はかなきもの。
森永マリー
第1話
タイムストーリー『五分間』
はかなきもの
私は十四歳で、箱を作っている。世間一般の十四歳が塾に通ったり手のひらサイズの機器で友人同士やりとりしたりと忙しなくしている時間に、私は卓袱台でこつこつと箱を作っている。
父は蒸発した。母はパートで夜遅くまで働いている。母が帰宅したら母も一緒に箱を作る。
ひとりで作るより、だいぶいい。
決められた順序にそって厚紙を組み立て、外側に絵柄のついた和紙を、へりやふちには金色の細い紙を糊付けする。乾いたらニスを塗り、さらに乾かす。
私は学校から帰宅するとすぐに箱作りに取りかかる。テレビを観ながら手を動かす。父がいなくなってから友人もいなくなった。学校より塾より最新機器より異空間でのつながりより、生きるので精一杯になったからだ。
それでもテレビがあり音があり、映像だとしても他人だとしても笑顔があるのはいいと思う。
母が帰宅すると、私は母と自分のためにあたたかいお茶を入れる。母がパート先から仕入れてきた売れ残りのお惣菜をふたりで囲む。
糊やニスの匂いがする中、母は私に話しかける。少し悲しげな笑顔で。
「そろそろテストでしょう? 内職、手伝わなくてもいいのよ」
「ひとつの箱を作るのに所要時間は五分。給金が十円。一時間だと百二十円。一時間働けばパンが買える」
おいなりさんをつまみながら、私は言った。お皿に油がにじんでいた。
「そんなこと計算してたの」
「小学生でもできる計算」
「もっと食べなさい」
母はプラスチックのパックに入ったポテトサラダと南瓜の煮つけを全部、私のお皿にのせた。
「大丈夫だよ、テストくらい」
私はポテトサラダと南瓜の煮つけの半分を、母のお皿に取り分けた。
「お茶、おかわり入れようね」
母が席を立った。毛玉のついたセーターとかかとがだぶついた靴下。
所狭しと並んだ十センチ四方の箱。色とりどりのまぶしい和紙。
「あはは」
テレビの声に合わせて、笑ってみた。
木枯らしが窓を叩き、すきま風でカーテンがふるえた。
母と私が作った箱は、駅前や商店街のお土産屋で売られている。我が町は和紙の産地として名高いのだ。
いくらで売られているのかを知ると、たぶん悲しくなるので、私は遠目にそれらを見守る。誰かがそっと手にして眺めたり、吟味して買っていったりする。他の場所に置き去りにしたり、蓋を開けっ放しにしたりする人もいる。
できれば乱暴に扱わないでほしいけれど、気にしてもらえるだけでもうれしい。
小さな女の子が母親にねだって、大事に箱を抱えて帰っていく光景に、まぶたがじんわり熱くなる。私も早く母に会いたくなる。
大きくて真っ赤な夕陽がまるごと私の胸に飛び込んできて、胸がふあーっとふくらんでくる。この思いを、母と共有したいのだ。
帰宅してカーテンをあける。夕陽はまだ、こちら側にいる。世界のあちら側で夕陽は、どんな子供や大人を見つめるのだろう。穏やかだったり、荒れていたり、貧乏だったり、お金持ちだったり、いろんな人がいるのだろう。
ぼんやりしていると、たちどころに夜がやってくる。建物はでこぼこの影絵になり、木々は得体の知れない怪獣みたいになって空気を揺らす。
私はテレビをつけ、箱作りに取りかかった。身体に毛布を巻きつけ、手を動かす。
ここでひっそり作った箱が、どこかで生きている。私の知らない場所で、知らない人と一緒にいる。箱の人生、箱生というのか、はいったいどんなものなのだろう。私が生んだ箱には、しあわせな箱生を送ってほしい。
母が生んだ私に母は時々「ごめんね」と言う。ひび割れたガラスのような母の笑顔に、「あやまることないよ」とか「何がごめんねなの」とか、頭に浮かぶ言葉はあるけれど、どれも口に出せない。だから無関係のことを言う。「テストなんてちょろいよ」とか。
