虚ろの空
――いつかミツキにもわかる日が来ると思う。
それは在りし日の記憶、ホシノ・ミツキがこの世の誰よりも幸福でいられた日々の追憶だ。
脳に焼き付けられた光景。
夕日に照らされた海を背にしながら、微笑んで娘に話しかける母はとても優しかった。
――本当に好きな人ができるとね、たとえそれがいけないことでも、誰かを傷つけてしまうとしても。
母はミツキの異能を――心を読み取り味わう力を知りながら、決して彼女を拒絶しなかった。
そこには一欠片の嫌悪も恐怖もなかった。
ただ慈しむ愛があった。
嘘偽りない愛情を注がれホシノ・ミツキは育てられたから、母親の言葉を大切に胸の奥に閉まっている。
どこか遠く見るように目を細めて、彼女の母ホシノ・アマネは笑うのだ。
――欲しくなってしまうの。素敵な恋ってそういうものだから。
それはきっと、アマネの経験に基づく言葉だった。
ミツキは自分の父親の顔も名前も知らない。それどころか、どんな人間だったのか――その人物像の一部さえ知らなかったし、そもそも興味がなかった。
異質な超感覚を味覚の代わりに授かった少女にとって、自らの“舌”の射程圏外にいる人間はどうでもいい。
写真に載っているけど食べられないごちそうなんてないのと一緒だ。
母の語りかけて来た言葉を普通に受け取れば――アマネは道ならぬ恋をして妊娠し、父親となる男性にミツキの認知を求めず身を引いた、と解釈するのが順当だろうか。
精子バンクという可能性も考えたけれど、アマネの思考にそういうものの使用を示唆する痕跡は何もなくて。
少なくともミツキが母の心を読み取ったとき、そこに別離の寂しさや裏切られた悲しみなどはなかった。
ただ、アマネの心には我が子への惜しみない愛情と、満ち足りた幸福だけが詰め込まれていた。
だからミツキにはそれだけあれば十分だった。
有名な作曲家で作詞家の母には十分な蓄えがあったし、仕事の伝手もあったから生活に困ることもなかった。
母子二人で慎ましく生きるなら何の不安もない――今にして思えば、経済的にも精神的にも恵まれた境遇だったのだろう。
ゆえにアマネが――“お母さん”が生きていたとき、ミツキは満ち足りていた。
そして母が亡くなったその日から、ミツキの世界は灰色の牢獄に変わった。
◆
ソラハラ市臨海部。
古くからの港町のそれを近代化に伴って拡張し、港湾設備を整えたソラハラ港を備えた場所。
近年、企業城下町として急速に発展した都市と、それを中心とする新たな経済圏を支えるべく、大規模な倉庫街とともに物流を担う一帯である。
そこからほどよく離れた場所にソラハラ海浜公園はあった。
元々、世界大戦までは軍の基地があったこの一帯は、敗戦にともなって基地が消えると広大な跡地だけが残され衰退していった。
その後、市長選をにらんで当時の市長が進めた計画によって土地が確保されると毎年、予算が確保できた分だけ少しずつ公園が整備されていって、歴代の市長に引き継がれて今に至るのだとか。
すべて母の受け売りだけれど。
正しくこの都市の歴史が刻まれた海浜公園は、ミツキにとって母の思い出が残る場所だった。
特にここは小高い丘の上にあるから、街を見下ろしても海を眺めても素晴らしい景色を楽しめる。
ここからは海がよく見える。
水平線の彼方まで手が届きそうなぐらい、澄んだ空と海の青色が。
ひょっとしたら本当に雲がつかめるんじゃないかと思って、青いキャンパスを流れる白い絵の具を掴もうと手を伸ばす。
残念。
まだまだミツキに雲を掴むことはできないらしい。
空に突き上げられた握りこぶしをじーっと見つめ、一年前よりちょっとだけ大きくなった掌を実感する。
もう一年になるのだ。
ホシノ・アマネがこの世から消えてから。
潮風を含んだ風が吹き抜け、茶色く狩れたすすきが揺れる。
