第七話 終わりの始まり

 朝、欠伸をしながら階段を降りた豊はリビングへ入った。


「豊おはよう」


「うん、おはよ」


 ご飯をよそっている母親からの挨拶を返して、椅子に腰掛けた。

 食卓に豊の分の朝食を用意した母親も席に着くと、豊は目の前にいる寝間着の父親に目を向ける。


「おう、豊。相変わらず無愛想だな」


「・・・・・・父さんは今日サボりか?」


 時間的にそろそろ出勤する父親が、スーツに着替えていない。なぜゆっくりしているのか、豊は疑問を口にした。

 すると、父親はニヤニヤした顔で言った。


「今日は母さんとお家デートだ! どうだ? 羨ましいだろ?」


 ドヤ顔の父親にイラッときたが、ここで返事でもしたら余計に惚気られると知り、素っ気なく相槌を打って、スクランブルエッグを咀嚼する。

 ふと母親にデートはお預けされてなかったかと、豊は思い出した。

 ただここで会話のキャッチボールを拾ってしまったら惚気られると、グッと堪える。

 ボールが返ってこなくて、もっと自慢したいと思ってた父親が寂しい顔をした。


「ふふ、デートは出かけなくても家でもできるのよ?」


「・・・・・・そうっすか」


 豊の疑問が母親から返ってきた。まさか心の中を読まれたか。


「はっはっは、どうだ豊? 羨ましいだろう?」


「お父さんったら恥ずかしいわよ。でもお家デートなんて何年ぶりかしら? ふふ、若い時を思い出してしまうわね。豊も好きな人と上手くいくといいわね?」


「だから、別にそんなんじゃないって・・・・・・」


「なんだ豊? まだ自分の気持ちに気付いてないとか言うのか? 気になってんならさっさと告って振られちまえ!」


「別に・・・・・・というか振られる前提かよ」


 紗瑠の事は確かに豊は気になっている。

 ただそれが本当に好きという感情なのか分からない。今まで真面に異性と会話した事もなく、年齢=彼女無し、それに加え、陰キャぼっちである豊は、恋愛に臆病な少年、自分のような人間が彼女はできないと卑屈になっている。

 特に紗瑠のような美少女と釣り合わない。周囲の男も黙っていないし、中にはイケメンも仲良くなろうと近づいている。であれば、紗瑠は冴えない豊よりも、イケメンを選択するのは必然と思っていた。豊に近づいてくるのは、同じアナテマ使いであり、仲間だから一緒にいる。そんな風に思って紗瑠からのアプローチに、勘違いしないように自分を抑えていた。


「ふん、豊も立派に青春してるじゃねぇか」


 豊の懊悩に父親はしたり顔で頷く。

 いつも退屈そうな日々を過ごし、友達もいない、灰色の青春、イベント皆無で何かに悩むことはこれまでなかった。そんな豊の青春を謳歌している姿に父親は喜ばしく思っていた。母親も同じだ。


「ふふ、良いわね、青春」


「お、俺の事はいいだろ!」


「ははは、俺達も若い頃は青春を謳歌したものだな」


 両親は学生時代のあれこれの思い出話をし始めて、二人の世界に入っていく。

 豊は二人のイチャイチャに見てられなく、さっさと朝食を摂って、早々に学校へ行く準備をする。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 何もイベントが発生しないまま、放課後が訪れた。

