The Library of Anemone

神崎閼果利

第一章:開演ブザーは鳴り止まない

開演ブザーは鳴り止まない

 黒い闇の中で、蹲っている。ここは、上も下も無く、先も無い、羊水の中のように仄かに温かい場所だ。意識はあるのに、体は動かせない。ずっとそうしてぽっかりと浮いている。

 何をしていたのか、ぼんやりと思い出す。解けた糸を紡ぎ直すようにして、記憶を辿る。最期の瞬間、僕は嗤っていた。目の下にくっきりと隈を作り、死人のような顔をしながら。

 では、なぜ自分は死んだのだろうか。思い出そうにも、酷く胸が苦しくなって、思い出せなくなる。

 それは自分のせいだ。

 それは全て自分のせいだ。

 僕が悪い。

 僕が悪かった。

 今はそうして謝ることしかできない。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい──どうして謝るの、と相手は言う。もう謝罪なんて要らないよ。謝られるようなことなんてしてないから。

 僕は一縷の期待を込めて顔を上げる。その人は微笑んで言う。

 ゆるしてあげないから。もうおしまいだよ。

 一瞬で目が熱くなる、魔法の言葉。その一言だけで、僕の頭が白に塗り潰される。わぁ、と泣いて、相手の足に縋り付く。地を舐め首を垂れる。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 相手は言う。みっともないよ。やめてよ。僕を足蹴りにする。

 傍観する人々は相手を指差して言う。嗚呼、彼奴が悪いよ。あの人は可哀想。何の罪も無いのに。嗚呼、いい子、いい子。怖かったね。

 雪の降るコンクリートに倒れ、切れた口の中を舐めて、ただ死体のようにぼーっとしている。そのうち救急車が来て、僕を手当てして、毛布をかけてくれるのだ。次第に傷は癒えていくのだ。

 友達に恵まれて、恋人に恵まれて、当たり前のように僕は幸せになる。

 誰もが彼を揶揄し、排斥してくれる。

 ようやく雪が溶けて、友達と手を繋いで、春の麗かな桜並木を歩く。

 楽しく酒を飲み交わし、夜まで遊び倒す。

 そうして帰ってくる。

 嗚呼、楽しかったと、服を脱ぎ、着替えて、一人で寝つこうとするとき、ギィ、と襖が開く音がするのだ。

 そこから、彼がじっと僕を見つめている。僕が目を逸らしても、じぃっと、じぃっと。

 お前のせいだ、と。謝れ。謝れ。謝れ。その幸せは身に余るんだ。お前の被害者面がムカつくんだ。お前には相応しく無いのだ。

 僕は身を縮こまらせて、息をしようと口を大きく開いて、ベッドの上で一人苦しみ悶える。見えない手で首を絞められているように。

 そう、それが毎夜続く。何度でも、何度でも。幸せになればなるほど、無数の手が僕を襲う。蛍光灯がバチバチと音を立てて、嗚呼、エタノールの香り、埃の臭い、アルコールの臭い、血の臭い、煙草の、シガレットの匂い。頭を殴り付けてはむせ返らせる。僕は何度でも蹴られて、殴られる。

 だから、僕は。僕は、そんな苦しい日々が耐えられなくなって、逃げた。僕には幸せになる権利など無かった。幸せになる希望など無かった。

 居場所が、無かった。

 逃げた先がこの無間の空間ならば、さほど悪くない。罪から逃げた臆病者の末路にぴったりだ。だって、僕は、誰から擁護されたところで、僕が悪いに違い無いのだから。

「本当に?」

 少女の声だった。嘲笑うような、慈しむような、乾いた軽蔑を秘めていた。

 僕は暗闇の中で、目を開く。目の前にいたのは、黒髪に赤い目をした少女だった。ゴシックロリィタに身を包み、挑発的に片目を細めて微笑んでいる。ちろりと覗かせた赤い舌が不気味で、まるで蛇のようだ。

 魔女の帽子をくいっと上げると、彼女は、上も下も無い空間を歩いてきた。ハイヒールの足音が、心音のようにして聴こえてくる。しかし、彼女が近づいてくる度、まるで母親を待つ赤子のように、どこか心が落ち着くのだ。

「やぁ、神崎慧──愛すべき自殺志願者」

「……あんたは、誰ですか」

「ボクかい? ボクの名前は、アザミ。神楽坂薊。またの名を、彼岸の魔女」

 神楽坂薊。聞いたことが無いのに、ずっと前から知っているような気がする。どこかで会ったとか、そういうことではない。生き別れた兄弟に会うような、そんな感覚だ。

 僕は確かに目蓋を開いた。体は動かせるらしい。ぐるぐるとゆっくり回る感覚がして、重力が戻ってくる。気がつけば僕は、アザミと同じ向きで立っていた。

 アザミは喉を鳴らして、冷ややかな声で語る。

「アンタは、どうして死にたがったの?」

「どうして、って……上手く説明できません」

「だらしないねェ。ちゃんと口にしてごらん?」

 彼女に鼻で笑われても、不思議と不快ではない。嫌な感じが少しもしないのだ。嘲笑されているというのに、むしろ今の気分は、母親に話す子供のよう──僕には、母親なんていなかったのだけど。