春先の気温はまだまだ肌寒いけれど、それでも真冬のように刺々しい寒さではない。
残念ながら桜の季節にもチューリップの季節にも届かない、三月に入ったばかりの空だけれど――その肌寒さが心地よい。
今のミツキの装いは、常よりも見栄えに気を遣っていた。
清潔感のある長袖の白いシャツに黒のショートパンツ、背伸びして買った黒のハイソックス――正直を言うと少し太もものあたりが寒いのだけれど、オシャレなのでやせ我慢している――そしてミツキにはちょっと大きい赤のコート。
母のお下がりで、今となっては形見の品だった。
叔父夫婦に引き取られてからは、ずっとクローゼットの肥やしになっていたような服。
平日の昼間とはいえ、散歩に来ている人は結構たくさんいるけれど、ミツキぐらいの女の子が一人で出歩いてるのは少し目立つ。
一五八センチあり背の高いミツキは下手をすれば高校生ぐらいに見えるから、意外と補導はされにくいのだけれど。
それでもあまり美味しくない他人に近づかれるには苦手だ。
自分は人見知りする偏食家だったと、母が死んでからようやく気づいた。
小学校高学年になって自覚するのは遅かったのだろうか、それとも早かったのだろうか。
とにかくミツキは、近づいてくるだけでにおってくる他人の心の悪臭が苦手だった。
胸が悪くような雑味の塊。
エグみばかり強くて苦くて、ひどく脂っこくて、ねちゃねちゃと舌に絡みつくような不快感。
こちらが舌を伸ばさなくともわかる、他者の下劣な精神の味だ。
赤の他人の心なんてものは、十人に九人はそういうものだった。
たまに美味しい心の持ち主もいるけれど、安定してそういう人間に出会える機会は少なくて――何より保護者の監督下にある子供は、接触できる人間の種類もコミュニティも限られている。
ホシノ・ミツキの精神は奇妙に成熟していて、またある側面では幼稚と言えるほど単純で動物的だ。
自分の今の立場をわきまえているから、叔父夫婦にわがままは言わず礼儀正しくするのに、他人の心の美醜には人一倍敏感だった。
少女は飢えていて、渇いていた。
――美味しい
そんな当たり前の、けれど決して満たされることのないよろこび。
感情の起伏が消えていく灰色の日々の中、ミツキは生きることに対して如何なる情熱も持てないでいた。
今にして思えば、母は美しい人だった。
だからきっと、心だって美味しかったのだ。
自転車のブレーキ音。
予感はあった。
だからその人が自分の元にやってきても、大して驚きはなくて。
長い黒髪を揺らしながら、ミツキはさも当然のような顔をして振り向いた。
「こんにちは、イヌイ先輩。相変わらず美少年ですね」
「…………人生で初めて言われたぞ、その台詞」
困惑しきった顔で自転車を降りたイヌイ・リョーマの顔を、ホシノ・ミツキはまじまじと見つめた。
美味しい心を持った人間と書いて美人と読む。
であれば美味しい心を持った少年は美少年で合っているはず。
深くうなずいた後、ミツキはすらすらと本音を口にした。
「先輩、たしかに先輩のお顔は整っている割に人に好感を抱かせることが少ない、正直言って流行に七〇年以上逆行した威圧的な感じですが、それと心の美しさは無関係だと思います」
「貶すのか褒めるのかはっきりしてくれないか!?」
「わかりました。悪の秘密結社に拉致されて過酷な人体改造を受けた後に脱走してそうな素敵なお顔です!」
「そのたとえの意図がわからない」
衝撃を受けた。
「えっ……先輩、まさか特撮をご存じないんですか……?」
「よく言われるんだけど、昔の映画とかテレビ番組ってそんなに見てないとダメかな?」
重大な誤解があった。
ミツキは思わず訂正した。
「ニチアサは現行コンテンツです!」
「あ、うん、ごめんな……?」
どうやらイヌイ・リョーマ先輩(ミツキが入学する予定の中学を卒業予定なので先輩と呼んでいいだろう)は芳醇な国産特撮の歴史について無知らしい。
