神の降りる空1-3
人魚姫が嫌いだった。
人の王子に愛されるため魔法で人の姿に変わったものの、歩くたびに激痛に苛まれ喋るための声を失い、とうとう恋を叶えることなく泡になって消えてしまった人ならぬ少女の
ホシノ・ミツキはこのお話が大嫌いだ。
人魚姫の物わかりがよすぎると思ったし、結局、恋も命も奪わなかったのが余計に腹立たしい。自分の大切なものを捧げても構わないほどの恋だったというのなら、どうして諦めてしまったのだろう。
少女には愛するがゆえに王子を奪うことも殺すこともできなかった人魚姫が理解できない。
そう、手を伸ばせばよかったのだ。
傷つけて、苦しめて、憎まれるのだとしても――綺麗に泡になって消えるよりずっと美しいはずだから。
ホシノ・ミツキは恋を知らない。
人魚姫の葛藤などわからなかったけど、すべてを捨ててなお欲するほどの恋への憧れはあった。
だからミツキは情熱的な恋の歌が好きだ。その意味など知らないままに、透き通るような歌声で繰り返し、繰り返し、いつだって口ずさんでいた。
あの夜、彼女が母を失うまでは。
異形の
ここでは何も見えなかったし、何も聞こえなかったし、何も嗅がずにいられた。このまま誰も巻き込まず、何も失わずに消えてしまいたかった。
けれど、その願いは叶わなかった。
ずりっと身体が重力に捕まる感覚。浮遊感が消えて、自由落下の感覚が取って代わる。
ミツキを包み込む腕は解けて消えて、暖かな羊水のような空間から堕ちていく。
それはソラハラの地を覆い尽くす都市敷設型虚空子回路――再開発によって密かに埋め込まれたオーバーテクノロジーの結晶――による干渉だったが、少女には知るよしもないことだった。
ただ何かに邪魔をされたのだ、と気づいて。
――ああ、せっかく綺麗にこの世から消えてしまえたかもしれないのに。
ほこりっぽい空気に目を覚ました。
少女の目も耳も鼻も健在だったから、すぐに状況が理解できた。木造の狭い屋内、たぶん古いお堂の床の上。ほこりっぽい空気からするとうち捨てられていたような場所。
そこでミツキは四肢を複数の大人によって押さえつけられていた。頭を押さえつける一人、左右の手足を押さえつける四人、そして奥の方で何かを準備している二人。
全部で七人の大人が、決して広いとはいえないお堂の中でミツキを囲んでいた。
肘や膝、足首に体重をかけて押さえ込まれていて、手錠や足枷はされていないけど――部屋の隅には大きな斧が置かれていて、体格のいい男の人がそれを手に取っている。
不吉な光景だった。
なのに、奇妙なほど恐怖を感じなかった。
まるで
異臭がする魂だった。
心を舐め取る舌で読心を行った結果、わかったのは彼らが群体であること。
魂のにおい、魂のあじわい、そのすべてが罪に塗れた味がして――嫌悪感が湧き上がった。
――なにこれ、全員から同じ味がする。
精神寄生体カイン。際限なく人から人に乗り移っていく疾病のような存在。今、ミツキの目の前にいる人々すべてが同じ精神によって駆動していた。
彼らが何をしようとしているのか、頭の中を読んでいるからすぐにわかった。
それは古い伝承に沿った儀式の手順、神様を呼ぶためのおまじない。
ミツキの手足を切り落として、目も耳も鼻も潰して、動物みたいに生け贄にしてやるのだという意思――悪意もなく昆虫のように特定の指向性に沿って動く機械のような群体たち。
気持ち悪い。
こんな単調なものが自分に触ろうとしていることが許せなかった。
胸がむかむかする。
恐怖ではなく絶望ではなく悲嘆ではなく、もっと激しく燃え上がるような激情。
頭を、腕を、足を掴んでミツキを押さえつけられ、もがくと間接がみしみしと音を上げて痛む――振り上げられた斧を見て叫んだ。
「さわらないで!」
あの日あのとき、あの事故の夜に母と一緒に死ねなかったのに。
この世ではないどこかに消えてしまえると思ったのに。
こんなつまらない生き物に傷つけられるなんて。
――絶対に、ゆるせない。
不快感で涙がこぼれ落ちた。
ホシノ・ミツキはあふれだす怒りのままに。
「あたしに、さわらないで!!」
――拒絶を叫んだ。
無意識の干渉であり、衝動的な操作だった。
今まさにミツキの手足を切り落とそうとしていた男の動きがぴたりと止まったかと思えば、彼女の手足を押さえ込んでいた大人たちもぺたんと床に座り込んで動かなくなった。
それまで押さえ込まれていた腕や足が自由になって、大急ぎで立ち上がる。母の形見の赤いコートに埃がついたことに気づいて、顔をしかめながら裾を手ではたいた。
