自己収容生活

神崎閼果利

一日目

「さてと。配給は済んだね」

 そう声をかけるのは蜜柑だ。開いた冷蔵庫からは、野菜のみずみずしい香りと、プラスチックのパックの香りがしてくる。食品パックと飲み物が並んで、白い箱の中をカラフルに染めあげていた。

 蜜柑の足元には、トイレットペーパーのロールとティッシュの箱が並んでいる。壁に沿って、一、二、三列。その隣には米の袋。彼女が動く度に足をぶつけそうになって、観衆はひやひやして見守るのだった。

 机に置かれたマスクの箱を、開きながら溜息を吐く。雛芥子は憂げに目を逸らして、蜂蜜色の黄昏に染まった声を出す。

「外へ出られるのは、せいぜい一回くらいです。おやつを買ってきたいのなら、身の危険を冒して行ってくださいね」

「できるだけ外には出たくないからね。出れば出るほど感染のリスクは高くなる」

 雛芥子と蜜柑の声に、はーい、と気怠げに応えるのは牡丹と竜胆だ。ついさっき買ってきたゲームを開けて、ソファに沈みこむように座っている。コントローラーを両手に持って、死んだ目でテレビを見つめていた。テレビ画面には、項垂れる私たちをものともしない、爽やかな笑顔を浮かべた有名キャラクターが、プレス・スタートと煽っているのだった。

 チュンチュンと鳥が鳴いている。鳥の鳴き声が鮮明に聞こえるほどに、玄関の外は閑散としていた。平日の夕方、老人たちが徘徊していてもいい頃なのに、外から聞こえるのは車の音、鳥の声。人の話し声なんて一つも聞こえてこない。

 私は薊の隣で、ゲームをするのにも飽きてしまった二人を眺めていた。牡丹は肩を回すと、頭を掻きながらふてくされたように尋ねてきた。

「ねー、本当に僕たち、一ヶ月は引きこもらなきゃいけないんです? さすがにゲーム四時間は老体に応えますよ……」

「ヒナゲシとアザミは仕事で外に出るけど、それ以外は外出禁止よ。精神科に行くとき以外は、基本的に家にいること。アザミの大学の授業も、オンライン授業になるらしいから」

「まぁ、僕の仕事もまた、オンラインになりそうなんですけどねぇ。まったく、せっかくの春休みなのに、花見すらもできないなんて」

 雛芥子は、艶やかにかつ切なげに嘆息を漏らす。彼は花が好きだから、桜をゆっくりと眺める時間が欲しかったのだろう。彼と牡丹で夜の酒を楽しもうか、なんて数週間前は言っていたものだ。

 竜胆は口を尖らせ、テレビ画面のキャラクターを睨みつける。

「っていうかさー、いつまでこれ続くの? マジで一ヶ月外出られないわけ? カラオケ行きたーい音ゲーやりたーい友達と遊びに行きたーいー!」

「家にいるだけで世界を救えるのよ。私たちは外に出てゾンビと戦う側の人間じゃないわ。そういう人たちがなんとか見つける生存者の役」

「コスモスはいーじゃん、どうせいっつも寝てんだしさー」

「貴女だって、外に出て死にたくはないでしょう。外に出ないというのは、ウイルスに感染しないためでもあるし、逆に味方に感染症を発症させないためでもあるのよ」

 そう言い聞かせる私も、正直うんざりし始めている。

 緊急事態宣言が出されるまで、三週間ほど。外出を控えるよう政府から発令されて、それ以来私たちはこうして、六人揃って家に引きこもっていた──否、そうせざるをえなかった。「未知のウイルスの蔓延」、すなわちパンデミックが起こって、いつ誰が発症して隔離されるか分からない状況だった。

 今までへらへら笑いながら道端に屯していた警戒心の無い子供たちも、今ではすっかり姿が消えて、残っているのは、誰も手をつけないお菓子のゴミだけ。外を歩く人たちも、皆揃ってマスクをして──もう、それが効果を為しているのかすら分からない──陰鬱な顔をしている。

 私が言い聞かせている最中、隣で絵を描いていた薊が顔を上げた。聞けよ雛芥子ィ、といつもの挑発的な口調で話しかける。

「明日から仕事休みだってよォ」

「マジかよ。お金が無くなる……」

「そうね、いかに切りつめるかも、サバイバルには大切なことだから。アタシたちは感染を逃れて、平和を取り戻さなくてはならないから」

「まさか家より先がデスゾーンになるなんて。心の拠り所となる桜は、奴らの作ったデコイですか、外に出た僕たちを感染させようと──」

「あーはいはい、いつまでアンタらゾンビ映画ごっこやってんの。ただのパンデミックだべよ」

 薊が雛芥子と蜜柑にツッコミを入れる。彼女は整った爪をした指でスマートフォンを弄っている──きっと暇すぎて綺麗に爪を磨いたのだろう。休みの日でも彼女はメイクをしていて、六人の中でも一番洒落ていると私は勝手に思っている。

 備蓄という名のお菓子を食い荒らし、牡丹と竜胆は欠伸をして愛おしそうに外を眺める。現実は非情で、美しい桜など見られず、人間がいないのを良いことに騒ぎ立てる烏くらいしか部屋からは見られないのだ。

 食い捨てられたゴミを拾って捨てる。溢れかえったゴミを、誰も纏めようとはしない。ゴミ捨ては誰の担当だっただろうか。できるだけ耐え抜いて、外に出る機会を減らそうという魂胆か。

 さて、と雛芥子が声を上げる。すでに彼は着飾っていて、仕事に行く準備は出来上がっていた。マスクをしていると、彼の顔はとことん小さいな、と思う。亜麻色の髪を後ろで結わいて、ワイシャツを羽織る様は、まるで王子様みたいだ。

「最後の出勤、してきましょうかねぇ」

「無理しないでね。あんまり長居はしないように」

「分かってますって。あんな職場、ろくな人間いませんから」

 そう戯けてみせる雛芥子も、釘を刺す蜜柑も、心持ちは一つ。「楽をしてお金を稼いでこよう」。信頼も人間関係もドブに捨ててまで金を貰いたいだけ。お金が無ければ、主に牡丹と竜胆の「我慢の限界」に対処することもできなくなってしまうから、仕方が無いスタンスだ。

 感染者から逃れ、自己収容した私たちだからこそ、お金が無ければ生きていけない。政府から出される支援など微々たるものだ、重火器一つ揃えられはしない。どうせ備蓄と娯楽に消えていく。いざ感染者が入ってきたら、家にあるもので応対してやるしか無いのだ、蜜柑風に言えば。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 五人の声が揃う。雛芥子は目だけを細めて、にこやかに微笑むと、小さく手を振って外へ出ていった。牡丹と竜胆はまた大きな溜め息を吐いて、ソファに寝っ転がったまま目を瞑る。夕飯の準備を始めた蜜柑と薊を眺めて、私は日記を書き始めた。

 白い桜はまだ咲いている。散るまでには、元の生活に戻れるだろうか。終末世界の自己収容生活は、始まったばかりだ。

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