どうすればあの素晴らしい世界の多様性を知ってもらえるか深く深く考えた末、少女はベストな答えにたどり着いた。
具体的には脊髄反射ぐらいの熟考である。
「先輩、特撮俳優になる気はありませんか?」
「どうして俺の進路の話になったんだ!?」
「なればいいんですよ……ヒーローに。そうすれば先輩にもわかるはずです、特撮の良さが……!」
もう自分が
「えっとな、その話は置いておいて。今日は話が」
「あたしなら何も変わりないです。お化けも不審者も全然見かけなくて、怖いぐらい平和ですよ。先輩のお話ってそのことですよね?」
沈黙。
あまりに察しがよすぎる、まだ口にもしてない質問に先回りするような返答に先輩は困惑していた。
そこにあるのは会話のペースを崩されたことへの苛立ちではなく、あまりに物わかりがいい答えへの疑念だった。
彼は今、いろいろなことを思い出していた。
先日のカインを名乗る怪人の言葉――“超能力者”という単語の意味と、目の前のミツキを結びつけるべきかどうか――半信半疑の動揺。
単純に少年自身が目の前の少女を見くびっていて、洞察力がとても鋭いだけなのだと思い込もうとしている。
その誤解を解こうと思った。
「あたし、そんなに普通の人の心の機微とかはよくわからないんです。だから普通の意味で察しがいいわけじゃないんです。なので先輩、最初の推理が正解ですよ」
「……ホシノさん、俺、考えてること口に出してた?」
「いいえ、先輩。あたしが特別なんです。あなたが考えていること全部、口に出すよりはっきりわかっちゃいますから」
欲深いミツキはどうしても我慢しきれなくなってしまったのだ。
本当のことを伝えたら、この人はどんな想念を抱いてくれるのだろうか、と。
「あたしは人の心を読むことができる、って言ったら先輩は信じますか?」
目を見開いた後、イヌイ先輩は目を閉じて深呼吸。
そして呟き一つ。
「
ああ、この人は、なんていい人なんだろう。
自分の心を無断で読まれているなんて言われたとき、大抵の人間は馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすか、異質なものに心を覗かれる恐怖を抱くものなのに。
イヌイ・リョーマの中には、一欠片の嘲笑も拒絶も存在せず、ただ、ある種の納得だけがあった。
「……先輩、あたしを怖がったりしないんですね。意外なような、期待通りのような……ちょっとびっくりしました」
「悪いな、変なやつには慣れてるから……新鮮味がある反応、無理だった」
苦笑するイヌイ先輩は心なしか疲れていた。
どうやら先輩の幼馴染み――あの金髪碧眼のベルカさんも相当に先輩を困らせていて、そのせいでこういう反応になってるみたいだった。
「あはは、なんだかマンガみたいですね。先輩とベルカさんって」
「……マジで喋ってないこと当然みたいに引き出されると信じたくなるな……俺、一応オカルト懐疑派なんだけど」
イヌイ先輩はそうぼやいた後、顔をしかめた。
「でも人の心の中を無断で覗きまくるのはダメだろ。ホシノさん、それはやりすぎだ。俺にもプライバシーがある」
「普通にしてても目に入っちゃうんですよ、先輩。あたしにとって人の心を読むのは、目や耳や鼻で世界を感じるのと同じなんです」
「……難儀だ」
「あたしにとっての普通はこうなんですけどね」
こればっかりは感覚的に理解できなくても仕方がない。
他の人間が見ている世界がどういうものなのか、ミツキは心を読み取り、舌で舐め回すことで追体験はしている。
あの粘土細工みたいでねちゃねちゃした味のしない食べ物――生命維持に必要なだけでちっとも美味しくない――を美味しいと思って味わえる代わりに、赤の他人が何を考えているかわからない世界観。