ミツキが周囲を見回しても、誰一人、動こうとしなかった。ぽかんと口を開けて、間抜けに視線が宙を泳いでいる不審者たち――その精神からは先ほどまでの昆虫的指向性が消えている。
どうやら自分がそうさせたのだと理解したのもつかの間、再び、彼らの精神から異臭が放たれ始めた。一時的にミツキによって上書きされていた精神が、カインという異物に乗っ取られていく。
嫌悪感のあまり、ぽつりと呟く。
「……死んじゃえ」
そして迷うことなく、自殺スイッチを押し込んだ。
ミツキにもその全貌は理解しがたかったけれど、彼らの根底にあるのが巨大な罪悪感なのはわかっていた。だからこの場にいる七人分の肉体を、自害へ追い込むのは容易かった。
一人一人、どうやって死ねばいいのかを頭の中に流し込んでやる。
ビクビクと痙攣して「あー」とか「うー」とかうめき始めた彼らを横目に、ミツキはゆうゆうとお堂の出口へ向かって歩いていく。
ふと足を止めて振り返る少女――やや紫がかった艶やかな黒髪が夜風に揺れた。
「血、汚いから。あたしが外に出てから死んで」
冷たい
それから何が起きたのかを書いていけば、次のようになる。
斧を手に取った男は、座り込んでいる仲間の頭に何度もそれを打ち付けて、ぐしゃぐしゃにし続けた。
ナイフを取り出した男は、斧を持った男の喉を後ろから掻ききると、自分の喉を何度もナイフで刺し始めた。
大ぶりな刺身包丁を持った男は、お腹にそれを差し込むと縦に裂いて、内臓を素手でつかみ取ろうとし始めた。
たっぷりと灯油の入ったポリタンクを頭から被った女は、マッチで自分自身に火をつけた。ぼわっと一瞬で火が全身に広がって、この世のものとは思えない絶叫が響いた。
ミツキが命じるままに彼らは自害していく。
火だるまになって踊り狂う女の人、脳漿を床にこぼして動かなくなった男の人、自分の喉を何度もナイフでメッタ刺しにしているおじさん、自分のはらわたを素手でつかみ出しているお兄さん。
それは肉体があげる悲鳴、恐怖と苦痛に染め上げられた断末魔――善良なる精神の味とは異なる、血染めの犠牲の味。
――ああ、美味しいなあ。
やがて誰もが息絶えて、炎だけが残った。黒焦げになって異臭を放ち、血溜まりで動かなくなっていって、燃えさかるお堂の中で炎に飲まれていく。
ホシノ・ミツキはそれを、ぼんやりとお堂の外から眺めていた。
自分を死ぬよりも惨い目に遭わせるつもりだった人たちが、一人残らず死に絶えるのを見届けて――気づくと鼻歌を歌っていた。
いつか母と一緒にカラオケで歌った恋の歌を口ずさむ。
――あのときも歌ってたんだ、あたし。
あの夜も、こうやって歌っていた。そして母は死んだ。
目の前で人が死んだことへの衝撃も、自分がそうさせたのだという罪悪感も、これでひどい目に遭わなくて済むという安堵も何もなく、ただ、渇いた納得だけがあった。
ぼんやりと感じていた居場所のなさ、本当は人間の世界ではやってはいけないことなのだと理解していた心を操る行為。
それが意味するもの。
「――ああ、あたしって生まれちゃいけなかったんだ」
うっすらとわかっていたのだ。
自分はきっとこれから先、誰にも理解されることなく――あるいは理解によって恐怖された末に――ただ捕食者として生きるしかないのだと。
この世でただ一人の孤独な怪物として。
それはとても寂しくて、ちっとも楽しくなさそうだった。
ホシノ・ミツキには、そうまでして生きていたい理由が何もない。理由もなく生きたいという本能すら欠如していた。お腹が減るから人の心を食べるけれど、それは生態であって意思ではないからどうしようもなかった。
今日と変わらない明日を願うこと、安らかな眠りについて明くる朝を望むこと、その繰り返しを是とすること。
――あたしには、それがわからない。
人の魂が美味しいことはわかるのに。炎に照らされる少女の横顔は、涙で頬を濡らしながらも口元は微笑んでいた。
ごうごうと音を立てて燃え落ちるお堂を背にして、ホシノ・ミツキは空を見上げる。
普通の空、普通の色。
――嫌だな。ここ、あたしの居場所じゃないのに。
そう思った瞬間、空の色が塗り変わった。
夕暮れの色でもなく夜闇の色でもなく、血のように赤い空――ミツキが安らぎを覚える異形の世界。
このままここにいれば、またあの腕に迎えに来てもらえるだろうか。
そう思って息を吐いた。
そのときだった。
大好きな精神の――善良なる魂の味がした。
足音を聞くよりも早く、姿を見るよりも鮮明に、近づいてくるのが誰なのか気づいた。
ああ、少年の声が聞こえて。
「――ホシノさん」
イヌイ・リョーマはそこにいた。
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