第5話 この虚しさは私の中でだけ
瑠依には何もない。
クラスメイトとの会話は楽しい。軽薄に、ただ笑い、中身のない会話に相槌を打つ。
聞き上手だと言われることもあるが、瑠依からすれば自分はただ話し下手なだけだった。
それは高校に入ったところで急に変わることはなく、むしろ新しい環境で瑠依の嵌った迷路は深まるばかりだった。
始めは本気で笑っているのに、気づいたら何を笑っているのかわからなくなる。今この瞬間に何の意味があるのか。そんなことを考える本当にごく僅かな隙間が、瑠依の身体を強張らせた。
「なにそれおもしろ〜い」
表向きはそう絞り出した。
高校に入って2度目のホームルーム。つい先程学級委員長に決まったばかりの久仁子が、ほかの委員を決めようと一生懸命に話している。
誰も手を挙げない。
こんなことに時間を掛けるのはなんだが申し訳なく思えてきて、瑠依の手はひとりでに挙がった。
ひとまず保健委員が瑠依に決まる。
決まった後で後悔する。自分は何をそんなに張り切っているのだろう。
「ありがとうございます」
「……いえ」
拍手と共に会が進行する。
体育の授業。この日はバスケットボールだった。瑠依は授業でしか経験がない。
軽いパスの後、チームに分かれて試合形式の練習が始まった。戦術も何もあったものではないが、瑠依もちょっと頑張ってボールを追いかけてみる。普段なら体験しないスピードで動く世界は、面白い。身体を動かして、汗をかく。それだけのことがこんなに楽しいものか。
日頃運動しない分、すぐに息が上がり、脚が重くなる。
さっと波が引くように、世界が遠のいた。
何もかも忘れるくらいまで身体を動かせば、こんなこと考えなくなるだろうかなんて、頭に意識が向いた。
こんなことばかりだった。
少しやる気を出しても儚い、馬鹿げた心持ちになる。感動も興奮も、まるで外から眺めているみたいに思えてくる。
瑠依は、誰にも見られない手帳の中でだけ、この寂寥感を、空々漠々とした思いを、曝け出した。
『これでなんでも卒なくこなす天才なら絵にもなろうが、何もないから何にもならない』
『ひょっとしたみんな、同じように考えてるけど考えないように言わないようにしてるかも』
『これが側から見てただの思春期なんだって自覚くらい、私にもある』
瑠依にとっては高校1年生の今、自分が抱えているこのよくわからない憂鬱というには馬鹿馬鹿しいちっぽけな渦はしかし重大だった。
誰にも言わない。迷惑はかけない。せめてこの手帳の中でだけ。そうして文字を重ねた。
さて、漫画やドラマではよく生徒が屋上にいるが、実際大抵の学校では、屋上への生徒の立ち入りは禁じられている。
瑠依の高校も、例に漏れず屋上へ通じる扉には鍵がかかっている。
しかし扉の前まで行くことは誰でも出来る。申し訳程度に張られた細いビニールロープを気にしなければだが。
薄暗く少し埃の匂いがする踊り場は、目を閉じると別世界のように思えた。
人の中にいることが耐え難く感じる時、瑠依はここに来た。既に何度か授業に遅刻してしまっており、今更真面目ぶってもと虚無を加速させている一因であることは否めない。
それでも、ここで得られる静謐さは学校で生きる上でなくてはならない。優しい監督者のいる保健室でも、沈黙の中に人の想いが交錯する図書室でも、柔らかな木漏れ日の差す中庭でもダメで、ひとりで、何を隠す必要もないこの場所が、瑠依には必要だった。
隅に座り込んで、相変わらず手帳を開く。表情もなく、襲いくる空漠をやり過ごした。生徒の大半が部活に出て、廊下の音が消えるに従いそれすら面倒になって、膝を抱え目を閉じた。
既に傾いた陽の琥珀色が、扉に開いた小さな窓から差している。眠ってしまっていたようだ。
