二日目
「おはようございまーす……」
「おっそい! もう十二時だよ?」
竜胆は口を尖らせる。そう言う彼女も、髪には寝癖がついているし、服は寝間着のままだし、起きてきたばかりなんだろう。
ボクが起きてきたときには、五人はすでにリビングで過ごしていた。蜜柑は白いノートパソコンの前に向かい合って、PC眼鏡をしているし、秋桜はソファに座って本を読んでいる。竜胆はその隣に座ってスマートフォンを見ているし、牡丹は床に座ってゲームで遊んでいる。うとうとしていた雛芥子は、ボクの声で目を醒ましたようだ。
リビングはいたって清潔に保たれている──床に置かれた物も少ないし、部屋の煙たさは解消されている。机の上こそ汚いけれど、フローリングには埃一つ無い。なんとなく、部屋が最適化されてきたな、と思う。
緊急事態宣言が出されて、二日目。それまで三週間ほど外出を自粛していたけれど、実際のところ、外には無自覚症状の感染者が多く出歩いていた。しかし、二日経った今、もうそれも見受けられない。自らが発症して感染者となることを恐れてのことだろう。
テレビでは絶えず、危機的状況だとか、不安だとか、そんな言葉が飛び交っている。ニュースではそういうテロップをたいてい赤文字にしていて、無意識的に国民を洗脳している。そういう言葉は、見ないようにしていても頭に刷り込まれて、人々が恐怖するように出来ている。メディアとはそういうものだ。
「朝ご飯食べる? 何もかける物無いけど」
「おかずは無いの?」
「ツナ缶と冷凍ポテトならある」
「ハッ、昨日買ってきたばかりなのに」
「必要最低限の物しか買ってきてないから。スーパーに行く方が大変なんだから」
蜜柑は少しも顔を起こさないでそんなことを言う。まぁ、確かに、六人のリーダーたる彼女が掲げる、「未知のウイルスの蔓延によるパンデミック」に従えば、むやみに外に出る方が危険だろう。感染者に会うリスクが高いことはできるだけしたくない、というのも分かる。ゾンビ映画では、さらなる装備を──と手を伸ばした奴がおおかた死ぬのだから。
ツナ缶を開けて、安いポテトを電子レンジで温めて。野菜は摂れないので、野菜ジュースでカバーして。足りない分は米で補って。日本のゾンビ映画らしいシチュエーションだ。座っていた蜜柑の対面で、ご飯を食べはじめる。
こうでもしないと時間間隔が狂うからと、テレビは一日中点いている。今度はドメスティック・バイオレンスや虐待の広がりについて語っている。家に引きこもったがゆえに、ストレスを溜めた人間が暴力や監視に走る、といった内容だ。
「僕たちもぎすぎすしたりするんですかねぇ……」
「センパイの腕力には敵わないでしょう。アンタがストレスを溜めなければセーフですって。ゲームやります?」
「やりますやります。確かに、あんたら皆貧弱ですもんねぇ……」
雛芥子の言うとおりだ。ずっと寝ているのも良くないので──というのは建前、欲しかったフィットネスゲームが手に入らなかった腹いせだ──ボクたちは筋トレを始めたのだけど、腕立て伏せ一回すらできない秋桜やボクや蜜柑と、腹筋に悲鳴を上げる運動不足が目立った牡丹と竜胆では、リンゴを握りつぶせる雛芥子には勝てそうにない。ボクたち六人がこうして喧嘩せずにいられるのも、調停役として最強の雛芥子がいるからでもあった。
なんていうのは冗談で、ボクたちはよほどのことが無いと喧嘩なんてしない。言い合いこそあれど、最後は笑って済んでしまう。ゲームをやりながら喋る牡丹や雛芥子の声が鬱陶しくなることも無いし、静かな環境が好きな秋桜や蜜柑が苛立つことも無い。そもそも、同じ拠点に済む人間同士の争いなんて、死亡フラグにも程があるだろう。