アパートの階段をのぼる音が聞こえると、私は卓袱台を片付けお湯を沸かす。
「ストーブつけなさい。寒いでしょう」
丸まった毛布をたたむ母の髪から、お醤油と生姜の匂いがした。
「今日の日替わり弁当は生姜焼き?」
「そうよ。たくさん売れた。うちも今夜は生姜焼きよ」
「やった」
母からナイロン袋を受け取る。プラスチックのパックに入った生姜焼きと野菜炒め。
しばし目をとじ、生姜焼き弁当を買った人の気持ちになってみる。ひとりにひとつの生姜焼き弁当、あるいは誰かと分け合っているかもしれない。
「ねえ、お母さん」
卓袱台にふたつ、お茶をのせる。
「なあに?」
「この箱、何を入れるんだろうね」
私は部屋のすみに並ぶ箱に視線を移した。母が私のお茶碗にごはんを、お皿に生姜焼きをどっさりのせた。
「何かこまごました大切なものを入れるんじゃないかしら」
「こまごました大切なもの」
おうむ返しに言った。テレビで芸人が薄っぺらに笑っていた。
「そう。たとえば、輪ゴムとかヘアピンとか爪切りとか」
「今日ね、小さな女の子が箱を買っていくのを見たよ」
「小さな女の子だったら、飴の包み紙とか、お菓子のおまけとか、そういうのをしまっておくかもしれないわね」
「飴の包み紙。そっか、私も昔、そういう取るに足らないものを宝物にしてたかも」
「でしょう。宝箱にしてもらえるのは、とてもうれしいことね」
「宝箱、か」
ふと、私には宝箱がないことに気づいた。私が黙ってしまったら母は何を勘違いしたのか、
「ごめんね」
と言った。野菜炒めをどっさり、私のお皿にのせた。
「このアイドルだったら、私のが美人じゃない?」
テレビで軽くてぺらぺらした歌をうたっていたアイドルを指差し、私は笑った。
「アイドルになろうかな」
生姜焼きと野菜炒めを豪快に食べた。豚肉が煮詰まっていてしょっぱくて、うっかり涙が出そうになった。ごはんをかきこんだら咽てしまった。
母が私の背中と頭を、くしゃくしゃに撫でた。
テストはちょろいもんではなかったけれど、まずまずだったと思う。
数学の問題を解くごとに私は壁の時計に目をやった。三分で答えが出たものもあれば十分考えてもたちうちできないものもあった。周囲の子達も難しそうな顔をしていた。難しく過ごすのも、きっと必要なのだ。
テストが終わると皆一様に清々しい顔になった。クラスメイトが塾や習い事に散り散りになる中、私はいつも通り駅前から商店街の道をたどった。お土産屋さんをこっそり観察するためだ。
今日は品のいいおばあさんがひとつ買っていった。しわしわの手で、老眼鏡をかけて、とっておきのひとつを選んでいた。
おばあさんはあの箱に、何を入れるのだろう。お薬、のど飴、診察券、眼鏡拭き。お年寄りにとっての大切なものを想像して、楽しく歩いた。夕陽がこちら側に別れを告げ、あちら側を照らしにいく。今日というたったひとつの日が、さようならに近づく。
夜が降りてくる頃に帰宅し、私はいつものように箱を作る。支給された材料を用意し、下半身を毛布でぐるぐる巻きにする。
テレビのデジタル時計が、十八時三十分になった。
どこかでうるさく犬が吠えていると思ったら、窓が小刻みに振動し始めた。蛍光灯から下がった紐が振れ、畳が波打った。地震だ。私は卓袱台の下にもぐり、身を縮めた。緊急ニュースを報せるチャイムがテレビから聞こえた。部屋のあちこちにたたずむ箱達もがたがたと恐がっている。食器棚や本棚が倒れてくる気配はない。じっとしていれば去っていくささやかな危険なのかもしれない。落ち着いていれば、この地域は、大丈夫だ。指先に息を吹きかけながら母の無事を祈った。火を使う職場だけれど、と不安にかられた時、あたりがしんと静まった。
