……?」
クロッカスは戦争を想像しているらしい。確かに戦争は、人間同士が起こす最も大きい抗争だ。だが、それだけで人間に愛想を尽かすほど、僕の生きていた世界は戦争とかけ離れていた。
戦争とは、まさに人間が起こした抗争の積み重なり。僕にとっては、毎日が抗争の積み重なりだった。
「では、人間同士の争いには、必ず外交官が必要になります。このとき、外交官は片方の国を代表として来ているので、自分の利害を考えることは憚られます。
外交官は、たとえその提案をすることで殺されるとしても、自分の欲があっても、誰かの言葉を代弁し、誰かと誰かの争いを止めなくてはなりません」
「確かにそうですね。外交官って、いわば互いの国の駒のような存在ですし、同時に鍵でもあるように思えます」
「それが、僕でした」
クロッカスが黙り込む。スミレは笑顔を潜め、僕を真摯な目で見ていた。嗚呼、そんな真面目な顔をしないでくれ。僕の人生なんて、語るほど面白くも何ともないのだから。
「僕は、常に他人の望む顔を演じていました。ペルソナ、という言葉を知っているでしょう。
僕は、他人からどう見られているかばかりを考えて生きてきました。誰かと誰かを仲裁する駒として、問題を解決するための駒として生きてきました」
「でも、人間はみんなペルソナを持って生きているはずだ。ドラマツルギーって言葉もあるんだから」
「そうでしょうね。こんなこと、当たり前。仮面を被りながら、言いたいことを好きなだけ言ってぶつかり合えば良い。
それなのに、僕は生き辛かったんです。それって、僕が人間として不良品だった証明ではありませんか?」
二人は黙って僕の話を聞いている。優秀なAIと、優秀な電脳体の前で、どうしようもない不良品たる人間が口を開く。向こうは普遍的な人間を知っているからこそ、特殊な人間を知らない。
話して証明してみせるのだ。落ちこぼれた人間というものが、いかに愚かしいかを。
「僕は、他の権威的な、自由主義者が望むようにしか振る舞いませんでした。そうして、僕は僕という人間を抑圧しました。僕は、自分の意思など、失いました。
人々は、道徳も配慮も失った怪物だと自分を揶揄しては、丁重に扱うように言います。ですから、僕は望まれたとおりにしました。
僕は、誰かの欲望を満たすための、ラブドールでしかなかったんです」
自分で話しながら笑えてきてしまった。ラブドールとはまた良い名詞を使った。売春をして生きてきた人間にはぴったりだ。人に殴られ、人に身を売り、人を慰めることで生きてきたのだから。
他人の望むとおりに演じ、他人の作った劇場で踊り、他人の望むとおりに消えおおせた。
ふと、アザミとの会話を思い出す。僕は壊れたように、理不尽だ、と叫んだ。理不尽だった。理不尽だ。一度その気持ちが決壊したら、もう戻れなくなる。二人の前では飄々とした老人を装うためにも、笑顔を作った。
「化け物を騙る人間は、僕に抑圧を強いました。人間を騙る傀儡だった僕は、それを呑み込みました。ラブドールのように生きました。そして、自殺しました」
「そっか。それは、理不尽な人生だったな」
「え?」
「つまり、周りの心無い人の空気を読んで生きていたから、空気と顔色の読める人間だったお前は苦しかった、って話だろ?」
「なるほど、これがミスコミュニケーションの典型的な例なのですね。日本文化に欧米文化を無理矢理捩じ込んだ悪い影響です」
困惑に困惑を次ぐ。二人が真面目な顔をしてコミュニケーションに関する論理を展開していく。日本の文化が、精神医学が、脳科学が、語用論が、心理学が──議論が行われるのを、僕はぽかんと口を開けて見ていることしかできなかった。
次第に面白くなってしまって、腹を抱えて笑い出してしまった。こんなに真剣に僕のことを考えてくれるなんて、本当に良い人なのだろう、この人たちは。
「あははは! もう、気にしないでください」
