第7話  顔がこわい

音沢 おと

  顔がこわい

                                音沢 おと



 佐知子さんは、魚が嫌いだ。

 正確には、目のある魚が食べられない。見つめられている、と言う。

 小さな子供ならばまだしも、佐知子さんは今年で七十、同居する私の夫の母親だ。孫にあたる祐実(ゆみ)は五歳で、佐知子さんの影響か、「魚が、見てる」なんて言い出す。

「祐実、大丈夫、見てないから食べなさい」

 私は娘を窘める。

「ほらほら、ママ」

 祐実は皿の上の鮎の塩焼きを指さす。

 確かに、塩をまぶされた鮎は歯も覗かせて、それは見ようによっては、ちょいと怖いかもしれない。だが、美味しい。

 この季節にしか食べられない、町の名物だ。

「ねえ、顔、とって」

 祐実は、ぷいっと自分の顔をそむける。

「自分でとらないと、お外で食べるときどうするのよ」

 私の言葉に、祐実は、最後の切り札として言い放つ。

「だって、お祖母ちゃんだって、目がある魚、食べないじゃない」

 そうして、祐実と佐知子さんは、視線を合わして、「ねえ」と合図する。


 佐知子さんが、魚の目を嫌がりだしたのは、この二年ほどだ。義父が亡くなってからだ。もっとも、私が義母のことを、佐知子さんと呼びだしたのも同じ頃で、それは佐知子さんのリクエストによるものだった。

「今日から、お義母さんではなくて、佐知子さんと呼んで下さい」

 そうして、義父も義母も、私には存在しないスタンスになった。

 次に変化が現れたのは、「目のある魚は、食べられない」であった。

 幼稚園に入ったばかりだった祐実が、魚嫌いだということで、二人は何か気が合ったようでもあるのだが、佐知子さんは、一応、切り身は食べられる。祐実は仕方なく、切り身は、口に入れられるようになった。

 だが、この町では、夏になれば鮎が捕れるし、それどころか、海に近いため魚料理は多い。

「佐知子さん、祐実にも魚好きになってもらいたいし、今までみたいに食べて下さいよ」

 私は頼む。

 夫の博之も、「母さん、昔は平気だったのに、どうしたんだよ」と呟くけれど、たいていはそのままになる。


「ねえ、なんでお祖母ちゃん、お魚怖いの?」

 私が洗濯物を畳んでいたら、隣の居間から、佐知子さんと祐実の会話が聞こえてきた。

「私ね、昔、魚だったんだよ」

 佐知子さんの言葉に、私は振り返る。だけど、居間と寝室には壁がある。二人の姿は見えない。

「お祖母ちゃん、人魚姫だった?」

「あら、祐実ちゃんは、人魚姫のお話、知っているの?」

「絵本みた。幼稚園にもあるんだよ。先生、読んでくれたし」

「あらそう」

「ねえ、お祖母ちゃんは、昔、人魚姫だったの? じゃあ、お祖父ちゃんは王子様だった?」

「そうだよ。祐実ちゃんは賢いねえ」

 私は、立ち上がろうとした。

「だから、お魚、怖いんだね」

 おいおい。

 私は、居間に行き、二人の会話に割って入ろうと思った。

 だが、ふと思い出す。

 義父が亡くなって、佐知子さんは、ぼんやりすることが多くなった。

「財布がない」と探すことも、「今日は日曜日なのに、博之は仕事なんだね」と水曜日に夫に話しかけることもあった。

 私は、畳んだばかりの夫のTシャツをぎゅっと握っていた。


 夕飯は鮎の塩焼き。

 町の夏の風物詩の鮎は、夫の大好物だ。だから、食べられるときは、夏には何度も食卓にのぼる。この町の贅沢の一つだった。

「あー、また、魚が見てる」

 祐実が文句を言う。

「だって、鮎の顔があるから、ありがたい感じじゃないの?」

「何、ありがたいって?」

 祐実はきょとんとして、隣に座る夫に訊く。

 今日は水曜日で、会社の早帰りの日だ。七時にみんなで食卓を囲んでいる。

「生きていた感じがして、美味しそうだよ」

「えーっ」

 祐実はぶつくさ呟く。

「ねえねえ、お祖母ちゃん」

 祐実は、味方をつけようと、佐知子さんに同意を求める。

「お祖母ちゃん、目、やだよねー。顔とってくれればいいのにー」

 佐知子さんは、皿の上の鮎を見て言う。

「ああ、そうだね。私もこの年になると、生きていたものが、はっきりとそうでなくなるのが、辛いんだよね」

 私は、佐知子さんの顔を見る。

 細くなった目が、寂しげに見ていた。

 皿の上の鮎ではなく、そのもっと向こうの、どこかすごく遠いところを。

 佐知子さん、と呼ばれたい。

 義父がいなくなって、義母ではなくて、佐知子さんになりたかったのが、少しだけ分かったような気がした。

「ねえねえ、お祖母ちゃん、魚が死んだのが、いやなの?」

 祐実は佐知子さんの顔を覗き込む。くりっとした祐実の瞳は、きらきらと輝いている。

「祐実、せっかく美味しい鮎なんだから、死ぬとか、そんなことを言うと、食欲なくなるじゃないか」

 夫が文句を言いながらも、箸で身をつついている。

「第一、生きてたら、魚なんて食べにくいぞ」

 ご飯にのせて、鮎とともに掻き込む。

「こんなにうまいのになあ」

 夫はもぐもぐと口を動かし、私も、「そうよー」と言いながら、鮎の身をほぐした。

 佐知子さんの顔が、少し柔らかくなっていく。

 これから、焼き魚の頭をとって出そうか、と思った。

 そうだ。しばらく、それでいい。

 そう思ったとき、佐知子さんは、思い出したように、夫に訊いた。

「ねえ、博之、今日は日曜日なのに、どうして会社に行っていたのかい?」

                                    了

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第7話  顔がこわい 音沢 おと @otosawa7

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