家族の考えていることすら、予測と推測のつぎはぎで想像するしかない生き方だ。
みんなよく生きていられるな、と感心する。自身が異端だと突きつけられ疎外感はあるものの、あまり羨ましくはない。
「隠し事なんてされてもあたしにはわかっちゃいますから。危ないから関わるのをやめろって言われてるんですよね」
ミツキに読み取れるのは、知覚範囲にいる人間の今現在の思考と感情、それに紐付けられた記憶だ。
だから前後関係まで読み取ろうと思ったら、相手に連想させ記憶を想起させる必要がある。
ちょっとしたミツキの返答で少年から引き出された記憶と感情は、いずれも幼馴染みの少女のことで、そこには暖かな好意が宿っていた。
「じゃあ俺がなんて答えたかもわかってる、のかな」
「はい……先輩ってお節介なんですね」
話が早くて助かる、と笑うと自転車を駐輪スペースまで引いていく――妙なところで律儀な先輩だった。
ミツキの前に戻ってくると、彼はジュースをおごってくれると言ってくれた。
「あー、飲み物でも飲みながら話そう。何がいい?」
どのみち味がしないので何を飲んでも同じなのだが、味覚障害については伝えていないから――純粋にイヌイ先輩の気遣いなのだとわかった。
「先輩と同じのでいいです。向こうのベンチでお話ししますか?」
「ん、そうしよう」
手渡されたのは見たこともないメーカーのよくわからない缶ジュース。
口をつけた先輩は「割と当たりだな」なんて呟いてるけど、安っぽい香料のにおい以外、ミツキにはわからない。
共に食事することで人と人はわかりあえるなんて、何かのアニメかドラマで言っていたけれど――なるほど、自分にそれは無理らしい。
口をつけた後、ジュースの缶を脇に置いて。
ミツキは空を見上げた。
青い空。
「――昔はですね、歌うのが好きだったんです。お母さんが聞いてくれたので、あたし、それだけで楽しかったから」
黙って続きを促す少年を横目に、ミツキは語る――自らの物語を。
「あたしのお母さん作曲家で、けっこういろんなアニメとかドラマの音楽作っててすごいんですよ。先輩も一度は聞いたことあるかも。まあそれで、あたしはお母さんの作った歌を歌うのが大好きなんです。いい声してるって褒められてましたし、ちょっぴりうぬぼれてました。将来は歌手になるとか言ってみたり」
思い出すのは親子で出かけたカラオケボックス。
あれはとても楽しかった。
ミツキのお気に入りはバラード調の恋の歌で、その悲しげで躍動的なメロディを愛していたし、母のよろこんでくれる顔が好きだった。
「昔はって……今は違う?」
「えーっと、あ、すいません。これって大事な前提でしたよね、お母さん
あっけらかんと付け足すと、目に見えて先輩の顔が曇った。
その心に浮かぶのは罪悪感や申し訳なさで――悲しみの味がした。彼自身の知っている誰かの葬儀と重なって、喪失の痛みに共感しているのだ。
「ごめん、つらいこと聞いちゃったよな」
「先輩の方がつらそうな顔してますよ。あんまり大げさにならないでください」
本当にこの人は優しい人なのだとわかって――自分とは大違いだ、と少女は思う。思えば母が死ぬまで、ミツキの人生に挫折や困難はなかったのだ。
学校の中の閉鎖的な社会は、代わり映えしないジャンクフードが並んだ薄気味悪い箱だったけれど、スナック菓子に心や体を脅かされるなんてありえない。
感情の好悪や快楽原則すら制御できない
もちろん嗜虐心や残虐性を抑えきれず、どう立ち回ってもミツキを排除しようとする個人もいるにはいたが――どうしてもダメなら適当に自殺でもしてもらえばいいのだし、正直、厄介だと思ったことはない。
理由のわからない自殺も事故死も、この世界にはありふれていて、嘆き苦しむ遺族だってありふれている。
だからミツキにとって、自身の能力によって招かれる死は特別なものではない。