 口をついて出たのが、僕が悪い、という言葉だった。何度繰り返してきたことだろう。僕が悪い。僕が悪い。僕が悪い。僕が悪い。だって、僕が悪いのだから。百パーセント悪いわけではなくても、割合としては僕の方が多いのだ。

 アザミはそんな僕を、心底不快そうな目で見る。眉をひそめて、口元を歪めて。

「アンタはどう思ったわけ?」

「どう、って……僕が悪い、と」

「ちっげーよ、頭悪りィなァ。他人にそうして謝ってるとき、どう思ってたんだ?」

「……許してほしい、と」

「許してくれたのか?」

「それは……」

 許さないよ、もう終わりだから。

 彼の声が頭でこだまする。その言葉を思い出す度、心臓が締め付けられるように苦しくなる。謝っても、謝っても、謝っても、彼は許してくれない。止めても、止めても、彼はそばにいてくれない。

 僕は彼を愛していた。愛していたのだ。だから、何度でも謝った。何度でも許しを乞うた。僕がいけないのだから。何が悪いのかも分からなくなったけれど、とにかく彼にとって僕は酷く悪い人間だったから。

 そんな回想をしていれば、アザミは額に手を当てて、大きく息を吐く。赤い唇が下がり、その下からじとりとルビーの双眼が僕を睨みつける。

「あのさァ? どうして嫌われたか、分かってんの?」

「……分かってます、そんなの」

「なら、どうして嫌われたのか、口に出してみろよ」

 アザミに促されるまま、口に出す──自分が言われてきた、自分が嫌われる証拠となる言葉を。

 不信感の奴隷。

 危険物。

 メンヘラ。

 ヤンデレ。

 寄生虫。

 化け物。

 怪物。

 寂しがりなうさぎさん。

 自己顕示欲の奴隷。

 欲望を塞ぐ棒。

 自分勝手で自己中心的。

 面倒臭い人。

 手の打ちようの無い駄目男。

 神崎劇場。

 被害者ビジネス。

 代替の愛を振りかざす偽善者。

 悪意の塊。

 犯罪者。

 意思の無い人形。

 他人の地雷原で踊る男。

 彼に近づく迷惑男。

 俺たちに近づくな。

 彼が腐ってしまうではないか。

 お前となんか関わりたくない。

 「怪物」に従うな。

 思いどおりになんてならない。

 お前の言うことなど聞きたくもない。

 お前と付き合っていて楽しかったことなど一つも無かった。

 お前のせいであの子が不幸になるんだ。

 お前のことが信用できない。

 お前と関わる時間が苦痛で仕方無い。

 お前なんか、お前なんか、お前なんか──

 反芻する度、胃を握りしめられるようで、吐き気がする。頭が痛くなる。目の前がちかちかする。もう一度死んだというのに、また死ぬほどの苦しみが頭を殴りつける。

「……ごめんな、さ……」

「馬鹿、何で謝んだよ」

「ごめんなさい、」

「謝ってんじゃねぇ。理不尽だろうが」

 理不尽?

 アザミの言葉を繰り返す。理不尽。理不尽などと思ったことなど……? 理不尽? 全て相違無いのに、正しいことなのに、なぜ不条理だと言うのだ? 理不尽。理不尽、理不尽?

 頭の中でぐるぐると回って、酔いそうになる。

 アザミは僕を指差し、強い口調で言い放った。

「アンタが苦しんでるってこたァ、アンタは傷ついてんだよッ! いいか、アンタの言われてることは、いわれの無いただの罵倒なんだよ! そこに正当性を求めてどうする⁉︎」

「……ただの、罵倒……?」

「理不尽だ、そんなの理不尽だ! アンタは何か言い返したのか⁉︎」

「正しいから、何も……」

「理屈で考えてんじゃねぇよ、考えることを放棄してんじゃねぇ! 自分と向き合えよッ!」

 酩酊した頭が、アザミの言葉で揺さぶられていく。

 僕が悪かった。僕に悪いところがあった。それが事実だ。それが世界の望む結論だ。

 では、「僕」は?

 僕の望んだ結論は?