 豊はいつもの如く、早々に鞄を手にして教室を出て行った。当然誰一人として豊に声を掛けるクラスメイトはいない。

 周囲の喧噪の中、一人昇降口まで行くと靴に履き替える。

 代わり映えの無い日常。

 これが豊の日常である。青春のせの字も全くない悲しい日常である。

 しかし、放課後はその変わり映えの無い日常に変化はある。

 校門を出ると、塀に寄りかかる紗瑠の姿。

 ここ最近になって紗瑠と一緒に帰宅する事が増えて、女子と一緒に帰宅は豊の中で嬉しいイベントの一つである。

 アナテマ関係ではなく、普通の日常ならもっと歓喜していただろう。でもそれは些末な事。今は一緒に帰宅するだけでもありがたいと思っていた。

 そして今回も同じく紗瑠と二人で帰宅すると思っていた豊は、紗瑠の横にもう一人、小柄な少女が立っていた。

 マスクをしてフードを被り、見た目怪しそうな姿の少女。

 豊の視線がその見知らぬ少女へ目を向けると、彼女もまた顔を上げて視線が交わった。すると、小柄な少女はビクッと肩が震え、視線を地面へ落とした。

 豊は彼女の瞳が怯えていたのに気付いた。

 怖がらせるつもりがなく、その反応をされて、少しショックを受けた。


(怖がらせるような事してないはずなんだけど・・・・・・)


 二人は無言のまま沈黙が流れる。

 そんな二人の様子を見かねて紗瑠は沈黙を破った。


「紹介するわ。この子が私の仲間の萌衣ちゃんよ」


「・・・・・・」


 紹介された萌衣は地面を凝視しながら、小さく会釈をする。

 まだ怖がられている。自分のどこが怖いのか疑問を抱いたまま自己紹介する。


「えっと、俺は榎園豊。紗瑠さんの方から話は聞いてると思うけど・・・・・・よ、よろしく」


「・・・・・・」


 豊は優しい声色で話しかけたはずが、萌衣は声にビクッと肩を振るわせて、紗瑠の背に隠れて警戒される。そんな反応をされては、豊が何か悪いことをしている気持ちになる。困惑し、どうしたらいいのか、紗瑠へ顔を向けた。


「ごめんね豊。萌衣ちゃんには事情があって・・・・・・決して豊だけを怖がってるワケじゃないの」


「そ、そっか」


「・・・・・・」


 萌衣は紗瑠の背中に隠れながら、瞳は豊を映して観察していた。視線が突き刺さっていることに豊は気付いているが、ここで目を向けてしまうとまた萌衣の事を怖がらせてしまう。陰キャな豊にはどうやって萌衣とコミュニケーションを取ったらいいのか、見当がつかない。これが陽キャなら直ぐに仲良くなっただろうなと考える。

 二人の顔合わせも終わり、紗瑠は昨夜の事について話をした。


「昨夜、萌衣ちゃんにあの男の居場所を探って貰ったんだけど、直ぐに見つかることができたの」


「本当か!?」


「でも・・・・・・ごめんなさい。私の方で対処しようと、男がいた場所に向かったんだけど、逃げられてしまったの。気付かれないように近づいたつもりだけど、私の事を結構警戒されていたみたいで。私の事気付かれたのも、もしかするとあの男に仲間がいる可能性があるわ」


「仲間が?」


「うん。私がその男がいるビルに侵入して、萌衣ちゃんにはアナテマで見張ってて貰って。私がビルに入ってしばらく、あの男が慌てた様子で逃げる姿を萌衣ちゃんが確認したの」