これはそもそも殺人なのだろうか、とミツキは疑問を持っている。
人を殺してしまうのはよくないけれど、彼ら自身にあるべき罪悪感や羞恥心を与えてあげた結果の“自殺”はどうなるのだろう。
むしろ欠落していた道徳を思い出させたわけだから、自分はいいことをしているのではないかとミツキは思う。
閑話休題。
つまるところミツキは、イヌイ先輩が思っているほど情動豊かな悲しみを抱いているわけではないのだ。
たぶんこれは空虚で埋まらない胸の穴があるだけ。
痛くもなければ苦しくもない。
ただ、よろこびのない灰色の人生が続いているだけだから。
「あたしは、大丈夫ですよ」
「……そういうの、大丈夫って言うのは大抵強がりだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。だからホシノさんは、俺を頼ってくれていい」
イヌイ・リョーマはヒーローみたいな人だから、そうして少女に手を差し伸べてくれる。
それはきっと素晴らしいことだ。
だから。
「もういいんですよ、先輩。あなたがヒーローみたいにあたしのこと助けてくれて、すっごく嬉しかったんです。だからもう、それでいいかなって思うんです」
これ以上は巻き込めないな、とミツキは思う。
イヌイ先輩は立派で優しくて勇気がある人だけど、それだけの人間だ。怪物に襲われて生き延びられるような人じゃない。
一度目も二度目も、スカルマスクが――あの忌々しい怪人が助けてくれた。
そう、この人はずっとホシノ・ミツキの巻き添えで死にかけている。
「先輩があたしのこと、心配してくれてるのは嬉しいんです。でも……また、お母さんのときみたいに、目の前で死んじゃうのは嫌ですから」
「そうやって一人で抱え込んだって、ホシノさんは――」
「先輩、あの赤い空の世界、どう思いましたか?」
少年の心に浮かび上がった感情――あの異界への恐怖と嫌悪を読み取って、ああやっぱり、と納得した。
たぶんそれが正常な反応で、ミツキがおかしいのだ。
「あたしはあの世界にいたとき、安心したんです。心が安らいでほっとしました――ええ、おかしいって思いますよね」
「それ、は」
「嘘はつかなくていいですよ先輩。あたしは異常なんです。だからお化けにも狙われていて、あのカインとかいう悪者にも狙われてるんです、きっと」
一度目の出会いで、あの廃墟に招き寄せられたときもそうだった。
気がついたらあの廃墟の中にいた。
自転車も自動車もなしに一瞬で移動していたなんて――本当にどうかしている。
「……原因があることと、落ち度があるかは別の問題だ。まるで自分が悪いみたいに言うのはやめるんだ」
「それ、どう違うんですか?」
きっとあの怪物たちはミツキを食べたいのだ。
少女が人の心を摂取しなければ満たされないように、そうしなければいけない欲求があって狙ってきているのだろう。
食べる側と食べられる側。
とてもわかりやすい食物連鎖の構図――きっとそういう単純明快な論理があるのだと思う。
「違うさ。どんな理由があろうと、理不尽に殺されていい命なんかない。あっていいはずがない」
「……ああ、先輩ってそういう人なんですね」
現実はそうでないと知っているから、強く強く叫び続ける祈りのような言葉/思念。
その甘美に舌鼓を打ちながら、ミツキは目を閉じた。
透けるように白い頬をわずかに上気させ、少女はただ一つの心残りを想う。
――この人を好きになってみたかった。
ホシノ・ミツキは恋を知らない。
イヌイ・リョーマを好ましいと思ってはいても、それは彼が善良で美味しい心を持った人物だからで、普通の人間が寿司やラーメンを好物だと語るのと同じ種類の好きなのだ。
これから先も、ホシノ・ミツキがまともに人間を愛する日は来ないだろう。
人間は美味しい精神を肉の器に宿した歩く食べ物であって、それ以上でもそれ以下でもない。
