十三日目

 春眠暁を覚えず。うららかな日差しに照らされたこの部屋は、温度計によると二十三度。ふわついた暖かさと、かすかに香る除光液の香りで、僕ら六人はいばら姫となっていた。

 毎週この曜日は授業も無いので、僕たちは昼間まで惰眠を貪ることにした。お腹が空いたら、リビングに降りる。食べ終わったら、自分の部屋に戻る。ネットサーフィンをしたり、ゲームのスタミナを消費したり、そうしているうちに、気がついたら夜が更けていた。

 課題はどうしたの、と薊が言う。まったくもってそのとおりなのだけど、どうも体が動かない。春の怠惰とは泥のよう、眠りに落とさずともじわりじわりと眠気で僕らを弱らせる。少し早い五月病で、僕らはずっと布団にこもっていた。

「困るんだよなァ、こういう小さな怠惰があとでボクらを追いつめるんだろうが」

「と、言われましても、ねぇ。今日は外に出て日光も浴びたし、家事もし終わったし。今日くらい休んでも良くないですか?」

「良くない」

 薊はそう言って眉を吊り上げる。膨れた薊に、蜜柑がいなすように、まぁまぁ、と声をかけた。そんな彼女は、今日買い出しに行って得たものを整理していた。

「一週間に一回くらい、こういう日があっても良いんじゃない? 土日に頑張れば良いだけだな」

「そうは言ってもなァ……あっという間に七時だ、どうしたもんか」

「案外、時間を潰すのって簡単かもしれませんね」

 ふと思ったことを呟く。時間を潰すというか、時間に潰されてしまったのだが。

 自己収容生活を始めて、僕らは家に引きこもるようになった。一ヶ月近く引きこもっていると、いよいよやることも無くなって、外に出られないのがストレスになってくる。いつもなら毎週土日には買い物もしくはゲームをしに外へ出ていたのだけれど、今は外に出るといっても近場のドラッグストアに行くくらいだ。それはたいそう辛かったろうに、授業が始まってからは、こうして何時間も空費することにストレスを感じなくなった。

 課題をしろ、と言う薊も疲労困憊らしく、彼女もまた、結局腰を上げることができないまま、この時間に至っている。そろそろ彼女の脳内の「パニックモンスター」とやらが暴れだして、「自分勝手なお猿さん」を黙らせて舵を奪う頃だろうか。

「ダリアが怠け者なのはいつものことだろうが」

「といっても、ねぇ? 今まではこうして怠惰に過ごすことに罪悪感を抱いてきたわけですが、布団の中でただ縮こまって過ごしたり、部屋を片づけるだけで終わらせたり、なかなか悪くない生活だと思いますよ」

 そう言って、薊の爪先を眺める。細い指の先、綺麗に塗り直されたバーガンディ。これもまた、彼女が怠慢に過ごしていた証だ。彼女の肌が綺麗なのも、骨と皮だけだった体に肉が付き始めたのも──薊自身は嫌悪していたが──全ては怠けていたから。全てから自分たちを収容して、六人でこもっていたから。

 言うまでもなく、努力と仲良くすることは大切だ。努力を知らなければ、何事をも為せない。しかし、怠惰と仲良くすることも大切だと、僕は思う。薊のような、怠けるのが嫌いな人には分からないだろうけど。

「筋トレだってしたでしょ、アンタ?」

「一応……でも、ちっとも効果が出てる気がしねぇんだよなァ。肉が付いて、体重が増えるばっかりで、本当に嫌になる……」

「三十八キロだった頃よりマシなんじゃないの? あれじゃ日常生活すらまともに送れないでしょ」

 その贅肉がエネルギーとして燃えてくれないと、僕らは生きていくことすら困難になる。歩道橋を上りきって、青い空に目眩を覚えるよりずっとマシだとは思わないか? 階段の窓から見えた綿雲に立ちくらみするよりマシだとは思わないか?

 そもそも、「食べたい」という欲が湧くのは、精神的に安定しているからだ。鬱病は生命エネルギーの全てを食い散らかしていくのだから、食欲だって失われるだろう。怒りが、喜びが、悲しみが生まれるのは、一応生きているからだ。

 ふと思い出すのは、数年前のこと。まだ僕らが六人で集まっていなかった頃。何かを食べることも、何かを欲することも、何かを感じることも無く、死んだ顔で床に就いて、泣きながら、過呼吸になりながら過ごした丑三つ時。頭を殴られたような眠気を引きずって学校に通っていた頃。画面越しの悪意に頭を下げ、画面越しの叫びに寄り添いながら、誰かのために生きていた頃。

 あのときの僕らには、きっと何かが欠けてしまっていた。自分が白い壁に囲まれた牢獄にいることも知らなかった。どこまでも広がった世界があって、自分のことをじっと見つめる目の数々があるのだと思っていた。だから、そんな監視下じゃ何もできないなんて、正しく生きないと嫌われるのだと思っていた。

 欠けたパーツをはめた瞬間に、食事が摂れるようになった。運動をするようになった。怠惰に過ごすことを怖がらなくなった。傲慢に振る舞うことを恐れなくなった。だとしたら、こうして自由に過ごすことの、何がいけないだろう?

「食えるようになったなら、食いたいだけ食えば良いの。ゲームやって、寝ちまえば良いの。あぁ、でも見た目には気をつけて、運動してくれりゃァ良いよ。自由に生きりゃ良いの、自己収容で捕まってるこたァ変わりないし」

「ダリアの言うことに一理あると思うよ。アザミは自分に厳しすぎる。精一杯生きているだけで、充分誉められて良いこと。心置きなく、引きこもり生活を過ごせれば良いね」

「呑気な奴ら……単位落としても知らねぇからなァ」

「アザミは賢いんだから、いっつもAかS獲ってるべよ」

 蜜柑のフォローに、そうだけどよ、と口を尖らせる薊。結局、彼女は頭が良いし、授業を真面目に聴くから、成績面ではちっとも心配していない。最後にはちゃんとやってくれるって、信じている。まぁ、僕が何もしないからなんだけど。

 信じている? 嗚呼、無責任で喜ばしいことだ。自分のことを信じられるなんて、他人の言うことに耳を塞いでいられるなんて。

 ネットの海から逃れて、憂鬱な人間関係から逃れて、六人だけになった。僕らを女神のように崇めたり、悪魔のように恐れたりして、僕らを壊した人々は、扉の向こう、感染症の波に呑まれて消えた。皆きっと死んだんだ。だから、何したって良いんだ。誰にも怒られない、誰にも殴られない。誰にも泣かれない、誰にも縛られない、誰にも──

「……分かったよ。でも、少しくらいは課題やるから、邪魔しないでよ」

 薊はそう言ってストレッチを始めた。何かをやる前には、まずはストレッチ。体を動かして、それから集中する。僕はそんな薊を眺めながら、日記に筆を走らせる。

 数ヶ月前、人間が多すぎて苦しんでいた僕らの記述と打って変わって、今の記述はほの暗くも概ね明るい。このまま世界が滅んでしまって、皆死んでしまって、一生日常が戻ってこなければ良いのに。人間なんて皆、感染していなくなってしまえば良いのに。そう願うことは、罰当たりだろうか。

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