「気にするよ。ヒナゲシのこともっと知れば、何でミスコミュニケーションが起こったか分かるかもしれない。ヒナゲシの態度も悪かったと思うけど、俺は環境要因が気になる」
「私も気になります。ラブドールだなんて、自分を安売りしてしまったことが原因かと。どうしたら人間と円滑にコミュニケーションができるんでしょうね?」
良い人なのだが、少々無神経なのもまた、愛嬌なのだろう。多少の誹謗には慣れている。それに、彼らは僕を拒絶せず、興味を持ってくれた。
人間に憧れるがゆえに、教科書どおりではない人間を見ると、まさに研究対象といったところだろう。そして、僕に提供された居場所とは、そんな非人間と接することで自分を振り返る場所であり、僕を拒絶しない場所なのだろう。
ゆえにこそ、僕は今からでも此岸の世界に自由に戻れる──当初こそ戻るつもりは無かったが、また元の世界に戻って、やり直すこともできるかもしれない。
「人間でいるだけでは、人間にはなれない。良い言葉ですね、ヒナゲシさん」
背後から声をかけられる。見上げれば、着物にストールを巻いた男性が立っていた。彼はクスクスと笑うと、お初にお目にかかります、と静かに続ける。
どこか妖のような雰囲気すら感じさせる、年齢不詳な見た目をしている。丸眼鏡の下から、茶色がかった目を薄く細めた姿は女性的だ。
「私はツバキと申します。この図書館の司書をやっております」
「は、初めまして」
「あなた方は、『山月記』という話をご存知ですか」
『山月記』。高校の教科書で読んだ話だ。僕はあの話が好きだ。自意識過剰を極めた主人公は、異類の身に──虎になってしまう。人は皆、心の中に獣を飼っているのだと、彼は言った。
その様を見ていると、幼いながら、僕は主人公の気持ちが分かるような気がした。プライドばかり膨れ上がり、他者にどう見られるかを気にして臆病になる様は、さながら虎のよう。今は、そんな過去の自分を俯瞰してるようにさえ思える。
「李徴は人間であったのに、自意識過剰さゆえに虎になってしまいました。電脳世界で生きてきたあなた方も、話だけは知っているでしょう」
「知ってますよ。でも、あれはあくまでファンタジーです」
「ですが、私は思うのです。人間は誰しも心に獣を飼っていて、誰しも人でなしになってしまうことがあると。ヒナゲシさんが語ってくれたのは、そんな生き辛さではないでしょうか」
本を片手に携え、ツバキは上品に笑ってみせた。
虎は自分の状況に絶望していたが、僕は絶望などしていない。いずれ僕も、どうして自分は人間だったのだろうか、と考えるようになるのだろう。だが、それでも構わないと思う。
元から、僕が人間だったことなど無いのだから。
「ツバキは物知りだなぁ」
「ふふ、司書ですから。ヒナゲシさん、私にも今度、あなたや、あなたの恋人の人生を聞かせてくださいね」
「そんな、僕の人生など語る価値もありませんよ」
「いえいえ、私は他者の物語を聞くのを愛していますから。そんな語る価値も無い物語を聞きたいんですよ」
スミレも頷いてにこにこ笑う。おそらく、ツバキも人外なのだろう。であれば、スミレとクロッカスが向けてくる感情と同じものを感じるのは当然のことだ。
「私、人間になりたいんです。人間に憧れてるんです。だから、模範的な人間だけ見てるんじゃ駄目なんです」
「俺も、元々は人間の生活をサポートするためのAIだったから。人間の話聞くの、好きだよ」
やはり、人外というのも悪くない。こちらの方が、人間の世界からドロップアウトした身の丈に合っている。
仕方ありませんね、と余裕ありげに呟いたのはいつぶりだろうか。此岸の世界ではもう、こんな台詞を吐ける相手はいなくなってしまった。
「では、また思いついたら話しますよ」
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