三日目

 最初に聞こえてきたのは、竜胆の唸り声だった。それから、僕の横を鉄塊が掠め過ぎていったのだった。

「だーっ! 超ムカつく! 死ね!」

 黒いパーカーを羽織った竜胆は、袖をぶんぶんと揺らして、子供みたいに憤った。机の上に並べられたコップが揺れて、薊が慌てて受け止める。

 外はもう暗くなってきていて、秋桜がシャッターを閉めていた。近所迷惑よ、と窘めるように言う秋桜の声と、ガラガラと鉄の窓が閉まる音とが混じる。薄暗い部屋を、黄色の照明が照らす。僕らはそんな部屋の中、ばらばらなことをしていた。

 竜胆はズレた丸眼鏡を直すと、僕の背後の壁にぶつかり、あえなく落ちたスマートフォンを拾い上げた。壁にぶつかりはしたものの、落ちたのは茶色いソファのクッションだ、彼女が袖で拭き取る画面は無事だ。ほっと一息ついた竜胆の白い頬を、薊の細い指が引っ張った。痛い痛い、と声を上げる竜胆は、飾り目で泣きそうな顔をしている。

「……ヒナゲシに『ごめんなさい』はどうしたァ?」

「いたたた! やめてやめて! ごめんなさーいー!」

「スマートフォンを投げるのはやめといた方が良いですよ、壊れたら洒落になりませんし……」

 まったく、おてんば娘だこと。僕にぶつかりそうになったら、どうせ手で掴むので良いのだけれど、壊れてしまっても新品を買うお金が無いのだけが心配だ。

 今日は薊のアルバイトの給料日だった。しかしながら、感染症の蔓延でろくに働くこともできず、その稼ぎは微々たるものである。ゲームソフトを一つ買ったら全て消えてしまうほどだ。スマートフォンなんて買えるわけが無いだろう。

 竜胆は膨れながらスマートフォンをパーカーのポケットにしまい、ソファにダイブして大きなアルパカのぬいぐるみを抱きしめた。ぷいっとそっぽを向き、足をじたばたして拗ねている。再び椅子に座った秋桜が、何があったか尋ねると、竜胆はルームソックスを履いた足先を眺めながら、ぶつぶつと答えた。

「SNSやってたらさー、『大学生は良いよな、こちとら命かけて仕事してんだよ。おとなしく家に引きこもってろ、俺たちに迷惑かけんな』とか言う社会人のガキに出会って! ホンットそういう奴って精神がクソガキ! こっちはどんなつもりで外出控えてるか分かってんのーって感じ!」

「仕方無いわね、正論だから。社会人はお金のために、感染するリスクを冒して働いてるんだから」

「正論言えば良いと思ってんのー!? 大学生ディスる必要ある!? こっちだってお金無いと生きていけないし、だから働いてんのに……!」

「そんなこと言われたって、私たちはまだ扶養されている身なのよ。自立できない以上は、黙って受け入れるしか無いわ」

「はぁー⁉ ふっざけんなし!」

 竜胆は目を見開いて大声を出す。水色の瞳は零れ落ちそうなほどまんまるだ。秋桜はタブレット端末を弄って絵を描いているままで、顔を上げようともしない。

 秋桜の仰るとおりではある。薊のバイト先は、営業の自粛を迫られて閉店してしまったし、僕のバイト先はシフトに入れなくなってしまった。とはいえ、僕たちが生きていけないわけではない。暖房も二十六度で使えるし、タコ足配線は許されているし、美味しい水が飲めるし、もちろん、スマートフォンの契約代金だって払える。独り身の社会人は、備蓄に消える程度の支給金に頼ることもできず、会社からの圧力で出社している。

 必要な物があれば、配達を頼める。食事を摂りたければ、スーパーに行ける。頭痛がするならば、薬局に行ける。その先で働いている人がいるからこそ、我々の生活は成り立っている。彼らはいつも、無自覚症状感染者の人々と接触し、いつ自分もそちらに行くかと戦々恐々として働いているのだ。

 とはいえ、そんな正論で竜胆が黙るわけが無い。竜胆には、他人というものが分からないのだ。全ては彼女で、彼女は全て。彼女の見える世界だけが存在できる。僕も、蜜柑も、薊も、牡丹も、秋桜も、彼女が存在を許しているから存在しているだけなのだ。

「今の状況でいきなり独りで生計立てろって、無理ゲーにも程がある! そうはなれないあたしたちを軽蔑してるんでしょ!」

「一理あるね。アタシたちはモラトリアムの最中、オンライン授業を受けることが生業だから。自分の娯楽に出す金なんて考えないで勉強だけしてろ、って思われるかもしれないけれど……」

「あーいうこと言ってる奴ら皆感染して死ねって思う」

「それは言いすぎじゃないかな……」

 蜜柑のフォローも虚しく、竜胆の物騒な発言は止まらなかった。ゲームをしていた牡丹が、待機中の画面になり、ぐいっと背中を反って顔をこちらに向けてきた。もうスティックが粉を吹きはじめたコントローラーを持って、にへっと笑うと、竜胆に話しかけた。

