七日目

 結論から言うと、ガチでやりやがったよ、彼奴。

 バイトも授業も無くなって、ほとんど外に出ない生活をしはじめ、早一週間。小説を書いたりだとか、SNSを断ったりだとか、昔のゲームにハマったりだとか、凄まじく手の込んだ──いや、別に丁寧ってわけじゃない、時間がかかっただけだ──イラストを描きあげたりだとか、できることはいろいろやってみた。体調を悪くしたり、逆にハイになってみたり、安定剤の量を増やしてみたり。ボクたちなりに、上手く自らを収容したつもりだ。

 なぜなら、ボクらは皆、無自覚に感染者になっているかもしれないから。逆に、無自覚に感染者となった人に出くわすかもしれないから。サバイバルホラーの登場人物としては、順調に生存フラグを立てていたはずだった。

 ボクがまどろみから醒めると、黒い布マスクをした牡丹がボクを見下ろしていた。左手にはコンビニの袋を持っていて、中には黒い何かと青いカードが入っていた。

 飛び起きて、牡丹の胸倉を掴む。それから彼のネイビーのパーカーから、財布を奪い取った。三百均の小洒落た財布の中に、紙幣は一、二、三枚。ボクが呆然として手を離すと、牡丹はにへらっと笑って布マスクを外した。

「こんだけ課金すれば、あのキャラも手に入るっしょ」

「……だーりーあー? テメェ、何したか分かってんのか、あぁ?」

「だって、給料日には一万七千円入るわけでしょう。支払いは一万五千円で、もう口座には入れてある。締日は五日。外出はしない。どうやってお金を使うって言うんです?」

「馬鹿、貯金するっつったのはどこいったんだよ!」

 振り回すボクに、牡丹は無防備に揺さぶられている。まぁまぁ、と変に穏やかな声色でボクが寝ていた隣に座って、カードを開封しはじめた。

 今までボクらは、いくどとなく彼に負けてきた──そう、くっだらねェ課金をしてきた。別の譜面が得られるだとか、確定でSSRが引けるだとか、そういう商売根性丸出しな誘いに乗っかってきた。目先の欲に負けてきた。

 煙草を止めれば車が買えるでしょうね、なんて文句がある。まったくもってそのとおりだ。少しの我慢ができなくて、手を伸ばして、挙げ句の果てに無駄遣いの山が出来上がる。課金を止めれば、こんな安いルームシューズなんて履かなくて済んだでしょうね、えぇ? もこもこだからって毎日履き慣らして、いつかはぼろぼろになってしまうだろう。

 ふてくされるボクの気持ちもつゆ知らず、牡丹はにやにやしながらスマートフォンの画面を見つめている。可愛いなァ、とときおり呟く彼も、立派なオタク様。画面を覗きこんでみれば、いかにも消費者を煽るような扇状的で優美なイラストが映し出されている。

「ほら、可愛いでしょう。アザミもこのキャラ、欲しかったんでしょう?」

「そりゃァ、欲しかったけど……! 不要不急の外出をするだけでなく、金の無駄遣いまでしてくるなんて、貴様はァ……!」

「『三密を避ける』でしょう、分かってますよ。行ってきたのはコンビニですし、平日の昼下がりに人気なんてあるわけないでしょう」

「金は? 金はどうした? 五千円だぞ?」

「五千円で後悔を退けたんです、良いじゃァありません? オタクってそういうものでしょう?」

 牡丹は肩を竦め、ゲームに戻ろうとする。無理やりスマートフォンを奪い取って、ボクの隣に置いた。子供じゃないんだから、口を尖らせなんてしないでくれ。

 毛布の代わりにしていたマフラーを羽織ると、姿勢を正した。

「何でも良いけど。本当に我慢できなかったの、ソレ?」

「イベント期間が明日までだったんです。今日気がついたんですよ、このイベント回れば欲しかったキャラが手に入るって……」

「五千円だよ? 二日でようやくまかなえる。今、シフト、ゼロだよ? どこからその五千円は湧いて出てくるの?」

「だから、給料日が近いから──」

「いつこの事態が終結するかも分からないのに? ボクらが働けるのは何日後になると思ってるの? 一番遅くてもゴールデンウィーク明けだよ?」

 ボクが声を荒らげると、牡丹は口を閉じた。怒りも悲しみも無い、無表情でボクを見つめている。黒真珠の瞳に光も影も無い。モノクル越しにボクを冷ややかに見つめているだけだ。