「ゾンビ映画ではよくある話ね、同士討ちなんて。私たちは避けたいものね」
「まー、一番精神が強いボクやヒナゲシは安定剤を飲んでるから。それでも駄目だったら外にほっぽりだして殺してよ」
「無茶言いますねぇ。でも、外に出たいなぁ、とは思う時期になってきましたよ」
雛芥子は窓の外を眺め、大きく欠伸をする。彼もボクも、薬を飲まないと満足に眠れやしないくらいに追いつめられているから、笑っていられる場合では無いのだけれど。こればっかりは、感染症にならない「基礎疾患」といったところか。
外に出たい、という願望はもちろんある。仕事のために外出こそするけれど、それだけだ。出勤して、帰途に着く。それ以上の快楽は無い。潜水艦の中で過ごす人や、宇宙船の中で過ごす人や、囚人たちは、いったいどんな精神状態で生きているのだろう。用水路、立ち並ぶ家々、申し訳程度に咲いている花、廃れたコンクリート。白い壁、フローリング、白いカーテン。少々広い牢獄にすぎないではないか。そもそも、どうしてまぁこんな生活を今まで続けてこられたのだろう。
竜胆がソファから起きあがった。そして、無造作に窓を開けた。がらっと開いた窓から聞こえてくる、飛行機の音。車の音。時折聞こえてくるのは、人の話し声。別に何が変わったわけでもないのに、相変わらず香るのは蜜柑の淹れたコーヒーの香りなのに、心の窓まで開いたような爽やかさを感じた。
「そんなに外に出たいなら、こうしたら良いのよ!」
「はーっ生き返るわー! 普段引きこもってたい僕が生き返るなんて、やっぱり空気って凄いですねー!」
「気分の問題だべよ、そういうの」
牡丹が大きく伸びをして、コントローラーを置く。そりゃそうだ、昼夜逆転までして、何時間も同じ姿勢でゲームをしているんだから。ツッコミを入れるボク自身は、持病で十二時間くらい寝ているのだけど。
窓を開けて、外に遊びに行く自分を思い浮かべる。カラオケに行こうか? ゲーセンに行こうか? ウィンドウショッピングをしようか? 秋桜は洋服を、牡丹はゲームを、雛芥子は花を、竜胆は雑貨を、蜜柑は本を。ボクは何を買おう? それが何ヶ月後になるかなんて、分からない。桜を見て、野原に寝転びたい。そんなの、何年も前からやっていないのに。
バイオハザードの広がった世界で生きていた彼らも、同じことを思っていたのだろうか。終末世界を旅する彼らも、同じことを思っていたのだろうか。戦場に身を投じる彼らも、同じことを思っていたのだろうか。いや、彼らは日々を生きることに一生懸命で、そんなことは考えていなかったか。過去の光景に身を浸しては、その尊さに涙を流していたのだろうか。
そう考えると、中途半端に満たされたボクらだからこそ、こうして未来を夢見ているのだろう。窓を開けたくらいで、気分を上げているのだろう。空気感染の病原体だったらどうしたものか、まったく。とはいえ、換気は必要なのだけど。
「ご馳走様。今日は外出するの?」
「今日は家で過ごしましょう。備蓄は揃っているから」
「はいはい。積ん読消費、捗るといいね」
秋桜は顔を上げず、そう静かに言った。本が尽きたら、彼女はどうなるだろう。いや、そしたらまた買えば良い。まだそれだけの余裕はある。
外から入ってきた空気で肺を満たして、大きく息を吐く。今日の日記担当はボクだ。リビングからは離れたくない──六人でいる方が、いつでも話せるし、電気代の節約にもなる。アルコールで机の上を拭いて、そこにノートを開いた。日々更新される日記には、皆同じことを書いている。
このパニックが去ったら、きっと。
過不足未満の生活は、まだまだ続く。自己収容は、まだまだ続く。
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