そろりと卓袱台から抜け出し、テレビを凝視した。バラエティ番組だったはずなのにニュースに切り替わっていた。神妙な面持ちでアナウンサーが告げた。
『震源地は……、震度……、マグニチュード……』
画面に表示された日本地図は赤や黄色で色分けされ、津波のマークが記されていた。
『中継が入っています。救助作業が進められている模様です』
山間の土砂崩れの様子が映し出された。
私は毛布に包まり、箱作りを再開させた。かじかむ指を叱咤激励するように、ぎこちなくも丁寧に厚紙を折る。身体からどうにか普通に戻していかないと、心も戻ってこないと思ったからだ。
深緑色の山が溶けてしまったように変形し、土や岩があらわになっている。民家が半分以上も泥に埋まり、屋根や柱が傾斜している。
泣き叫ぶ子供、呆然とする大人。
カメラは、平穏さを一瞬にしてくつがえした自然の驚異を映し出していたけれど、私の目はある一部分をとらえて離さなかった。
土と木の隙間から、人の手が伸びていたのだ。
『大丈夫ですか? 大丈夫ですか?』
救助隊員が必死に呼びかけている。
大丈夫だとは思えない。声が聞こえているのかも、声を発することができるのかも、わからない。
ただ、その手は、土だらけの傷だらけの、むきだしの手は、生きたいと言っていた。
ぴんとはった指から、透明な息吹がかげろうのように蒸発しているのが見えたのだ。生きたい、生きたい、助けて、誰か。そう懸命にうったえている。
『大丈夫ですか、大丈夫ですか』
泣きじゃくる子供、落胆する大人。
救助隊員が躍起になって土を掘り起こし、屋根や柱を排除しようとしている。
『大丈夫ですか、大丈夫ですか……』
手が、空をつかもうとした。
私は箱を作った。決められた順序にそって厚紙を組み立て、外側に絵柄のついた和紙を、へりやふちには金色の細い紙を糊付けした。乾いたらニスを塗り、さらに乾かした。
手が、空をつかんで、果てた。
私は自分が、呼吸を止めていたことに気づいた。胸を両手で押さえ、深呼吸をした。あまりうまくいかなかった。
テレビのデジタル時計が、十八時三十五分になっていた。
「……五分……?」
五分だ。たったの五分。地震が起きて、あの手が果ててしまうまで、わずが五分。
卓袱台には、今、私が作った真新しい箱があった。十センチ四方の小さな箱。和紙で彩られた、いくつもあるうちの、たったひとつ。
アナウンサーが淡々と、地震の追加情報を告げていた。
アパートの階段を駆け上がる音がする。私の身体は畳に密着したまま、微動だにしなかった。
「大丈夫だった?」
さっきテレビで聞いた救助隊員と同じセリフを、母が私に言った。髪をぼさぼさにして、切羽詰った顔で。
「大丈夫だよ、お母さん」
私は泣いてしまいそうなのをこらえた。母も無事だった。火を使う職場でも火傷もせず、いつものようにお惣菜をたずさえて帰ってきてくれた。
「よかったわ、よかったわ」
母が私を抱きしめた。外気にふれていた母のコートの冷たさを、私はあたたかく味わった。
「さあ、お腹がすいたでしょう。ごはんにしようね」
「今日は、何?」
「今日はね、チキン南蛮よ。それからキャベツの千切り」
「お茶入れるね」
「いいから。お母さんがやるから、座ってなさい」
母はコートをハンガーにかけると、キッチンの蛇口をひねった。テレビはもう、バラエティ番組に切り替わっていた。画面の端で地震情報が流れていた。
卓袱台で、できたての箱が私を見つめていた。私は箱を膝にのせた。
お皿に盛りつけたチキン南蛮とキャベツの千切りとお味噌汁を、母が運んできた。
「さ、食べましょう」
「うん」
両手を合わせて、母がいただきますと言った。私もそれにならった。
「いただきます」
湯気をたてたチキン南蛮、お味噌汁。