――先輩ならいいと思ったのに。
ほのかな憧れを、恋なのだと思い込みたくなった。きっとそれは、母が教えてくれたように――とてもとても素敵な体験なのだから。
どうせ死ぬのなら生きてるうちに味わってみたかったのだが、どうやら自分には無理らしい。
自分自身の欲深さに呆れながら、ミツキは笑う。
「やっぱりあたし、先輩のそういうところ好きですよ。きらきら輝いて真っ直ぐで、本当にヒーローみたいでかっこよくて」
そのとき聞こえた。
不意に。
――呼んでいる。
ベンチから立ち上がる。
三月の空を見上げて一歩、二歩、三歩。
それからゆっくり先輩の方を振り返ると――目を見開いてミツキの方を見ているイヌイ先輩がいた。
彼の視線はずっと少女の頭上に釘付けになっていて、その顔から血の気が引いている。
「ああ、先輩には“見える”んですか。あたしには聞こえてるんです」
それは彼方からの呼び声。
どこかに消えた幼子に呼びかけ、出ておいでと声をかける誰か。
きっと彼らは人ではなくて、だから泣きたくなるぐらい優しい声音で語りかけてくる。
「……よ、せ。そんな声に……応えなくていい」
先輩の目には、きっと見えてはいけないモノが見えている。たぶんミツキも頭上に目を向ければ見えるのだろうが――目にするまでもなく、少女には自身の結末がわかっている。
不思議と恐怖はない。
むしろ心は凪いだ海のように穏やかで――ああ、納得した。
これが絶望なのだろう。
「……もう、全部ダメなんですよ。だから先輩は何も悪くないんです」
哀れなぐらい怯えているのに、それでもミツキを助けようと立ち上がろうとしている少年に、無理はしなくていいと言いたかった。
彼の心は今にも恐怖で塗りつぶされようとしていて、身体は震えていて、ひょっとしたら失禁までしているかもしれない。
なのに立ち上がろうとしている。
「別に強く生きていたい理由なんてないですし……もう、あたしはいいんです」
魂に染み渡る呼び声――帰ってきなさいと誰かが呼んでいる。
ああ、わかる。
わかってしまう。
虚ろな空の彼方には神様が待っている。
寄る辺ない魂の
でもきっと、それらはずっと昔からこの世界の外側にあったものだから――そんなに怖がることはないのだ。
降りてくる。
虚空を割いて、何本もの光り輝く異形の腕が――ミツキの頬を撫でおろしていく。それは大きく分厚いのに、どこか母の手に似ていて。
たまらない安心感だけがあった。
眠ってしまいたいぐらい、今はただ安らいでいる。
「わああああああああああ、うあああああああああ!!!!」
先輩の絶叫が聞こえる。
彼の瞳には何が見えているのだろう。
それは、ミツキには決してわからない感情だ。少年に、彼女を包み込む安寧が理解できないように。
だから不思議だった。
どうしてこの人は、こんなに怖がっていて、気が狂いそうなぐらいなのに。
どうして、立ち上がっているのだろう。
どうして。
――あたしに手を伸ばしているのだろう。
わからない。
視界が真っ赤に染まっていく。
虚空から伸びて来た腕が絡み合い、その指と指が牢獄を形作っていく。
視界のすべてが虚空の腕に覆われる中、隙間からイヌイ先輩の顔だけが辛うじて見えた。
身体が浮かび上がる。
このまま空の彼方へ連れて行かれるのだろうか。
まるで囚われの姫君のように。
「さようなら、先輩――」
きちんと別れを告げたかった。
ああ、今度こそ。
「――ちゃんと一人で死ねるようにがんばりますから」
これでいい。
きっと綺麗に笑えたから。
浅ましく身勝手に、ミツキは薄暗いよろこびを覚えて。
まぶたを閉じた。
これでいい。
――この世界には奇跡も魔法もなく、正義の味方などいないのだから。
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