 牡丹に怒ったボクの方が、体の芯に侵食してくるような寒気を感じた。マフラーを羽織っても、ルームシューズを履いても、寒くて寒くて仕方無い。エアコンの温度設定は二十六度、それでも寒い。

 嗚呼、寒い。

 冷えきった頭では、怒る気力すら無かった。代わりにあったのは、諦観の嘆息だった。

「……悪りィ、言いすぎた」

「謝って、なんて一言も言ってないんですけど」

「ボクが謝りたいから謝っただけ。追いつめられてるのは皆同じ、だよね」

「申し訳無いことに、『僕が悪い』とも『アンタが悪い』とも少しも思わないんですよね。お金の使い方に正しいも悪いも無いし」

 牡丹はそう言って遠くを見やった。その横顔を見ていると、蜜柑にも、秋桜にも、もちろん雛芥子にも似ているな、と思う。生気のある声で話すくせに、ふとした瞬間、虚ろな目をするのだ。黙って真っ直ぐ前を見ている様は、無駄にでかいだけで電源の点かないテレビを視聴しているようだ。彼の目には、何が映っているんだろう。

「それに、僕は一応、娯楽だけは守ろうと思ってるんですよね。そこにお金を割かないと、暇を潰すこともできない。コスモスが美容に金をかけるのと同じ。生きるのに飽きないように、金を使ってる」

「……そんなこと言わないでよ」

「あは、どうしてアンタが落ちこむ必要が? ほら、怒ってくださいよ。無駄な金使いやがって、って」

「『無駄』なのは譲らない。でも、怒る気にはなれない……」

 自己否定は、できない。しようとすると、腹の底が冷えて、寒くて仕方無くなる。自分が牡丹に頭を下げさせようとしていたんだと考えるだけでぞっとする。同じ理由で、ボクが悪い、とも言いたくない。

 だって、もう四週間だ。四週間も、牡丹は自分の趣味を封じられている。ゲーセンに行って、カラオケに行って、不要不急の買い物をして、美味しいワインを飲んで──廃れてはいたが、幸せではあった日々だ。

 貧しさは人を愚かにすると思う。そんなこと、極普通の中流階級のボクたちが言ってはいけないんだとは分かっている。でもきっとそういうことではなくて、心が貧しいから、物が欲しくなる。竜胆は過食に走って、牡丹は浪費に走って、空いた風穴を塞ごうとしてるんだと思う。

 スマートフォンを返して、冷蔵庫に向かった。残り一つの豆腐のパックと、残り一つのハンバーグと、やけに揃った調味料が並んでいる。お菓子を入れた缶の中も、袋一つ残っていやしない。お金があるなら、お菓子くらい買いに行けば良いじゃない──二ヶ月前のボクはそう言っていただろう。

 貧しいな、と呟く。貧しい。心が貧しくって仕方無い。安定剤でその貧しさを紛らわせるのは、貧民が麻薬に逃げるのと同じメカニズムなんだろう。

「お菓子なら無いですよ」

「知ってる。昨晩、竜胆が食い漁ったんでしょう」

「ポテチ食べてヨーグルト食べたところで止まったんですから、まだ良い方でしょう」

 振り向いて肩を落とすボクと、涼しい顔をしてスマートフォンを眺めている牡丹。なるほど、紙幣を灯した火に当たる彼奴の方が満たされていそうだ。ボクは人肌を求めて、のそのそと落ちぶれた熊のように歩いていって、牡丹の隣に座った。

 四人のいないリビングはあまりにも広くて、暖房は行き渡らない。エアコンの真下たるソファにいるのが一番暖かいはずだ。牡丹に肩を寄せて、画面を覗きこんだ。あ、と牡丹が呟いて、画面内のキャラクターが死ぬ。

「死んだ」

「……ハッ、雑魚」

「アンタのせいでしょうが。コンティニューしますよ」

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