十二日目
授業前だというのに寝ている眠り姫様を起こして、僕たちは彼女に服を着せる。牡丹が好きそうな、メンズのワイシャツと黒いスラックス。僕は寝ぼけ眼な彼女の薄い目蓋に、ダークブラウンのアイシャドウを塗ってやる。薊はうつらうつらしていたが、自分が授業の三十分前に起きていたことに気がつくと、血相を変えてメイクを進めていったのだった。
授業十分前、まるで何事も無かったかのような、メイクも服もキマった彼女を眺めてから、僕らは再び眠りに落ちる。僕も牡丹も、別に早起きする必要は無い。今までどおり、起きているべきときに起きていれば良いのだ。
次に二人で目を醒ましたのは、三時半のこと。薊の授業が終わったらしい。食事を終えていた竜胆が部屋にやってくると、寝ぼけている僕たちに、明瞭に話しかけてきた。
「お菓子買ってきてよ!」
牡丹は顔を顰め、アンタが行けば良いのに、と不満そうに答えた。薊は大きく欠伸すると、どいて、とベッドに座っていた僕らに言い投げる。
「ボクは昼寝する。早起きだったし……」
「僕たちが起こしたんですけどね……せっかくです、目覚ましのためにも外出しましょうか」
「たかがお菓子のためにィ? どうせアンタ、食べたところで満足しないでしょ」
「う……す、するし! 昼ご飯には中途半端な時間だから、お菓子で良いの! 良いから買ってきてよ!」
竜胆はむすっとした顔で言い足した。牡丹は頭を掻くと、仕方ありませんねェ、と小さく息を吐いた。彼が一番のインドア派だから、外に出るのは好いていないのだけれど、この中で大人といえば僕か牡丹くらいだろう。
政府は言っている──外に出るのは、免疫のある人一人で良い。それ以外は家にいるべきである。世間が考えるほど、外出の自粛とやらは緩くはない。買い出しに家族を連れていく人がいるそうだが、かえって迷惑なんだそうだ。だから、牡丹と僕だけ。風邪一つひかない強靭さを持つ僕らが──それでも、煙草を吸うのは僕らだった気がするが──外出すべきだ。
はて、なぜ牡丹一人に行かせないのか、というと、彼一人だと何でも──そう、何でも──買い漁るからだ。一人でも監視役を用意しなければならない。せっかく良い機会だったのに、と口を尖らせる彼を引っ張って、僕らは昼下がりの街を歩いていった。
向かう先はドラッグストア。とはいえ、マスクや消毒液を血眼で買い漁るほど僕らは白痴じゃない。牡丹から要望があった「ナイトパウダー」とやらを買うのも一つのミッションだ。どうやらすっぴんでいるときにこれをつけておくだけでスキンケアになるらしい。これを買うためにも、牡丹と一緒に外へ出たのだった。
ドラッグストアの中は、清潔感のある白熱電灯が煌々とついている。棚にはぎっしりと薬が並んでいて、カラフルというか、情報過多だ。こんなに取り揃える必要があるなんて、製薬会社も戦国時代を歩んでいるのだろう。そこを通り過ぎれば、これまた情報過多なシャンプー・リンスの羅列。こんなに種類を取り揃えるほどに需要があるのだろうか。僕らの愛用するコンディショナーの部分は空になっている──こんなところにも買い占めの嵐が巻き起こったのか。
そのまま角を曲がると、ふわっと煙のように、僕たちにある香りが吹きつける──あの、化粧品独特の香りだ。粉っぽい、艶やかな、紫の蝶の香り。牡丹は少し大股になって売り場に入っていった。その後を追う僕は、まさしく蝶を追いかけた無垢な少女のよう。
牡丹の横顔が明るくなる。ファンデーションにくっきりと描かれた涙袋、赤く囲んだ目の周り、薄い色のリップ、ハイライトにシャドー。人形みたいな見た目をした彼が選んだのは、千円未満の缶一つ。デザインはガーリーで、一瞬化粧品なのか疑うくらいだった。
「それですか?」
「妥協点ですよ。センパイも何か買います?」
「いや、僕はメイクあまりしないので」
そう、と淡白に言うと、牡丹は心底嬉しそうな顔で缶を弄んだ。
美しくありたい──それは僕たち六人に共通した願いだ。もしもこの自己収容生活をただの怠惰な日々として消費したらば、昼夜逆転、食事も摂れず、死んだように生きていただろう。学校が始まったって部屋着でノーメイクだって良いのだ、学問に見た目は関係無い。だが、それを僕らは選ばなかった。ぶくぶく太って、不細工なまま生きることを拒絶した。ゆえの筋トレであり、ゆえのメイクだ。特にその願いが強いのは牡丹なのだが、その話は割愛する。
それよりもっと大事なものが目に入ったからだ。
お菓子売り場に行ったところで、牡丹が怪訝そうな顔をする。馬鹿みたいに笑った子供たちが走り回っていたのだ。牡丹は眉を寄せ、まるで汚いものが近寄ってくるかのように、その子供を避けた。しばらくして、母親の子供を呼ぶ声がレジの方から聞こえてくる。牡丹はその光景に、大きな溜め息を吐いた。
片手にポテトチップスを持つと、牡丹は少し屈んで、僕の耳元でこう囁いた。
「彼奴ら、マスク一つしてませんよ」
「ガスマスクをしたゾンビが存在しないのと同じ原理ですね」
「まったく、汚い体でこちらに寄らないでほしいものです。家族連れなんて言語道断」
「まぁまぁ、そうかりかりしなさんな。僕らだって『家族連れ』です」
レジに並んだ僕らは、走り回っている子供たちを止めようともしないで、前に並ぶ友人と歓談している母親たちを眺め、やるせない気持ちになるのだった。
もちろん、僕らは布マスクをしている──蜜柑が作ってくれたものだ。息を吸うたび、ティッシュの臭いがしてあまり快適ではない。僕も牡丹もあまり肺活量は高くないから、長い間していると苦しくて仕方無い。
