十一日目

 春の群青はどこへやら、今日は再び鉛の曇天。春の天気は三寒四温。つんと鼻を突く刺激臭のする部屋にて、私たちは今日も眠気と共に生活を始めた。

 今日は朝から薊が活動していた。どうやら今日から学校が始まったらしい、赤いイヤホンをしてパソコンに向かい合っている。話しかけるのも野暮かと思ったのだけれど、雛芥子は呑気に声をかけていた。すると、薊はくるりと振り返り、極普通に、なに、と答えたのだった。

「おや、授業を受けてるんじゃなくて?」

「……というか、何してるの?」

「何って、ネイルだけど。さっきエナメル薄め液を買ってきたから、久々にバーガンディカラーのネイルを──」

「いや、本当に何してるの?」

 思わず二度も聞いてしまった。寝ていたら隣に剛速球が来たくらいには驚いてしまった。

 授業中にネイルをしているなんて、先生に知れたらどうなることやら──そう言おうとしたら、薊が画面の右下を指差した。マイクもビデオも非表示になっている。なるほど、今はただラジオを聴いているのと差異は無いようだ。

 雛芥子が吹き出して、だからって、と呟く。薊はまた共有された画面を見ながら──ミュートなのを良いことに──話し始める。

「一回目はガイダンスだから、基本はビデオも音声もオフだよ。ガイダンスなんて、紙に書いてあることを確認するだけだし、重要事項が分かれば良いでしょう」

「どんだけ不真面目な学生なんですか……」

「向こうが知らなきゃ、何やったって良いんじゃねぇのォ? 話聴いてないわけじゃないし」

「アザミって結構無礼よね」

 んだよ、と声を曇らせ、薊が威嚇する。雛芥子は苦笑しながら、私と一緒に映し出された画面を眺めた。

 薊の心に秘めた無礼さは、悪いことばかりではない。ゆえにこそ、彼女は誰をも平等に眺める。年上の上司も、年下の後輩も、教授も生徒も、彼女の目の前では全てイーブンだ。もちろん、牡丹同様、外面は非常に良い。きっとこの中で一番礼儀正しく振る舞えるのだろう──その反動がこれである。

 さて、画面に映し出されたシラバスには、スペイン語の授業計画が書かれている。といっても、紙面は非常にさっぱりとしている。授業はオンライン・ミーティングで行われ、教科書とプリントを──各自で印刷する──元に進めていく。評価は試験二つのみだ。大学側から外出の自粛を迫られている中で、二時間かけて学校へ行く必要は無い、ということだ。

 試験方法もユニークで、画面に示した問題を見ながら、各自オンラインで回答を入力し、そのデータを提出する、とのことだった。まるで予備校時代に受けていた授業のようだ。私たちが感心していると、イヤホンをつけた薊が、なるほどなァ、と呟いた。

「何が『なるほど』なの?」

「いや、質問があったらしくてよォ。『オンライン試験だと、タイピング速度で差がついてしまう』ってさ」

「それは確かに、『なるほど』ですね……想像したことも無かった」

 雛芥子と私も納得する意見だ。私たちは皆、パソコンやスマートフォンを使いこなしている。特に薊と蜜柑は、普段から執筆に勤しんでいるから、最初こそ不慣れだったブラインドタッチも、三年目の今となってはかなり慣れていて、入力速度も速い。日本語を打つのが得意であれば、他の言語を──アルファベットを使う言語に限るが──打つのも得意だろう。

 しかしながら、若者は皆機械を扱うのが得意とは限らない。それは、老人が皆機械が使えないと考えるような愚かな発想だ。さらに言えば、問題用紙を見ながら自身のファイルに回答を打ちこむのも、慣れていなければ難しいだろう。

 薊はネイルしたての爪を避けるようにして頬杖をつき、しかしなァ、と愚痴を漏らす。

「いくらリモート・テスティングが好き勝手できるとはいえ、時間制限が短いのは感心しねぇよなァ」

「リモート・テスティングって造語ですよね?」

「んなこたァどうでも良いだろうが。とにかく、ネット環境が悪い奴がアップロードに失敗したら御陀仏だぞ」

「そういう人はそもそも、オンライン授業すらままならないんじゃないかしら」

 蜜柑も薊も造語を作るのが大好きらしい、そういうところが厨二臭い。

 閑話休題、こうして学校に直接行かなくても授業を受けられるのは、今日の情報社会特有の事象だ。そして、情報社会はとてもコストがかかる。一人暮らしの学生なんかは、ネット環境を揃えるのすら大変だろう。しかも、四月中にそれらを揃えねばならなかったのだ。こういうときに、私たちが富んでいると感じる。政府から供給された十万円を、きっと趣味に使えるのだろうから。

 薊は、バーガンディに塗り染めた爪に、いよいよトップコートを塗る。ガイダンスも終わったようで、学生たちが退出していった。私たちもまた、退出して、今日の講義を終えるのだった。

「講義一日目、終了。明日からはビデオ通話もありだから、邪魔しないように」

「明日も十時からですか。昨日みたいに夜更ししないでくださいよ? 僕らは起こせませんからね?」

「ちゃんと真面目に授業を受けなさいね」

「はいはい、分かってますって。久しぶりすぎて、トルコ語喋れるか心配なんだけど……」

 我々は非常に怠惰な学生なもので、二月は塾の仕事が立てこみ、三月は創作に羽を広げていたから、勉強なんて一切していなかった。そもそも、我々の今の目標は、余計な対人関係など放り投げ、余計なブランドなど放り投げ、就職するために卒業することだから、単位さえ取れれば良い、という話だ。ここから巻き返すためにも、勉強時間は多くとってほしいと思う。

 これだけ自由に授業を受けられるのは、自己収容生活もとい外出の自粛の良い点だ。朝八時に家を出て、一時間眠りこけて、それから授業に出て、という日々は非常に大変だった。途中でパニック発作を起こしたり、貧血を起こしたり、貧弱な私たちにとっては、授業を受けるよりも難しいことが連なっていた。

 されど、今は自己収容中。外出を控え、感染者に接しないようにする──そんな大義名分を掲げながら、授業時間より一時間前に起きて、メイクをして、着替えて、授業を受けて。家にいながら、生活リズムを整える機会を大いに利用する。そんな日々の、なんと気楽なことか。

 講義を終えた薊は、蜜柑や牡丹、竜胆のいるリビングへと降りていく。私と雛芥子も、家事をしに、いつもの場所へと降りていった。たとえ授業が始まっても、六人の自己収容生活は終わらない。戒厳令もどきが終わるのは、まだ二週間も先の話なのだから。

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