私がいるだけの、何もない場所
柿尊慈
私がいるだけの、何もない場所
「大学、辞めようかと思って。今晩、話せる?」
普段使わねぇアプリが鳴ったと思ったら、あいつからのメッセージだった。
「20時でいいか?」
「ありがと。お酒買ってくから、いつもの場所で待っててね」
なんてやりとりを、したってのに。
約束の時間はとっくに過ぎている。まだまだ夏は本番じゃねぇが、この時間のベランダは、高温多湿の極みで萎えちまう。シャツの襟をパタパタとあおぐが、何の解決にもならねぇ。
「おまたせ」
ようやく隣から声がして、俺はスマホで時間を確認する。
「20時20分。だいぶ過ぎてんぞ」
笑って謝る声がして、パーテーションの向こうからビニール袋が突き出された。そこのスーパーで買ってきたものだろう。
「いくらだった?」
「2020円」
「じゃあ、半分出すからよ。ちょっと待っ――」
「いいから、お話しようよ」
足を止める。
……お話、か。
部屋の中に戻ろうと振り返った俺は、その場でもう一度回って、ベランダの柵に身を預ける。
じめっとした風。しばらくの沈黙。それを破るのは俺。
「……なんだよ、大学辞めるって」
「辞めるかは、まだわかんないけどね。しばらくは、休学して様子を見るよ。実家に帰って、お仕事手伝おうかなって」
「八百屋、だったっけ」
「お肉屋さん」
ちゃんと覚えててよと、拗ねるように笑う。
たまたま同じ大学で、たまたま隣の部屋。たまたま学年が同じ。
学部が違ぇから、キャンパス内で会うことはほとんどなかった。1年の頃に、共通の授業でたまたま見かけて――たしか、2020教室だったかな――隣の部屋のやつじゃん! って盛り上がって、連絡先を交換したきりだ。
入学したての頃は友達なんていねぇから、ひとり知り合いが増えるだけで嬉しかった。けど互いにコミュニティが違うんで、それっきり会うことはなくて……。
「タバコなんか、吸うんだ?」
いつだったか、ひとりタバコをベランダで吸ってたら、ひょっこりこいつが顔を出してきやがった。
それから俺たちは――大学ではなくベランダで――立ったまま宅飲みする間柄。ちなみにタバコはすぐやめた。こいつが煙を嫌がるもんだから。
2020年夏。
年明けぐらいから猛威を振るったウイルスに苦しめられた教育機関は、いつまでも休校にしてるわけにもいかねぇってことで、なんとなく授業を再開した。
とはいえ人が密集するとやばいってんで、受講者をかなり制限しての開講。学力の高い順に受講資格を与えたから、留年が確定するやつがちらほら出てきた。4年間で単位が回収できないってんで、大学辞めるやつも知り合いにいたけど。
「まさか、お前もかよ……」
ビニールに入ってた缶チューハイを片手に、俺はぽつりと呟く。
「ごめん」
こいつの小さな声を、ぬるい風が俺の耳に運んでくる。
「謝ることじゃねぇだろ。仕方のねぇことだし……」
お前は俺の彼女とか、そういうわけじゃねぇ。俺たちは何でもねぇんだから、謝る必要だったねぇんだよ。
言いたくなったが、我慢した。我慢というのは、嘘かもしれない。それを口にしたら――認めちまったら、ダメな気がした。
顔を合わせて会うことはない。俺たちの間にはいつだって、仕切りがあった。別に、これを越えて会おうと思ったことはない。家に上がったこともなかった。それでいいんだよ。
お前に彼氏がいるのかもわかんねぇ。大学でバッタリ、男連れてるお前を見るのも嫌だから、たぶんこれでいいんだ。
「休学ってことは、戻ってくるかもしれねぇってことだろ」
「この状況が、落ち着いたらね。あんまり、期待してないけど……」
ウイルス騒ぎが国内に広まり出した頃は、帰省ですら白い目を向けられていた。今では駅の改札での検温・検査が当たり前になって、疎開だなんだと言われることはない。けど、それにも実家の住所証明とか、一定の手続きが必要だったりするわけで、つまりはこいつの実家帰りってのは、それだけ本気だってことだ。もう、帰ってこないつもりでいるんだろう。
「もし戻れるとしても、この家に帰ってこれるわけじゃないし」
「……そうだな。その頃にはまた、家探しから始めねぇとな」
そしてその頃には、俺はもういない。同じ大学、隣の部屋。俺たちの共通項はバラバラに砕け散る。今以上に、誰でもない関係に。
俺は既に単位はあらかた取っちまってるし、バイト先のゲーム会社でも、正規採用を視野に入れてもらってる。もし卒業できないってなっても、経験者の高卒として雇ってもらえるかもしれない。だがこいつみたいに、ウイルスのせいで満足な就職活動ができなかった場合は、休学や退学、実家帰りは妥当な選択だろう。
「もし、引っ越しするってなったらさ。色々手伝ってよ。男の子の力が必要になるから」
「なんで、俺が……」
「お隣さんじゃんか」
お隣さん。