レジにはぺらぺらの透明なシートが垂れ下がっていて、店員は手袋をして応対している。まるで感染区域の配給場のようだ。それだけ頑張って守ったところで、決して感染しないとは言い切れない。客人たちはこうやってあからさまに感染者らしい見た目をしているのだから、その恐怖ったらないだろう。感染するか、お金を得るか。他のアルバイトは店を畳んでしまっているから、ドラッグストアくらいしか毎日働ける場所など無いのだろう。
僕たちの番になると、トレーが置かれる。現金はここに置くらしい。もともと、僕らは現金を手渡しするタイプではないから構わないのだけれど。支払いを済ませて、ありがとうございました、と僕らも繰り返す。本当に働いていてくれて、ありがとう。日用品が欠けないでいるのは、彼らのような勇者たちがレジに立っていてくれるからだ。
外に出ようとしたところで、子供が邪魔をするように自動ドアの前に立っていた。さきほどの子供たちである。牡丹のへらへらした笑顔が一瞬にして消えて──彼の本性は、どちらかというとこちらだ──冷ややかな目で、無言で子供たちを見下ろした。子供たちは睨まれたことを受けて、蜘蛛の子を散らすように離れていった。
自動ドアの向こう、開けた公園には、これもまた青年たちが集まっている。マスクの一つもしていない青年たちが、スケートボードで遊び、その端ではまた子供連れの母親たちが歓談している。ベンチに腰を下ろし、老人たちが座っている。牡丹は顔に手を当て、また長い溜息を吐いた。
「ったく、平和ボケした奴らだ……」
「仕方無いでしょう、まだ若い子供たちを軟禁しておくのは不可能に近いのですから。親御さんの気持ちにもなってみましょう」
「で? ヒナゲシセンパイはこんな馬鹿なこと、まさかしませんよね?」
「僕はしませんよ。ダリアだってしないでしょう?」
「一般常識は持ち合わせてますからね?」
舌打ちをする牡丹に同情したいような、外を出歩く人たちに同情したいような。
牡丹はこう見えて、竜胆以上に「正しいこと」や「常識」が何かは理解している──一方で、お金を使いこむところとか、思いやりとやらが欠けているが。さらに言えば、この収容生活を一番に耐えてきたのは、おそらく彼だ。彼からしたら、「俺が苦しんだようにお前らも苦しめ」という考えなのだろう。
だが、それはあまりにも悍ましい正義の振るい方ではなかろうか?
外を出歩く人たちには──いわずもがな、今の僕たちもだ──各々事情がある。僕らのように、さっさと帰って自己収容に戻ろうとしている最中の人。子供を留守番させるのは不安だから、一緒に連れてきている人。ストレス発散のために、今日だけは、と考えて外に出て運動している人。もしくは、パンデミックなんて関係無く、いつもそうしているように、仲間と集っている人。
公園を過ぎると、また人がいなくなる。しかしながら、車は絶えず行き交っている。たいそう忙しなく、終わり無く。仕事が全て自粛に追いこまれたわけでもない。外に出なければならない人もいる。
明度の高い空を見上げ、小さく息を吐く。いったい、誰が正しくて、誰が間違っているのだろう。苛立つことは正しくて、正しくない。恐ろしくて、普通のこと。僕らが軟禁を受け入れていればこそ、僕らが辛抱してるからこそ、他人に興味を持たない牡丹ですら憤りを覚えてしまう。
誰かが言っていた──我慢ではなく、辛抱せよ。我が出てしまうのが我慢だが、辛さを抱きしめるならできるだろう、と。
嗚呼、阿呆抜かせ。お前らは辛さを抱いたことがあろうか。日々生きるのに苦しみ、死を願い、ただ独りでベッドの中で、泣きながら、時間を空費したことはあるだろうか。そうやって辛抱したことがあるだろうか。辛抱も我慢も、変わったもんじゃない。言葉を変えて、この苦しみを美化しないでくれ。
「まぁ、ここは見逃しましょう。僕らには関係無い、でしょう?」
「ゴキブリみたいですよね。一人感染者を見たら百匹はいると思え、って。その分数字が増えて、また政府の説得材料になってしまう」
「だとしても、本質的には関係無い。僕らが辛抱した時間と、彼らが辛抱した時間は、分けて考えるべきです。
相互理解なんて、不可能なんですから──」
僕がそう口にすると、牡丹は顔を背け、悪かったです、とぶつぶつと呟いた。どうして謝られなければならないのか。彼が謝る必要なんて、何一つ無いのに。
「僕らの行動が、誰かの命と、僕らの命を守るんです。未来を守ると思って、感染者を恐れて家にいましょう。ね?」
「そうですね。こうまでして守る命に、少しも価値を感じないけれど」
「そう言わないでください」
時々、こうして他人を妬んでまで辛抱することに意味を感じなくなる。そうしてまで生きることに、何のメリットも感じなくなる。世界なんてこの感染症騒ぎで滅んでしまえと、雲の隙間から美しい白い光を覗かせる空に望んでしまうこともある。生きることを辛抱しているのに、これ以上何を辛抱したら良いか、分からなくなる。
それでも、せめて今日買ったナイトパウダーを使い終わるまでは生きないと、割に合わないだろう。牡丹の肩に手を回し、それ、楽しみですね、と声をかける。翌朝肌の調子が良くなっているか、悪くなっているかは、明日まで生きないと分からないのだから。
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