「紗瑠さんが侵入した事を察知して、仲間から連絡が来たってこと」


 洋輔の見た目がヤクザ風と考えると、そっち関係の仲間がいてもおかしくない。


「豊、ごめんね・・・・・・」


「そんな、謝らなくてもいいよ。俺の方では何もできないし・・・・・・。ありがとう。えっと、萌衣ちゃんもありがとう」


「・・・・・・」


 未だに紗瑠の背に隠れる萌衣へお礼を述べるが、さっとそっぽを向かれる。それに豊は苦笑し、萌衣と仲良くなれるのはしばらく時間が掛かるだろうと思った。


「でもこっちから近づいても逃げられるんじゃ・・・・・・警察に頼んでみるとか」


 相手は人殺しをする人間。行方不明の女子高生殺害も洋輔が関与しているのは間違いない。それなら警察に連絡し、捜査して貰うのが普通の対応だろう。

 しかし、問題があるとすればーー。

 豊が考えてた事に紗瑠がそれを指摘した。


「警察は当てにならないわ。私達アナテマについてどう説明するの? それに警察ではアナテマを相手するのは不可能なのよ」


「そうだよな・・・・・・」


 一般人相手ではアナテマ使いを逮捕するのは難しい。下手すると死人が増えるだけである。普通なら真面な意見だが、豊達がいる異常な世界では国家権力は通用しない。

 それなら何が得策なのか。

 豊は洋輔を捕まえる事、解決方法について思慮をめぐらしてみる。相手は話し合いが通じず、殺し合いを楽しむ異常者。行き着く先はどうしても一つしか無い。

 洋輔を殺す。


「・・・・・・それはーー」


 エックスの思惑通りに動かされて、豊は殺すという選択肢を回避したかった。紗瑠の時は回避できたなら、何か別の解決法があるんじゃないかと。


「・・・・・・」


「まずは見つけた後、どうするかだよな・・・・・・」


 豊の甘い考えを紗瑠は特に口にしない。

 洋輔は平気で殺人を犯す異常者。警察が当てにならなければ、選択肢は必然一つに絞られてくる。他の解決方法は皆無。それを紗瑠は今まで選択してきた。自分を害する人間は殺して排除する。簡単な解決方法だ。

 そして今回は豊を脅かす存在を排除する。

 豊と交わした無闇に人を殺さないという約束、その中には豊に害する人を殺してはいけないという事は含まれていない。

 彼が一歩踏み出せないなら、紗瑠がその役目を担う。


「・・・・・・」


 二人の思惑を余所に、紗瑠の背に隠れる萌衣は豊の横顔をずっと凝視していた。

 紗瑠が認めた男で、仲間となった事は聞いていた。

 その時に語った紗瑠は乙女な表情をして、豊の話を嬉々として趣味や好みなど延々と聞かされた。そんな興味のない男の話をされて、萌衣は面白くないと思い、そんな紗瑠が男の話をする事に愕然としていた。

 紗瑠と萌衣は同じ男が嫌い。

 ただ二人の男嫌いの水準に差異がある。

 紗瑠の場合は嫌悪を抱くが、それでも会話する事ができる。萌衣の場合は男性恐怖症に近いレベルで、会話すら難儀する。

 今も豊に話しかける事ができず、恐怖心が先行する。


(ど、どうして紗瑠さんがあんな男なんか・・・・・・。も、もしかして紗瑠さんの弱みを握ってるから?)


 萌衣がこうして豊の前に姿を現したのには理由があった。

 それは彼が腹黒い事を考えており、あわよくば紗瑠を騙している証拠を掴んで本性を暴く。

 最初はアナテマで自分に好意を向けるよう洗脳していると考えていた。だから極力目を合わせず、萌衣自身も洗脳されないように、萌衣なりの対策をしていた。ただ男と目を合わせると怖がって逸らしてしまう、というのが本当の理由でもある。

 数十センチの距離に男が存在しているだけで、萌衣は吐き気がするほど男が嫌いであり、過去のトラウマがフラッシュバックして恐怖心が襲ってくるほど。今は紗瑠という安心できる人の近くにいるから気持ちが落ち着いて、何とか頑張れる。

 本当は総府高等学校まで来るのも嫌で、家に籠もっていたかった。


「・・・・・・っ」


 こうして豊の事を観察して、今のところ萌衣が分かっていることは、冴えない男、人を騙すとは思えない見た目、優しそうだった。

 しかし、人は誰しも裏の顔がある。萌衣を騙すために演じている事も考え得る。そう思ってしばらく豊の観察を続けた。


「それじゃあ豊、帰ろっか?」


 紗瑠を真ん中に左右に豊と萌衣の配置で帰路に着く。

 紗瑠が豊に話しかけている横で、萌衣は会話を耳にしながら彼を睨む。

 一方、豊は萌衣に疑われていることも知らず、紗瑠に話しかけられてどぎまぎしながら受け答えしていた。

 紗瑠の家での一件、両親の言葉、それらが紗瑠の事を意識していた。そして同時に思う。


 ーーなぜ紗瑠さんは毎回校門で俺の事を待ってくれるのか。


 ずっとそれが疑問だった。

 エックスや洋輔の件もあって情報の共有は必要になるが、それでも毎回会う必要性はない。メッセージだけで済ませることもできる。だけど、紗瑠はほとんど他愛ない話を振ってくる。