 ぼんやりと靄がかかった頭が、ゆっくりと冴えていく。そして、見たことも無いような鋭い刃を目の当たりにした。いけない、と脳が信号を出す。いけない。それ以上はいけない。僕が悪い。僕が悪い。僕が悪いのが真実だ。僕が悪い。僕が──

「……理不尽だ」

 理不尽だ。理不尽だ。こんなの理不尽だ。僕が何をしたって言うんだ。僕は何か間違えたか? 間違いばかりだった。では、僕は意図的に間違えたのか? そんなことはしない。

 理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。許せない許せない許せない許せないゆるせない──頭が熱くなっていく。体に力が入っていく。こんなに力が湧いてきたのは、久しぶりだ。人形の体をくるりくるりと動かして、薄笑いを浮かべて、死人のように生きてきた僕が、今は自らの意思で体を動かしている。

 理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。

 嗚咽を漏らす度に、涙が溢れる。頭を抱える。爪を立てる。唸る。身を引き裂きそうなほどに蹲る。いけない。いけない。僕が悪い。理不尽だ。許さない。二つの言葉が入り混じって、頭が壊れそうになる。

 そんな僕の背を押すようにして、アザミが一際大きな声で怒鳴った。

「叫べ、慧ッ! 自分に嘘吐いて逃げてんじゃねぇよッ! 叫べ! 唸れ! 吠えろ! 目ェ逸らすなッ!」

「……煩い」

 違う、それはアザミに向けた言葉ではない。違うのに。そんな言葉を撤回する余裕も無い。

 感情のままに、叩きつけ、殴りつけるように、叫ぶ。腹に力を入れて。喉が枯れるほど。喉を壊すほど。喉を掻き毟るほど。

「黙れ黙れ黙れ黙れッ! 煩いんだよッ! 煩い、五月蝿い、お前らが悪いんだ! お前らが無神経だからッ! お前らが無責任だからッ! 僕は悪くない! 僕は少しも、悪くないッ! 理不尽だ、こんなの、理不尽だ……!」

「……はは、よく言えました」

 アザミはそう言って、穏やかに微笑んだ。

 どうして、そんな顔をするんだ。暫時、沈黙する。

 心の重りが、落ちていくような感覚がした。溜め込んでいたドス黒い液体が、胸元の穴からだらだらと流れ出す。そうして、しばらくすると、流れ出した液体は透明になっていた。

 僕はただただ、流れていく涙を必死に拭うことしかできなかった。ひくつく腹を押さえて、もう片方の手で腕を目に押さえつけて。こんなに泣いたのは、いつぶりだろうか。

 こうして泣いて、ようやく思い出した。僕は、独りで死んだのではない。僕の怒りと悲しみに寄り添った、大切な人がいる──神城誠という、大切な後輩が。

 彼は何度も何度も、先輩は悪くない、と言った。彼奴らが無神経なんだ、許せない、とも言った。それを全て「僕が悪い」でぶった切ってきた。追い詰められて、行き場を失くして、死のうとしたとき、彼は僕の隣にいた。

──先輩となら、どこまでも一緒に。

「……ッ、まこと……誠……」

 彼の笑顔が目に浮かぶ。嗚呼、どうして分からなかったのだろう。どうして、どうして気が付けなかったのだろう。どうして自分から逃げ続けてきたのだろう。

 腕の向こうでアザミが、慧、と優しく僕の名前を呼んだ。今までの鋭い口調とは打って変わって、他人の頭を撫でるような、あまりにも柔らかな声だった。

「慧、よく言えたね。ボクはずっと、アンタがそう言えることを待ってた」

「……あんたは、何者、なんですか」

「ボクかい? ボクは、アンタの鏡写しのような存在だ。アンタの人生をずっと眺めてきた。アンタの心をずっと見てきた。そしてボクもまた、アンタのような人生を送ってきた」

「……意味が分からない」

「分からなくていいよ。ボクはアンタで、アンタはボク。互いの気持ちなら、きっと手にとるように分かるよ。

アンタが諦めない限り、まだ、終わらないよ」

 遠くから、不快でないほどの大きさで、ブザーが聞こえてくる。舞台が始まる前に鳴るその音は、次第に黒い空間を白く染めていく。

 白に溶けていくアザミを眺めているうちに、僕の体が軽くなる。涙が止まらない。まるで一生の別れのように、名状し難い寂しさが襲う。初めて会ったばかりなのに、もう引き離されるのが悲しくなってしまった。

 完全に視界が白で埋め尽くされると、花の香りがしてきた。ふわりと僕の顔を包んで、招いている。片手が温かくなって、閉じていた目を開けば、僕は誠と一緒に、図書館にいた。

 僕らの目の前には、顔色の悪そうな、されど目を奪われるほど美しい男性が、僕らを薄い微笑みと共に見上げていた。

「ようこそ、自殺志願者の諸君」

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