九日目

 これより日本は、全国に緊急事態宣言を発令致します──

 六人がリビングに集っていたときのことだった。総理大臣がマスク越しに神妙な顔をしていた。メディアは狂ったようにフラッシュを焚いていた。

 雷の音が聞こえたとき、人々は何を思うだろうか。洗濯物を心配するだろうか。雷神に恐怖するだろうか。稲光に興奮するだろうか。喧しいと苛立つだろうか。

「……あっはははははははッ! 最高! リアルゾンビゲーだよ、これ!」

 牡丹は雷鳴に熱狂するタイプだった。曇り空に走る紫の閃光、岩を砕くような轟音。部屋を真っ暗にして、遠くの空を眺める。

「これは……困ったわね、本当に一ヶ月後に解除されるのかしら……」

 秋桜は帰りの電車を気にするタイプだった。あたしたちの家はローカル線沿いだから、停電したらお終いだ。雨の降りしきる中帰るのは止めて、おとなしく雨宿りしている。

「事実は小説より奇なり、ってね。いやはや、まったく、愉快なもんだよ。小説のネタになるね」

 薊は雷を眺めに外に出るタイプだった。豪雨ですらものともせず、できるだけ空の見える道に出ていく。近場で落雷したらば、歓声を上げてその様を目に焼きつける。

「佳境に入ってきたね。まぁ、物語としてはこれからが一番面白いんだけど……」

 蜜柑は荒れる世界を傍観するタイプだった。事を大きくして、まるで世界が滅ぶような妄想をする。人々がどう反応するかを楽しみにする。

「あ、でも、現金が給付されるみたいです。製本代の足しになりそうですね」

 そして雛芥子は、多少のことでは動じないタイプだった。雷だろうと雪だろうと豪雨だろうと、帰るのは一緒。仕事に行くのは変わらない。ならば、天候なんてどうでも良い。

 じゃあ、あたしはどうなのか。

 あたしは雷を怖がるタイプだった。我が家に落ちたらどうしよう? 帰れなくなったらどうしよう? 停電したらどうしよう?

 だから、此奴ら全員おかしいよ、と思った。何を悠長なことを!

「日本全土が危機に曝されてるのに! お前ら、本当に呑気な奴!」

「何をいまさら。そろそろ授業が始まりますし、来週からは仕事にも入れるようになるはずですよ。カウンセリングも電話で行われるようになって、外出の必要は無くなりましたよ」

 答えた雛芥子は自若な様で紅茶を飲んでいる。足を組んで、王様みたいな貫禄だ。白い壁に映える、ゆったりとした亜麻色の緩い三編み、甘くとろけた蜂蜜色の瞳、端正に揃ったパーツ。彼だけはいつもそうだ、現実から切り離されて浮いている。その豪胆さが羨ましい。

 たいていのサバイバルホラーは、ワクチンを探すところから始まるはずだ。今回の感染症も、一つの噂には、どこかの研究所から漏れ出したウイルスだなんて馬鹿げた話がある。ならば、その研究所へ向かって、ワクチンを作ろう、そういう展開になる。

 だが、ワクチンなんてそう簡単に作れないし、事実、ワクチンはまだ存在していない。ただただ向かってくる感染者を完膚無きまでに打ちのめし、感染源を断つことしかできない。しかし、感染者を殺して隔離することなんて、今の人道的な世界でできるだろうか?

「治る見込みの無い病から逃れて自己収容生活……うん、やっぱり小説としては完璧だね」

「ミカンまでー! もっと危機感持ってよ! あたしたち外に出られないんだよ!?」

「まぁ、それもそうだけど。そろそろ惰性で生きるのも慣れてきたし……」

 何が「惰性で生きるのも慣れてきた」だ。あたしはもう、白い壁も、薄茶のフローリングも見飽きた。納豆とツナ缶も食べ飽きたし、勝てないゲームもやり飽きた。部屋でじっとして、布団に入って昼寝するのも飽きた。日々安定剤を何度も飲んで生きているのに。良い子にして家にいたって、状況は好転しない。

 そんなの、生き飽きてしまう。

 そう考えると、急に胸が塞がるような気がして悲しくなってしまった。あたしたちはもう、外で遊べないの? 友人と対談することもできないの? いったいいつまでこれが続くの? SNSもやめて、面倒な人付き合いも捨てて、人と繋がらなくなったあたしたちは、緩い軟禁状態だ。今までは家にいたって、誰かの女神面をして人との関わりを保っていたのに、今やもうそれも止めて、営業スマイルも営業ファンも止めて、独りきりになってしまった──

 ……いや? 元から独りきりだったんだ、あたしたちは──

「そんなに思いつめんなよなァ、リンドウ。ボクらはもう、一ヶ月も上手くやってきただろォ? 一ヶ月ができれば、二ヶ月もできる。二ヶ月ができれば、きっと年のクォーターだって生きられるさ。それに、ボクらがいるんだからなァ?

アンタは独りじゃねぇんだよ、ボクらが独りじゃねぇようにな」

 薊がそう言ってあたしの頭を撫でる。あぁ、薊に撫でられたのは初めてかもしれない。だってこの人、いっつもあたしのこと引っ叩いたり怒ったりしたりするから。でも、あたしはそんな薊も嫌いじゃない。いつだってあたしたちを導いてくれるのは、薊だから。

 窓の外は四角い曇天、ゴロゴロと雷が鳴って、ビュウビュウと風が吹いて、ザアザアと雨が降って。騒がしくって暗くって、世界ごと洗い流されてしまいそう。あたしたちはまるでノアの方舟に乗り合わせた仲間みたいだ。一歩外は洪水。サファイアのガラスの水面下、街には死んだ顔をした感染サラリーマンが彷徨うように歩いていく。

 白い壁に囲まれた、大きな船の中、あたしたちはもう一ヶ月やってきたんだ。誰もいないわけじゃない、あたしには、あたしたちには、あたしたちがいるじゃないか。

 コントローラーを強く握って、テレビのチャンネルを変える。もう幾度も見てきた画面を睨みつける。爽やかな笑顔を浮かべたキャラクターが現れる。嗚呼、ムカつくから、ゲームでもやってやろうじゃないか。

「あ、良いところだったのに……」

「情報からも自己収容! 見てても不安になるだけだし!」

「社会的刺激を失った人間は発狂するって心理学の講義で聞きましたけど」

「いいのー! ほらダリア、やるよ!」

 牡丹に無理やりコントローラーを持たせて、スタートボタンを押す。これ以上ニュースを見せていたら、此奴がノリノリで不安の種を撒きはじめるだろうから。

 情報の海を征くは、あたしたちの船。六人しか乗っていない船。誰かを乗せる余裕も無い船だ。誰かに構っていられるほど、あたしたちには余裕が無い。苛立つクソ女も、哀れを止めるメンヘラも、自己顕示欲に取り憑かれた亡者たちも、不安も恐怖も、あたしたちには関係無い。全員沈んでしまえ!

 秋桜は食器洗いに戻って、蜜柑は洗濯物を畳みに戻る。薊はさっきから続けているプレイリスト作りに勤しんで、雛芥子は積読消費に戻る。それで良い。目的地に着くまでにはまだまだ時間がある。遠くへ、遠くへ、新しい生命を宿す遠くの星へ。そんな気分でいる方が、自己収容しているなんて言葉よりずっと聞こえが良い。

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