 自惚れで自分に好意があり、会ってくれるのかと思った事は何度かあった。しかし、陰キャな豊が自分の都合がいい妄想をしていると、あり得ないと否定する。

 そのためお互いすれ違ったままである。


「そういえば萌衣ちゃん(?)のアナテマってなんだ?」


「っーー・・・・・・・・・・・・」


 チラリと紗瑠を挟んで萌衣へ視線を向けると目が合った。睨んでいたことに萌衣は慌てて視線を逸らした。

 待てど返答はやって来ず、沈黙が流れる。


(やっぱり嫌われてるんだろうな・・・・・・)


 そんな二人の様子を見かねて、萌衣の代わりに紗瑠が答えた。


「萌衣ちゃんのアナテマについては・・・・・・そうね。これから仲間になることだから、お互いのアナテマを共有する事は大事よね。ここは親睦を深めるために、ファミレスでお話ししましょうか」


 紗瑠の提案に二人は同意し、三人はファミレスへ向かった。

 飲み物を適当に注文し、豊の対面に紗瑠、その隣に萌衣という構図で席に座った。

 萌衣は未だに豊を警戒し、口を開いていない。

 豊は悲しくなり、少し落ち込んでいる。


「豊にはまだ私のアナテマについて、話して無かったと思うけど、でも何となくどんなアナテマか、豊なら想像できてるよね?」


「そうだな。念動系のアナテマだと思ってる」


「正解♪ 私のこの念動系はあらゆる物体を自在に操る事ができる。あらゆるとは言ったけど、あまりにも大きい物体となると、私でも厳しいんだよね。精神が磨り減るし、無理をすれば気絶する。限界があるわ。だから、私独自の戦闘スタイルを身に付けたの」


 紗瑠は側にあった竹刀袋に目を向けた。その中には刀が二本入っている。

 念動力で二本の刀を自在に操る事が紗瑠の戦闘スタイル。実際に戦った経験がある豊は、当時の事を思いだして苦笑した。


「その刀って本物だよな・・・・・・? そんな物持ち歩いて大丈夫なのか?」


 ずっと気になっていた事を口にした。


「それは問題ないわよ。どうせエックスの力で、私が刀を持ってることなんて、周囲には分からないだろうし」


 アナテマ同士の争いには一般人には関与できないようにエックスが絡んでいる。それは助かる部分はあるが、エックスは邪魔が入らないように殺し合いを視るために私的に力を使っている。エックスのやり方には許せる事ができない。


「それじゃあ俺のアナテマだよな。俺のは氷を操るって感じだ。紗瑠さんと比較して、全然使い熟せてないけどな」


「何度か目にしたことはあるけど、豊のそのアナテマは使い方によっては私以上に優れた力になると思うわ。使い熟すには、経験するしか無いかな。もしよかったら私が見てあげましょうか?」


「それはありがたいけど・・・・・・」


 未だにアナテマを使うことに躊躇していた。

 身を守るために使用するのは仕方がない、ただ相手を傷つけるために使用する事にまだ抵抗があった。

 そんな豊の心中を察する紗瑠はこれ以上は口にしなかった。選択するのは豊であり、もし何かあった時は二人を守ると決めていた。

 それから豊はチラリと萌衣を窺う。嫌われている事もあり、あまり刺激しないように配慮もしていた。すると萌衣は目を見開いて、豊から視線を逸らさずにポツリと言った。


「せ、洗脳・・・・・・じゃないの? ・・・・・・そ、それじゃあ紗瑠さんは・・・・・・」


 初めて聞いた声に豊は驚きつつ、洗脳という言葉が微かに耳に届き、マスクの中でもごもごと全部は聞き取れなかった。なぜその言葉が出てきたのか豊にはさっぱりだった。


「萌衣ちゃん?」


「ぁ、・・・・・・っ、あ、あの・・・・・・」


 二人の視線に気付いた萌衣は俯いて戸惑っていた。余程豊のアナテマに驚愕していた事もあり、今まで確信を持っていた推測が一気に崩れたのだ。洗脳じゃなかったら、今まで紗瑠が話した事は本当になる。


