再び幕は上がる
「ようこそ、自殺志願者の諸君」
赤目の男性が僕を見てにこりと微笑んだ。隣にいた神城誠が、先輩、と焦った様子で僕の手を取って、ようやく我にかえる。
そうだ、自分は、睡眠薬を飲んで自殺を図ったのだった。
見渡す限り広がるのは、無数の本棚。黄色の照明が、それらに影を落としている。ベルベットのソファに腰掛け、目の前で足を組んで座っている男性からは、微かにシガレットとコーヒーの香りがした。
自分の胸に手を当てる。穏やかに、安らかに、鼓動は続いている。自分はまだ生きている。頬を抓る。鈍く痛む。自分は覚醒している。
──まだ、終わらないよ。
少女の声が、脳に染み付いている。彼女は自らを、アザミと名乗った。僕の鏡写しとも名乗った。そんな彼女が招いた先が、ここだとしたら。
静粛に、と目の前の男性が口を出す。誠は僕の方を心配そうに見た後、睨むようにして男性と向き合った。
「君たちにチャンスを与えよう。僕らと取引をするんだ。
君たちが自殺しようと思ったきっかけとなる記憶を『忘却』し、僕らに提供する。その代わり、君たちは再び生きる権利が得られる」
「何だよ、それ……忘れてしまえば生きられるとでも?」
「無論。忘却は些細なことから、自分自身の全てにまで至れる。今までここに来た人の中には、一切の記憶を捨て、別人として生きていく道を選んだ人間もいた」
「そんなうまい話があるかよ!?」
誠が一歩前に出て、机を叩きつける。ティーカップが揺れて、高い音が鳴った。
僕の後輩である神城誠は、僕と同じくらい他者に対して疑り深い。そして、僕を愛している──それはもう、過保護なくらいに。きっと彼は今、こう思っているに違いない──先輩の身に何かあったらどうするつもりか、と。
そんなことをしなくても、僕の答えは決まっている。
「だいたい、死んだ後遺症は残るとか、死んだ魂が云々とか、」
「結構です」
「え、先輩?」
「結構です。僕に帰る居場所は無いので」
アザミに貰ったチャンスだったが、よく思えば、たとえ何を忘れたところで、僕に居場所など無い。辛かった記憶を忘却したところで、「神崎慧」はあまりにも罪を重ね過ぎた、その自意識過剰さゆえに。
あまりにも、溜め込み過ぎたのだ。言葉を飲み込み、他人に追従し、他者からの評価で踊らされた人形に、もう生きる気力は無い。自分では立ち上がれないのだ。
誠の濡烏色の目が僕を捉えて揺れる。彼は僕と心中を選んだから、きっと僕と同じ決断をするだろう。
もう一度生きる場所など、もう無い。
「では、居場所を提供すれば良いのか?」
え、と僕と誠の声が重なる。男性は変わらぬ笑みを浮かべていた。爽やかだが、どこか妖艶だ。よく見れば、端正で完璧な顔立ちをしている。不自然なくらい整っていて、悍ましささえ感じる。
手を組む彼は、僕と目が合うと、その赤い目を細めた。彼のその艶やかさに、ふと、記憶にある別人が重なる。背筋を撫でる、危険な魅力の持ち主だ。チューベローズの微笑。
「居場所を、って……」
「だが、その場合は一つ代償となるものがある。君たちは決して人間には戻れない。
人間の形をした、人間でないもの。たとえば、僕のように」
人間の形をした人間でないもの、とは、泡沫の夢で見たアザミと同じようなものだろうか。彼女は自分を魔女と名乗っていた。
そもそも、僕は人間ですらなかった。人形として生きてきた。化け物ごっこをする人間に虐げられ、本当に化け物たる自分は、ただただ謝罪を続ける傀儡に成り下がった。
それなら、何も変わらないじゃないか。
「僕は元々化け物なんです。だからそんなこと、どうでもいい」
「ほう、僕のスカウトを受けてくれるのか?」
「スカウト……え、スカウト?」
「僕の友人になってほしい。それがスカウト内容だ」
誠の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。勿論、僕も絶句している。
「あの、僕を友人にしようとか、センス無いんじゃないですか……」
男性が目を丸くする。まじまじと僕を見つめた後、小さく吹き出した。腹を抱えて笑い果てると、まぁまぁ、座りたまえ、と優しい声で向かいのソファを指す。
誠は怪訝そうな目で男性を見やるも、僕がソファに座れば、その隣にぴったりとくっついて座った。男性が目元をきゅっと細くする。
「初めまして。僕はシオン、ここ、アネモネ図書館の館長代理だ。