「こっちの方は震度4だったみたいね。けっこう揺れたけど」
母がキャベツにマヨネーズをかけた。
「うん」
「夕方だったから調理場もフル回転で、びっくりしたわ」
「うん」
テレビでは芸人が軽口を叩き、アイドルが安っぽい笑顔をふりまいている。
チキン南蛮はチキン南蛮だった。お醤油とお砂糖と酢、鶏肉、油。飲み込むとお腹から力がみなぎるのがわかった。
「……どうしたの?」
母が、私の顔をうかがった。私は泣いていた。頬にひとすじ、涙がつたった。
「……お母さん」
私は、膝の上の箱を手で包んだ。
「お母さん。ひとつの箱を作るのに、所要時間は五分だよ。給金が十円。一時間だと百二十円」
涙が一滴、二滴、卓袱台にこぼれた。お味噌汁をすすり、キャベツを咀嚼する。生きていなければできないこと。
「そうね」
母が私の肩をひきよせ、頭を私の頭にくっつけた。
「ひとつの箱を作るのに、五分だよね」
「ええ」
「たったの五分」
母の髪からはお醤油と油と、少しだけ化粧品の匂いがする。毎晩あたりまえにかいでいた匂いは、ある日突然あたりまえではなくなる。
土にまみれて立ち尽くしていた子供と大人のように。
「でも、五分で、人も死んじゃうんだね」
たったの五分で、人は死ぬのだ。
たったの五分で、永遠だと思っていたものが、永遠になくなる。
「……お母さん」
「なあに」
母が、世にもいとしいものとして、私という入れ物にふれる。
私という入れ物、私という箱を。
「この箱、ひとつ、もらっていい?」
膝の上の箱を、卓袱台に置いた。
「いいけど。どうしたの、急に。今までいくつも、作っていたのに」
「うん、あのね。これ、宝箱にするの」
「そう。何を入れるの?」
私はうつむいた。何をどう説明していいのか、わからなかったのだ。
母は私のつむじに顎をのせた。
「ううん、聞かない。宝箱に入れる宝物は、内緒にするものだものね」
「お母さん」
チキン南蛮をほおばった。キャベツにお醤油をかけてどんどん食べた。
「おいしい」
「たくさん食べなさい」
母が自分のチキン南蛮を二切れ、私のお皿にのせた。私はありがたくそれをいただいた。
夕食がすむと、母と私は箱作りに勤しんだ。余震に怯えながら、ストーブで暖をとり、テレビのにぎわいで部屋を満たす。
猫背になった母の背を見つめていたら、
「今日でテストが終わりだったんでしょう。疲れているんだから、もう寝なさい」
母が私の肩を叩いた。
「もうちょっとやる。給料が入ったらバーゲンに行こうよ。セーターと靴下を買いにいこう」
「そうね。じゃあ、もうちょっと頑張ろうか」
母が、少し悲しげな笑顔で、私の髪をくしゃくしゃにした。
世間一般の十四歳より不幸かもしれないと思わないと言ったら嘘になる。私のせいじゃないのにと運命を恨んだり、陰で拗ねたりすることもある。
でも、と思う。
箱を作り箱を旅立たせるという地味な日々でも、心に染み入る出来事がある。
部屋のすみで箱たちが鎮座している。赤や朱色、小豆色や紫色の地に、可憐な花や艶やかな花が描かれている。たくさん生まれて、誰かのたったひとつになっていく。
私は、私だけの箱を見つめた。
ここには、あの見知らぬ人の命が宿っている。生きたいという鮮烈な願いが、息づいている。
私の、私だけの宝箱。
「お母さん」
母の指が、箱のふちに金色の紙を貼り付けている。目を細めて、注意深く。
「なあに?」
重そうな母のまぶた。テレビが経済ニュースを伝えている。
「明日の夕ごはん、何かな」
母は一瞬だけ呆気にとられ、それからさもおかしげに笑い、私の頭を小突いた。
はかなきもの。 森永マリー @morinagamari
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