十日目

 大きな窓から入ってくる光ごときでは、過眠性鬱病を穿つことなどできない。日光はただ時間を示すだけにあり、電気代を減らす程度の役割しかなさない。

 明日から授業だとて、八時に目を醒ましたボクだったが、十二時を回る頃、まどろみを誘う悪魔に取り憑かれて、大きな欠伸をしている。夜色のマントでボクを覆い、所構わず、時を問わず、ボクを再び眠りの世界に引きずりこもうとする。

 寝るのは確かに幸せだ。だが、眠っているのは苦痛だ。悪夢から逃れられず、怠惰が義務を呑みこんでいく。残るのは、浪費した時間と信頼への罪悪感だけ。存在しえない幸せを見せては、非情に去っていく夢にただ崩折れる日々。

 眠りたくは無い。寝たい。同じ争いを、何度繰り返しただろうか。家に引きこもるようになって、日々を空費していくことが多くなった──その大半が睡眠によるものだった。まどろみ、一時間を、二時間を、三時間を消費する。朝に眠って、昼に眠って、夕に眠って、夜に眠らず。

 葛藤に苛まれたまま部屋を出ると、隣の部屋から、熱い熱い、と大きな声が聞こえてきた。眠たい頭には厳しい刺激だ。頭を掻きながらそちらへと向かうと、ベランダへ続く窓が空いていた。

 我が家のベランダはほとんど死んでいた。あまりにも狭い上に、誰にも洗濯物を外に干す余裕が無いからだ。時折布団を干す程度にしか扱われない。

 窓を開け放つと、わずかな日陰で身を縮める影があった──竜胆だ。スマートフォンを片手に、ベランダの片隅で体育座りをしている。

 柵の向こう、見下げた世界には、人はいない。昼間だというのに、散歩する老人も、騒ぎ立てる少年少女もいない。全国各地に出された厳戒令に肝を冷やして、おとなしく家にいることにしたのだろう。

 さて、目の前の少女はどうしたものか。黒いパーカーを着込んで、黙々とスマートフォンを弄っている。ボクも声をかけようとして一歩踏み出した刹那、足がぶわっと焼けた──いや、焼けてないのだけれど、それくらいの激痛が走った。

「あっつ! なにこれ!」

「あ、アザミ。早く日陰に入らないと火傷するよ」

「っ、熱い、なにこれ……」

 竜胆に言われるがまま、ボクも細い日陰に足を置いて、顔だけを日向に出した。人二人が座れるだけのスペースはあったのが救いだ。

 燃え上がるような日向のコンクリートとは違い、日陰は涼やかで心地良い。溜め息を吐くと、空を見上げた。

 春の群青色だ。白い雲がふわふわと浮かんでいて、うららかな陽気を作るは煌めく太陽。しばらく空なんて見ていなかったけれど、数日見ないくらいで変わることなんて無い。記憶の中にある春空がそこにあるだけだ。

 外に出たのは何日ぶりだろう。昨日までは曇天が続いていて、挙げ句の果てには雷雨になった。そうでなくても、窓からの日差ししか受けていない日々が続いていた。

 大きな欠伸が一つ、こぼれ落ちる。日差しを浴びたって、結局眠いじゃないか。むしろ、心地良く涼しい橙色の温風がボクを包んで、束の間の眠りに誘っている。

 ふと、竜胆の方を見る。画面から顔を起こした彼女は、空を見上げて、にんまりと微笑んだ。眼鏡が太陽に照らされて、きらんと光っている。

「今日こそ日光浴できた!」

「日光浴?」

「アザミはネット見てないの? 在宅勤務者に必要なのは、適度な水分と、運動と、換気と、何より日光浴だってさ! なんか植物みたいじゃない?」

「植物は運動できねぇからなァ」

 植物に必要なのは間接照明ではなく、太陽の光そのものだ。養分を作り、成長するためには、日光が一番である──もちろん、水分も必要ではあるが。

 日差しを浴びていると、なんだか生きている気がする。目を閉じて思い出すは、学校へと向かう桜並木。春になると、満開の桜が散ってボクへと降り注いだものだ。閉鎖された東京にて、桜は人の気持ちも知らずに散っているのだろう。

 ボクらがこの軟禁生活から解放されたときには、きっと外はもう蒸し暑くなってしまっていて、こんな陽気は拝めないのだろう。

 竜胆は大きく伸びをすると、そろそろ戻ろうかな、と呟いた。

「もう良いの?」

「うん。ほら、時間が経つほど熱くなるし。靴下履き忘れたし」

「ベランダに出るのにスリッパ無しとはなかなかやるよな」

「アザミだって忘れてきたくせに」

 そうだ、だから痛い目を見たのだ、文字どおり。ここから室内へは、少なくとも二歩は必要だ。両足が犠牲になる。

 竜胆は意を決したように立ち上がって、物干し竿に頭をぶつけかける。それから、ひょい、ひょい、と二歩進んで、熱い、とまた悲鳴を上げたのだった。赤い靴を履いた罪人みたいだ。

「絶対火傷したー! 足ひりひりするー!」

「アンタがスリッパを持ってきてくれれば良いのに」

「やだ」

「やだってお前……」

 意地悪な奴である、死なばもろともだろうか? ボクも立ち上がって、できるだけ設置時間を短くして跳んだのだが、やはり両足を着いてしまった。ジュッと音のしそうな熱さだ、足がただの肉として扱われている。なんとか部屋に辿り着くと、竜胆の言うとおり確かに足がひりひりと痛んだ。

 閉まった窓はすりガラスで、ベランダはもう見えない。日差しは遮られ、また時計の代わりしか果たせなくなった。白い壁に阻まれた、遠い太陽を呆然と眺める。

 嗚呼、でも、悪くないかもしれない。人間は太陽の子だ。子供は風の子だ。外の空気を吸うだけで気分が良くなった日を思い出す。

 明日からも外に出ることは無いだろう。授業はオンラインで行われるし、シフトは未定だし、感染者数は増え続ける。されど、日向ぼっこくらいなら許されるだろうか? そう思うと、まるで童心に帰ったような気分になる。

 明日はスリッパを忘れないようにしよう。これ以上足を焼かれてはたまらないから。

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