「ここいいよね。穴場」
ビクリと瑠依の肩が震えた。夕陽を浴びてしゃがんでいるのは、アッシュグレーの髪をツーブロックにした、女子だった。耳にも銀色を下げ、指には短くなったタバコが挟まっていた。
自分以外の人間とここで会うのは初めてだった。
「あ。くーのクラスの子だ」
手元から昇る煙が陽を反射して、魔法みたいに綺麗だった。
瑠依は何も言わずふわふわした気持ちと足取りでそこを離れた。
ああいうのをヤンキー座りというんだ、と階段を降りながら思い返した。何かほかに考えるべきことがあった気がする。
家に帰ると、妹がじゃがいもを切りながら出迎えてくれた。夕飯はシチューだという。煮込み料理ならまだ時間がかかるなと、部屋に入る。
普通こういう時、高校生の姉の方が作るものじゃないのか。妹の方が学校から近いとはいえ、部活をしているわけでもない。帰りが遅い親の代わりをするのは、姉の自分の方であるべきではないか。
そんな自己嫌悪のフリをした嫌らしい自己肯定を、また手帳に書いて発散しようと思った。鞄のファスナーを緩慢に開く。
血の気がひいた。
手帳がない。
鞄をひっくり返す音に、台所から心配の声がするが、適当に返事をしながらノート、教科書、ペンケース、プリント、ポケットティッシュを広げる。ノートの間に紛れていないか。部屋に入ってから落としてないか……
そこで、また糸が切れたようにどうでも良くなった。明日屋上階段を探そう。息を吐き、己の一人相撲を苦々しく振り返りながら、散らばったものを鞄に収め直した。
結局瑠依が階段に掛けられたロープを
相手も瑠依に気づくと、視線を上げてタバコを携帯灰皿に入れた。
「これ貴方の?」
彼女はタバコと入れ替わりに、瑠依の手帳を掲げる。
こうして出されると、自分の中では重要だと思っていた渦巻く虚無が、何やら恥ずかしくて悪いことのような気がしてくる。
それでも瑠依は小さく頷いて、それを受け取った。
「良かった。ほかにも誰か来てるのかと思ってちょっと怖くなっちゃった」
彼女は笑う。
「なんて、流石に勝手か。ここは学校で、別に私らの部屋じゃないもんね」
「ありがとう。助かった」
ワンテンポ遅れて礼を述べた。結局、読んだかどうかは聞かなかった。
彼女は瑠依に場所を空けるように、奥へ移動した。誰も来ない背後を振り返ってから、瑠依はその空間に収まった。
瑠依は手帳を開き、彼女は新しいタバコに火をつけた。
甘い喉に絡むような臭いが流れている。依存症とか、受動喫煙とか、耳にしたことのある単語が頭をよぎる。
「シエやアヤはさ……あれでも服以外別に不良でもなんでもないんだけど、あとくーは言うまでもなくお真面目ちゃんだけど……アタシはダメダメでさ」
そう言ってタバコを持つのと反対の手で髪をかき上げた彼女の友達を、瑠依は誰ひとり知らない。
「ごめん。独り言」
彼女は携帯灰皿で、タバコを握りつぶした。
それからお互い何も話さないまま、ただそこにいた。不思議とそれが苦ではない。
彼女は朝からここにいるのだろうか。通学鞄を傍らに置いている。提げたアクリルのキーホルダーは名前入りに見えるが、目を細めてそれを確認する気は、瑠依にはない。
「まあ、あの子らもわかってるかもしれないし、それでも一緒にいてくれるのはほんと、頭上がらないよね」
悲壮というには淡々と、彼女は空に向けて続ける。口で言うほどには自分が嫌いではないのかもしれない。そこは瑠依の自己嫌悪と似ている、かもしれない。
彼女にかける気休めの言葉を、冷たい壁に背をもたせかけ一応思案する。
もう2時間目は始まっていた。
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