「萌衣ちゃん。豊は私達の仲間だし、豊なら大丈夫だと思うの。だから彼のことを認めてあげて欲しい」


「・・・・・・で、でも、まだ、わ、分からない」


 そうだ、まだ分からない。豊のアナテマを実際に目にしたワケではない萌衣は嘘をついている可能性があると思った。洗脳で紗瑠に口を合わせた事も考えられる。萌衣の落ち着きを取り戻して、再び豊の本性を探る。


「そうね・・・・・・。うん、萌衣ちゃんのペースで豊のことを見極めてくれればいいからね」


「うん・・・・・・。だ、だから私のアナテマは・・・・・・言いたくない」


「ということで豊、ごめんね? 萌衣ちゃんにも事情があるからもう少し待っててくれるかな?」


「いや、別に俺は構わないというか・・・・・・初対面だし警戒されても仕方ないかなって」


 しばらく豊と紗瑠の談笑は続き、その様子をジッと萌衣は眺めていた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 それから豊は二人と別れて、帰路に着いていた。

 今までの陰キャぼっちには経験がなかった、放課後のファミレスで駄弁るというちょっと青春を体験した豊はテンションが上がっていた。ただ萌衣とは一度も会話できず、警戒されたままなのが心残りとなっていた。

 これから仲良くなっていければいいなと思いながら、自宅に着いた。


「ん?」


 自宅に目を向け、違和感を覚えた。

 今の時刻は19時過ぎで日も傾いている。家に明かりが点いていてもおかしくない。今日は両親がお家デートをしている事もあり、家にいるはずだと思っていた。

 仮に出かけていたのなら、気にする事でもないが、家を留守にするときは必ず母親から連絡が来る。

 スマホを確認しても母親から連絡はない。本日休みを取っている父親からも連絡はない。

 豊はその事に不安が押し寄せてきた。

 玄関前で立ち止まって、胸の鼓動がいつにも増して早鐘を打つ。

 手は震え、ドアノブに手を掛ける。ゆっくり開けてみると抵抗もなくドアが開いた。


「・・・・・・え?」


 ーーなぜ鍵が掛かってないのか?


 普段は必ず鍵は掛かっているはずだ。それが不用心にも鍵が開いたままとなっている。母親が鍵を閉め忘れるなんて事はない。


「・・・・・・」


 心臓の音がうるさいくらいに鳴る。

 偶然母親が連絡を忘れ、偶然父親が連絡を忘れ、偶然鍵を閉め忘れたと、偶然が重なっただけだと切望した。

 息が次第に荒くなり、ゆっくりドアを開けた。中の様子を窺うと、電気は点いておらず、暗闇に包まれて、不気味な静かさが漂っていた。

 しばらく耳を澄ましても物音一つしない。自然と喉を鳴らし、豊は中に入った。

 視線を下げれば、母親と父親の靴が置いてある。


「と、父さん? か、母さん? いるのか?」


 震えた声で両親を呼んでみるも返事はない。

 靴が置いてあるなら、出かけていない。呼びかけても両親からの声はない。

 じゃあなぜ?

 豊は必死にあり得そうな事を考える。

 今日は誕生日ではない。

 なら何かの記念日で豊にサプライズをしているとか?

