十四日目

「あああああーッ! 気ィ狂うーッ!」

 四畳半に響き渡る叫び声。白い壁の牢獄の中で、寝間着の囚人が発狂する。檻を掴み、揺らし、手紙を破り捨てようとする。そんな様だ。

 ゲームの周回をしていたアタシと、部屋で横になっていた秋桜とが同時に頭をもたげた。特に、秋桜は眉を寄せ、怪訝そうな顔をしている──うたた寝を邪魔されたのだから当然だろう。目を擦りながら、起こさないでよ、と蚊の鳴くような声で口にする。

 ぐるりと振り返った薊は、悪鬼のような顔で秋桜を睨みつけた。思わずアタシたちも息を呑む。彼女は蜂蜜色の目を細め、歪めた口から大声を出した。だいぶやけになっているらしい。

「あぁ⁉ じゃあテメェが翻訳しろってんだよ! テメェがやんのか⁉」

「くわばらくわばら……アザミの威嚇は何度聞いても百点満点だな」

「馬鹿にしてんじゃねェ」

 軽口を叩いたのは油に水だったらしい、アザミは歯を剥いてこちらを威圧した。

 薊がやっているのは、授業で出た課題だ。彼女が専攻する言語で書かれた論文らしき文章を翻訳してくるのが宿題となっている。しかしながら、想像してみてほしい、英語ですらかつ論文は難しい、いわんやトルコ語をや、という話である。小さい文字でびっしりと書かれた、句読点もへったくれも無い長文を一つひとつ分解していく様は、まさに巨大な蛇の鱗を一つひとつ剥がすよう。その労力ったら無い。

 終わった文章には蛍光ペンで色をつけてある。もう一ページ終わっているのだが、彼女が机に向かい始めてからかかった時間は実に、四時間。四時間と少しで一ページである。

 大学の講義は、十五時間の講義と三十時間の学修から成るというから、一時間につき二時間の学修を要するのは当然のことと言えよう。しかしながら、この授業はもちろん「講義」ではなく「演習」である。一時間の学修時間を──つまるところ、九十分──考えると、「ブラック演習」とでも呼ぼうか。四時間以上かけるなんて、あまりにも割に合わない。いくら何かをしながら作業をしていたとしても、薊が心を壊すのも当然といったところか。

「テメェらがやるかァ、コレ? ボクはもう見飽きた! 気ィ狂うぜ、こんなん!」

「え、遠慮しておきます……というか、トルコ語が読めるのは貴女だけでしょう」

「わーってるけどさァ……あー、小説書きたい。頭ン中でずっとアイディアが飛び回ってんだよ。ボクはこんなことしてる場合じゃねェ……」

 薊はそう言いながらろくろを回すポーズをしてみせる。彼女もまた、作家の端くれだ。あくまで趣味として、アタシと共同執筆している。本業が執筆のアタシと違って、本業が学問なのが彼女だ。

 数日前に思いを馳せる。まだ学校が始まっていなかった頃は、アタシたちの生活は怠惰一色だった。霞を食って生きる生活が現実になるなんて、パンデミックの前に思ったことなんて無かった──「働かなかった」のではない、「働けなかった」のだが。その代わり、人間は押さえつけられると芸術に逃げるものだ、フラストレーションを芸術へと常に昇華していた。

 意識せずとも休めていた薊も、今では立つのも忘れて翻訳作業に没頭している。まるで在宅勤務だな、と思ってしまうのは、アタシだけだろうか。

 秋桜は布団を畳み、ベッドに座ると、水の入ったコップを薊に手渡した。薊は腑抜けた顔で秋桜を見上げる。飲みなさい、と言う秋桜、おずおずと水を飲む薊。シュールな絵面に、今日の日記はこれにしよう、と胸中で決めたのだった。

「水分補給も怠って。ずっと休んでないでしょう。換気も日光浴もしていないでしょうに」

「ま、まぁ……授業だったからね」

「窓も開けておくから。そうそう、運動もしてないでしょう、少し動きなさい」

「でも課題が──」

「良いから。まだ期限は先なんだから、少し休みなさい」

 窓を開け放つと、夜の薄ら寒い空気が入ってきて、アタシたちは意図せず身震いした。あぁ、もう夜か、と言う薊の声に力は無い。布団に横になって、怪物の鳴き声みたいに唸っている。