ここはいわば、此岸と彼岸の間にある異世界、といったところでね。こうやって自殺志願者たちに、記憶と引き換えに新たな人生を生きるチャンスを与えている。
僕の友人になってほしいというのは、この図書館で司書として働いてほしいということだ」
「……彼岸と此岸の間だから、人間ではない、でも、幽霊じゃねぇ、ってことか?」
「物分りが良い人間は好きだ。僕らと同じ存在になること、その代わりにここという居場所を提供する。まぁ、ボランティアではあるが……」
アザミが生きているのも、この世とあの世の境目なのだろうか。そうであれば、今までの幻想的な光景にも説明がつく。僕が見てきた夢も、全て全て、人知を超えていたということだ。
そう思うと、今この状況に呆れて笑いさえ出てくる。
嗚呼、これがもう一度生きるチャンスとは。これが再演だとは。ましてやファンタジー世界だ。そもそも、魔女に命を救われたというのが非現実的だったのだ。
再び頬を抓る。痛い。心臓は止まらない。やり場も行き場もない、この無駄に動き続ける心臓をどうしてくれようか。それならいっそ、長い走馬灯を見るというのも悪くない。
「……何でもいいですよ、もう」
「先輩?」
「死ぬ前の戯れでしょう、所詮。いいじゃないですか、どうせ死ぬんですから」
シオンは一瞬だけ笑みを潜め、ぎろりと僕を見た。だが、すぐに笑顔に戻る──それはもう、最高に美しく、最高に爽やかな笑顔だ。
「では、決まりだ。現より素晴らしい時間を君に差し出そう、神崎慧。そちらの君は?」
「……先輩が、そうするなら。俺は、先輩と共にあるって決めたから」
そう言って、誠は僕の手に自分の手を重ねた。
彼は、心中のその瞬間、僕に告白した。彼の気持ちにはずっとずっと前から気がついていた。
──先輩、一生俺のそばにいてくれないか。
妹を失い、僕に縋り付いた昔から、彼だけは僕の隣にいた。彼だけは、僕を見捨てなかった。あの世で結ばれれば良いと思っていたけれど、結局はこの世で結ばれてしまうのだ、愉快な話だ。
「では、神崎慧、神城誠。君たちを、新たな司書として歓迎しよう。そして、君たちから代償として記憶を頂こうか」
代償となる記憶を選ぶなら、僕が忘れたいのは。
誠は僕の手を強く握り、俯いて答えた。
「俺は、先輩を傷つけた他者への憎悪を忘れたい。逆恨みを忘れて、もう逆恨みなんてしない人間になりたい」
「……僕は、僕を傷つけた他者を忘れたい。きっと、染み付いた他者不信は、そう簡単に治らないけれど。僕は、変わりたいんだ」
「よろしい。では、目を瞑って」
手の先から、誠の体温が伝わってくる。目を瞑れば、懐かしき花の香りが漂ってくる。良い香りだ。僕が愛し、人々が踏みにじった、美しい花。
しばらくして、体が軽くなったような感覚がした。魂の二十一グラムが消えてしまったのかもしれないと思ったが、誠の心音は止まっていなかった。
目を開ければ、シオンが二冊の本を膝の上に乗せて笑っていた。
「館長、シオンが、君たちの記憶を頂戴致しました。
君たちに司書としての新たな名前を授けよう」
シオンはまず、僕を指した。
「君の名は『ヒナゲシ』」
花言葉は「忘却」。
次に、誠を指した。
「君の名は『キキョウ』」
花言葉は「永遠の愛」。
誠は、否、キキョウは耳を赤くし、自分の名を復唱した。
シオンにも本来の名前があるということだろう。だが、その名前は「忘却」したということになるだろうか。
「七輪目と八輪目のお出ましだ」
「……七と八? もしかして、全員をスカウトしているわけじゃねぇのか?」
「当たり前だろう。君たちが特別なだけだ」
七輪目たるヒナゲシと、八輪目たるキキョウ。おそらくシオンは一輪目なのだろう。
ヒナゲシは好きな花の一つだ。安らぎを与える、儚くて健気な一輪の橙。ようやく僕も、美しい花になれた。
キキョウが僕のことを見つめる。手を取り、真っ赤な顔で、少し声を張って、こう言った。
「先輩、これからも、よろしくお願いします……俺と、付き合ってください……!」
ここでまた告白されることになるとは。シオンも何が面白いのか、喉を鳴らして笑っている。まぁ、愉快ではあるが。
その手を握ったまま、僕はシオンをちらりと見た後、キキョウに笑い返した。
「えぇ、こんな僕で良ければ。僕の再演に、付き合ってください」
遠くで開演ブザーが鳴ったのを、脳の隅で聞いていた。
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