 それとも二人のドッキリという可能性もある。

 分からない。

 どれもあり得そうだと思う反面、豊の中では嫌な想像が浮かんでくる。

 これは明らかに様子がおかしい。

 豊は靴を脱いで床に足が着くと、ギィィという軋む音が耳にこびりついた。


「・・・・・・ーー」


 これはドッキリだと言葉にしようにも声が出なかった。

 自分の荒い息、心臓のドクンドクンという音は不安が拭いきれず、何かの間違いであって欲しいと何度も、何度も、願う。

 リビングまで一歩一歩進み、一度立ち止まる。

 これ以上は進んではいけないと直感的に訴えてくる。

 口の中は乾いて、全身から汗が吹き出てくる。

 勝手に足が動いて豊はリビングの中を覗いた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 少し前へ進んだ後、立ち止まる。

 自宅に着いて、違和感を覚えてから想像してた。

 エックスが言う舞台とは何か、それが頭の中に過ぎった時に連想した。でもそんな事はないと否定した。

 否定した所で結果は変わらない。

 目の前の光景を目の当たりにして、ぞわっと鳥肌が立った。あり得ない。そんなはずがない。これは夢だ。

 そう思いたかった。それを受け入れたくなかった。

 豊は力が抜けて膝から崩れた。

 視線を落とすと、両腕を無くした父親の姿が目に入った。

 お調子者で、子供心を忘れない父親の表情は苦しげに顔が歪んでいた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぁ」


 その死体から必死に誰かを助けようという意思が滲み出て、顔を上げて無い腕を伸ばしている。自分の事より誰かを優先して、助けたかったのだろう。

 しかし、何もできず、無力で、愛する人を助ける事ができなかった。

 豊は自然と父親が向けている先、奥へ視線を移した。


「っーー、ぁーー」


 そこには裸に剥かれ、無残な姿の母親の姿があった。

 絶望した表情、瞳には光が失われ、天井を向いている。視線は自然とお腹へ移した豊は吐き気が込み上げてきた。腹が割かれて大量の血が広がって酷い有様。


「ぁ・・・・・・・・・・・・ぁ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 豊は口元を手で覆って、目から涙が流れる。

 視線を再び父親に移し、父親に触れる。人の温もりは失って冷たくなっている。

 部下から慕われ、若者にはまだ負けないと豪語し、いつまでも少年の心を忘れない、そんな父親を尊敬していた。

 頬から伝った涙が父親の頬へ零れ落ちた。


「・・・・・・・・・・・・」


 数秒間、沈黙した豊は父親の姿を濡れた瞳に映した。

 しばらくして、よろよろと立ち上がった豊は母親の元へ近づいた。

 膝から崩れ、無残な姿の母親を映した。

 母親は優しく、豊のことをいつも気に掛かって、時には冗談を口にしたり、いつも笑顔を絶やさなかった。それがもう優しい言葉を掛けられることはない。

 また豊の涙が母親の顔に零れ落ちる。

 もうあの幸せだった家族の団欒は・・・・・・二度と訪れることはない。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 母親のお腹。

 豊はいずれ弟か妹ができるはずだった。

 顔を向けるが、腹が割かれて、膨らんでいたはずの腹は引っ込んでいる。

 小さな命まで奪われた。

 絶望した豊の精神はもうぐちゃぐちゃに攪拌され、思考は停止し、その場に座り込んで虚空を見つめている。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 焦点が定まらない目が周囲を彷徨い、ある一点へ止まった。

 壁に血で文字が書かれていた。


『俺からのプレゼントは受け取ったか? あの時の再戦しようぜ榎園豊よぉ?』


 豊に向けられたメッセージ。

 洋輔からのメッセージ。三人を殺した犯人。

 なぜ三人を殺したのか、何のためにこんなことをしたのか、そんな思いすら浮かばず、メッセージを凝視していた。

 場所が書かれて、再び殺し合いをしようと挑発している。

 立ち上がった豊の右目が雪色に発光すると、彼を中心に冷気が広がる。

 心が冷めていき、奥底に憎悪の炎が灯る。もう二度と以前の豊が戻ることはない。

 これがエックスが用意した舞台ならお望み通りに、豊は一番楽な解決方法を選択する。

 前へ進みリビングを出る。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・殺してやる」


 静かに、怒気を含んだ声が呟かれる。

 家を出た豊は洋輔が指定した場所へ向かった。

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