「そーいう奴、炎上させちゃえばァ? きっと社会人の中にも反発する奴いるっしょ」

「こら、ダリア、火に油を注がないでください。そこは止めてくださいよ」

「んー、それかSNSやめちゃえば?」

 え、と五人の声が重なる。まったく考えていなかった。僕たちはSNSで作品を掲載したり、趣味を同じにする人々と繋がったり、ネットサーフィンをしたりするのが日常的になっていた。SNSにハマってはいけないけれど、離れる必要は無い──それが六人の合意だった。

 牡丹はまた元の姿勢に戻ると、小さい画面を見ながら──そうしないとラグが発生するらしい──語りはじめる。

「SNSなんか見ててもさァ、別に興味無い人の日常とか愚痴とか目にするだけじゃん? 目の前で人間同士の馴れ合いを見てるの、アレ楽しい? 啓蒙主義者は『清い心を持とう』なんて騒いで、皆でこの苦難を乗り越えよう! みたいなこと言ってさァ? どこが楽しいの、アレ」

「そ、それは、そうだけど……あたし、ネットで知り合った友達とかいるし……」

「アザミとかいつも言ってんじゃん、『クソ地雷女に会った』って。現実ですらクソ女はいるのに、虚構の世界でもクソ女と付き合うの? キツいって、無理無理」

「そりゃそうだがよォ……ダリアこそ、ネットにもゲーム友達がいんだろうが」

「さとりんとセンパイの友達以外はだいたいいついなくなっても良いからさ。ゲームやりたかったらさとりんにメッセージ送りゃ良いし」

 「さとりん」こと、神宮寺さとり。薊の同僚・神宮寺奨悟の姉であり、牡丹の古くからの友人だ。さとりと彼はよく通話しながらゲームをしている。二人もまた、パンデミックの影響で家に引きこもっている仲間でもある。

 確かに、牡丹は最もSNS依存が少ないと感じる。ネット上での神父・薊と僕、バーチャル作家・絵描きたる蜜柑と秋桜、そしてネットサーファー・竜胆と並ぶと、彼は一番タイムラインを見ないタイプの人だろう。

「現実世界ですら感染者が外に屯してんのにさァ、電脳世界じゃパンデミックで脳が侵された馬鹿が蔓延ってんだぜ? ニュースですら危険、危険、不満、不満って騒ぎ立ててんのに、ネットなんかもっとでしょ。あんなん見てたら気狂いになりますよ」

「さすがに言いすぎだけど……そうね、インターネットは今、不安を溜めこんだ人々でごった返してる。外に出られないから、架空の世界で良いから、って、身を寄せ合う人々が多い。アタシたちみたいに六人いるならまだしも、ほとんどの人が独りで過ごしているはずだから」

 牡丹の発言を綺麗に纏めて、蜜柑は画面から顔を起こす。滞り無く口調に、淀み無い声色。やはり、人間関係の酸いも甘いも噛み分けてきた蜜柑は違う──それだけ黒歴史を重ねてきた証でもあるけれど。

 僕はとりあえず、竜胆の手からスマートフォンを掬いあげた。あ、と声を上げた竜胆の目の前で、アプリケーションを削除する。竜胆は手を伸ばしたままの姿勢で固まった。

「あー!」

「やるだけやってみましょう、自己収容生活、ですよ」

「むー……そんなことしたら暇になるし……」

「じゃあリンドウ、とりあえず日課でもやりましょう。アザミもミカンも、あ、コスモスも逃げないでくださいよ」

 日課、という単語を聞いて、竜胆は固まっていた姿勢から崩れ落ちた。

 フローリングのリビングに、一箇所、カーペットが敷いてある。それは何のためか? 床暖房の代わり? 机がズレないように? くつろげるように? いいや、違う。この日課のために、だ。

 スマートフォンを眺めていると、肩も凝るし頭も凝る。目から飛びこんでくる、不安と怒号と依存に心も凝ってしまう。嫌なことを思い出したり、怒りを呼び覚ましてしまったり、他人に嫉妬してしまったり、生きるのに絶望してしまったり。架空の体温では、心の冷えは安らぎやしない。では、どうやって心を温めると言うのだ? それが、これだ。

「はーい、では十五秒後にいきますよー。まずはヒールタッチから!」

「な、なんでよりにもよってそんなキツいやつから……!」

「つべこべ言わないで、仰向けになって膝を立てて。はい、三、二、一──」

 薊の泣き言も虚しく、僕はトレーニングの開始を告げた。

 だって、ずっと自己収容していたら、いつ運動するんだ? 誰が体を温めてくれると言うんだ? いざ感染者が家に押しかけてきたとき、信用できるのは自分の拳だけである、なんてね。

 悲鳴を上げて必死に腹筋をする彼女らを眺めつつ、感染症の拡大とそれに伴う不安の拡大を喧伝する番組を切り替える。一方通行なメディアですらかつこの有様、いわんや相互干渉可能なインターネットをや。せっかくの機会だし、インターネット世界からも自己収容することとしよう。

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