 在宅勤務もとい、「在宅学習」の怖いところは、休めないところだとアタシは思う。今まで苦痛に感じていた往復四時間の通学時間は、ある意味でアタシたちに休憩時間を与えていたのだ。往復で二時間近く眠りこけているのを責めていたこともあったが、むしろそうまでしないと活動ができないほど、学修とはハードなものなのだろう──他の大学生は知らないが。そう思うと、授業中に寝ている学生たちを容易に責められなくなってしまう。

 誰にも監視されていないからこそ、誰にも保護されていない。教室という場所は、いろんな意味で目が行き届いているのだろう。休憩時間が十分しか無いのはどうかしているとは思うけれども。

 冷風に当たる薊は、真夏に金属の上で溶けているフィギュアのよう。こうなるともう二度と戻ってこれない。薊はそのまま寝ようとするので、アタシが引っ張って風呂場へと連れて行った。入浴するのも、在宅勤務においては大切なことである。

 残ったアタシと秋桜は、互いにカフェインレスコーヒーを飲みながら、長い長い溜め息を交えるのだった。

「ちゃんと勉強するようになったのは、良いことだけどね。今までは帰ってきたらすぐ寝てしまって、土日はバイトで埋まってしまって、たいてい復習や課題が後手に回ってたから」

「そうね。彼女が他にやるべきことは、できるだけアタシたちが代わってあげないと。アザミはしばらくこの様子だろうから」

「どうして? まだやりたいことをやるだけの気力も体力も余っているじゃない。まだできることはあるのに──」

「そうじゃなくて。やりたいことをやるのにも、気力が要るべ?」

 秋桜が手で小槌を打つ。赤い目を丸くして、きょとんとした顔をしている。白々しいわけでもなく、本当に分かっていないのだろう、考えを咀嚼している様が悩ましい。

 学業を疎かにしてきた仕事人間には分からないだろうが、学生とはそんなに退屈でもないのだ。講義と学修に時間を使ってしまうと、それだけで気力が尽きてしまう。アタシたちのように元から源泉が枯渇し気味な人はなおさらだ。気力が有り余っている人はきっとアルバイトか部活をしているだろうし、アタシたちなんかよりもっと多い単位を取っているのだろう。アルバイトをしている人なんてのは、気力をお金のために──つまりは、自分の趣味だとか、生活のために──使っているのだから、よりいっそう退屈ではないだろう。

 気力が尽きると、いくら「やりたい」が溜まっても、できないまま布団に吸いこまれていき、眠れないくせに動けない、そんな虚無の時間を過ごすこととなる。勉強の休憩に趣味を、なんて、本来は成り立たないのだ。ここまでずっと「やりたい」の数々を消費できたのは、アタシたちに何のタスクも課されていなかったからだ。

 秋桜はこういうとき、自分を追いつめてしまいがちだと思う。彼女は、体力が有り余るなら何でも、気力が有り余るなら何でも、と自らを消費してしまいがちだ。だってできるじゃない、と言う彼女は、もう自分がバテていることにも気がつけない。必死に心が拒絶している苦痛を、できるからという理由で請け負ってしまう。

「在宅勤務の『勤務』が要らないとは、言い得て妙だったわけだよ」

「そうかしら。ずっと怠惰なジョークだと思っていたわ」

「それが怠惰だと思うなら、アザミと交代しよう、って話だな。アタシは英語は読めても、トルコ語は読めないから……スペイン語もあるみたいだし」

「今度考えてみようかしら。少しなら彼女のやっていることも分かっているつもりだから」

 顎に手を当て、斜め上を向いて、そんなことを呟く彼女は、全く分かっていないようだ。代わってあげようという優しさは大切だけれども。怠けようという発想が少しも無いところが、牡丹なんかとは全然違うな、と思い知らされる。

 いずれにせよ、いくら家にいられるからといって、その分自分を痛めつけるのが正解なんて、誰も言っていない。大学生は外出を強制されなくて暇なんだから、その分勉強くらいしろ、と言う頭のネジが外れた人々に中指を立てて、人間並の生活を選ばなくてはならない。この白い壁の中には、自分自身しかブレーキを踏める人は存在しないのだから。 

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