本当に……最後まで、ただの「お隣さん」だったんだな。
顔に、雫が飛んでくる。
「雨、降って来ちゃったね。戻ろっか」
「あ、ああ……」
言われるがままに、俺は自分の部屋へと戻ってきた。
今俺たちを隔てているのは、体当たりすれば壊れそうなベランダのパーテーションじゃなくて、ドリルでも持ってこないとこじ開けられないようなブ厚い壁。あいつの声は聞こえない。髪の毛の香りも消えた。
缶チューハイと、いくつかの菓子類が詰め込まれたビニール袋、2020円分。
「別にこんなの、自分で買えるっての」
欲しいもんは、こんなもんじゃねぇんだって。
「どうしたの?」
耳元で、笑い声がする。
「話しそびれたことがあるっていうか、いや、大した話じゃないんだけどよ。まあ、そんな感じ」
「電話するのは、初めてだね」
そう、この距離感は初めてだ。こんなに、声が近かったことはない。いつも互いの声は、夜の空気に吸い込まれていたから。
「延期になっちまったけどさ。オリンピックがあっただろ」
「うん」
「全然メジャーじゃねぇ競技だったんだけど、こっからすぐ近くのとこが、競技場になるって話で――」
「そういえば、そうだったね」
全然、スポーツとかどうでもよかったんだけどさ。
当たるかもわかんねぇのに――当たったらどうすんだよとか、何も考えないで、チケットを2枚応募したんだ。俺たちの分。
「当たったら、誘おうと思ってたんだ」
当たんなかったけどな。当たってたところで、ムダになっちまったんだろうし。
「で、なんていうか……オリンピックって、4年に1回じゃんか。ってことは、大学時代に1回しかないワケで。それってすげぇレアだろ? で、大学での出会いもさ、それと同じように、こう、珍しいっていうか、大切にしたいもんで、だから……」
何言ってんだよ、俺は。
耳に当てたスピーカーから、笑い声が途切れ途切れに聞こえる。
「笑うんじゃねぇよ……」
笑い声はしばらく続いた。
「私の実家、そんなに遠くなくてさ」
気まずさから黙っていると、今度は向こうから話を振ってくる。
「えっと、そこの駅からだと……2020円だって。2時間くらい」
「結構、距離あるじゃねぇか……」
「今までは、お酒とか割り勘だったけど、今日の分は――それは、私持ち。でもそれじゃなんか、アンフェアだからさ」
飲み終えた缶チューハイを、思い切り握ってみる。思ったより綺麗に潰せない。
「色々落ち着いたら、こっちに遊び来てよ」
「……観光地とか、何があるんだよ」
「観光地はないけどさ――」
続きの言葉が、不自然に途絶える。息を吸った音がしたが、吐き出されることはなかった。
「……なんだよ」
心配になって、声をかける。しばらくして、笑い声が返ってきた。
「何でもない。何にもないよ」
20分20秒。
しょうもない話をしばらく続けて電話を切った。画面に表示された通話時間が20:20。あっという間に時間が過ぎた。雨はもう止んだらしい。何のために電話してたんだろうな。
俺はいったい、どんな顔であいつの荷造りを手伝えばいいんだろうか。ベランダでしか会わないのに、初めて家に上がるのが、引っ越しだなんて。
買ってきてくれたチョコレートを口に入れてみるが、妙に腹が立つだけだった。求めてるのはこれじゃないと、舌が叫んでいるような気がする。かといって、このイライラを鎮めてくれそうなものはどこにもない。
いつ、帰るんだろうか。
俺はいつ、会いに行けるんだろうか。行ったら何を話せばいいんだ。
結局、彼氏はいなかったんだろうか。いたとしたら、遠距離恋愛になるだろうし、でもこっちには帰ってこないつもりだっていうなら……。
落ち着きなく歩き回っていたが、勢いよくベッドに横たわる。トーク画面を開く。通話を終了してから、5分くらいしか経ってない。
そういえば、彼氏とか、いるのか?
打ちかけて、全部消す。違う。そんなことはどうでもいい。どうでもよくないけど、どうでもいいんだ。
片道2時間、2020円。日帰りで行くのは、もったいない気がする。
聞いたこともなかった地名。忘れないうちに打ち込んで、検索をかけておく。名前を忘れても、履歴が残れば思い出せる。
「あっ」
今、気づく。
2020円分、あいつは俺に酒や菓子を押しつけた。
だから2020円かけて、あいつの実家に来いと言われた。それでイーブンだって。
でもよ。
「往復だったら、倍かかるじゃねぇかよ」
いつになるかは、わからねぇけど。
2020円払って、あいつんとこ行って。2020円払って、俺は帰ってくる。でもそれじゃ、結局俺が、2020円多く払うことになるから。
連れて帰るための2020円は、あいつに払ってもらうとするか。
私がいるだけの、何もない場所 柿尊慈 @kaki_sonji
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