不在票:正義の味方





 きっかけは十年ほど前、まだ少年が幼子だったころの話だ。




 それは本当に大きな災害だった。

 たくさんの日常が失われて、大勢の人々が亡くなって、景色すら二度と戻らない。

 それは理不尽であり、不条理であり、抗う余地など何人にも赦されてはいなかった天変地異。

 しかし彼が覚えているのは、被災地からもたらされる破滅的な風景を収めたニュース映像でも、何度も何度も繰り返される首都圏への影響を語る誰かの言葉でもなく――とある人物の葬儀の風景だった。

 よく少年と遊んでくれた、優しいお姉さんが泣いていたからだ。


 双子の姉が消えたのだ、無理もない――そう誰かが言う。

 まだ制服を着て学校に通う歳の少女が、突然、何の前触れもなくいなくなったのである。

 それは家出と呼ぶには突拍子もなく、事件性を疑われる行方不明だった。

 ましてや肉親ともなれば衝撃は大きいはずであり、残された妹が嘆き悲しみ、激情のままに泣きわめくのも仕方のないことだ、と。



 顔すら覚えていないけれど、優しかったことだけは覚えている誰か――その顔を少年は思い出せない。

 もう一人の「お姉ちゃん」と同じく、自分によくしてくれたのはたしかなのに。

 写真を目にしても、見知った人物だという実感が湧いてこなかった。

 普通の消え方をしなかったものは、二度と日常の風景として思い出されることはないのだ。

 そう、普通ではなかったのだ。



――家族の元に帰ってきたのは、肘から先をばっさりと断ち切られた右腕が一本。



 自宅から二〇〇キロメートル近く離れた大災害の被災地で見つかったそれは、握っていた鞄とDNA鑑定の結果、誰のものか明らかとなり――何故そこで見つかったのか、腕の持ち主はどこに消えたのかを教えてはくれなかった。

 悲しみはなかった。

 別離にはなりえなかった。

 慰めにもならない悪夢だけが転がっていた。

 棺に収まる骸すらなく、ただ消え失せたという事実だけがあり、失われた真実が見つかることはない。

 そこにあるのは薄気味悪い、実態も見えない不正義だけだ。


 少年は当事者ではなかったから、それに深く呪われることはなかった。

 だが、同時に無関係ではいられなかった。

 それだけの話だ。



 あの日あのとき、失われたのは親戚の「お姉ちゃん」であり――少年が無邪気に信じていた世界の正しさだ。



 ゆえに彼は真実を求める。

 人々が膨らませた虚偽の殻オカルトを、事実の集合体リアルに分解し、ありもしない妄想を否定し、その先に答えを求め続ける。

 それが少年なりの理不尽と不条理との戦い方であり、正義を求める行いだった。


 だが、今でもこう願ってしまう。


 もしも。

 すべての理不尽と不条理を覆して、正しい道理を示せる存在モノがあるのなら――それはきっと正義の味方なのだと。

 そんな子供じみた幻想があればいいと、今でも思っている。









 どうやら今回も夢見は最悪らしい。

 イヌイ・リョーマはまぶたを擦りながら身体を起こし、現在時刻を枕元のデジタル時計――父のお下がりで液晶画面が馬鹿でかい――で確認。

 午後一時。

 なんとも半端な時間である。

 二度寝から起きるにはちょうどいいとも言えるが。

 メタルラックに収まったパソコン――何もする気になれない。

 そういえば、まだ昼飯を食べていなかった。

 連日の非現実的な体験ですっかり参ってしまったせいか、いつになく深い眠りに落ちていた。

 もう三月だというのに冬の名残がやってきたような寒さも、体調不良に一役買っていたのかもしれない。


「……お化けだの異世界だの、あんなもんが現実にあるって言われてもな」


 数日前、リョーマが出会った怪異なる事件は、今まで信じていた世界が崩れ去ってしまったような衝撃をもたらしていた。

 そもそも一度、自分が死んだかもしれないという悪夢も質が悪い。

 ふざけた喋りの神様もどきの言葉に変な信憑性が出てきてしまっても困る。

 リョーマが春休みの間も父母は仕事があって家にいないし、妹は春休みがまだなので小学校通いである。


 これは同級生のミツキも同じなので、あの事件以来、リョーマと彼女は顔を合わせていない。

 一応、電話番号とチャットアプリのアカウントの交換は済ませてきたが――あの怪異なるものたちに対して、どれほど意味があるかは疑わしい。

 好奇心は猫を殺すというが、好奇心など持たなくても人は簡単にいなくなるのだ。

 二度に渡る怪異の襲撃は、痛いほどそれをリョーマに実感させていた。


――まったくどうかしてるよな。


 呪わしい、おぞましい何かが待ち受けているとわかっているのに、真実を知りたいと思ってしまう。

 この都市で潜むモノを知ってしまった以上イヌイ・リョーマは見なかったことにはできないのだ。

 そのときだった。

 携帯端末スマホに着信――見知った名前が画面に表示されていた。それは待ち望んでいた連絡だった。

 端末を手に取る。


「もしもし、リョウマです」


 電話口に向こうから聞こえてきたのは、ハスキーな女性の声だった。


『おひさー、リョウ坊。あ、ペンネームはオカルト犬だっけ? そっちで呼ぼうか?』

「よしてくれよセンリねえ。ってか、チェックされてたのかよ」

『可愛い従兄弟いとこの文筆活動を応援するのは姉貴分の嗜みさ』


 教えた覚えのないペンネームと中の人がバレていた。相変わらず恐ろしい観察眼と情報感度だった。


『今さら宇津代村連続失踪事件について調べてる物好きなんてリョウ坊ぐらいだからね、あとはタイミングと雑談でわかるよ。個人情報管理はしっかりしないとダメだよー?』

「マジか……恥ずかしいな」

『記事の出来はアマチュアにしちゃよかったと思うよ。時系列並べるのとマスコミの報道の移り変わりを比較検討してたのはよかった。安易な家族真犯人説だの人身売買組織の犯行説ぶち上げるネット探偵ども散々見た後だと清涼剤だったね』


 未解決事件や猟奇殺人事件をあつかった動画は再生回数を稼ぎやすく、様々な形でインターネット上でコンテンツとして消費されている。

 従姉妹が言及しているのはそういう現状への皮肉交じりの感想だった。


「俺だって大差ないよ、その点は。興味本位の身勝手な探偵気取りさ」

『リョウ坊は優しいねえ……繊細っていうかさ、味わい深いんだあ』

「何を味わってるんだよ……」


 うへへへへと気味の悪い笑い声を上げる姉貴分――独特の言語野を持っている従姉妹いとこは、これでも優秀なジャーナリストで場数を踏んでいる。

 取材対象は幅広いが、一貫しているのは対象が社会正義に反した存在であることだ。

 それが犯罪であれ公権力の関わるものであれ、容赦なく切り込んで調べ上げては記事にしていく人種。

 怖いもの知らずというか、普通であれば深入りすれば命がないような事件も特ダネを掴んで生還し、堂々とスクープ記事に仕上げて喧嘩を売ってのける。

 つまるところ未だに彼女が消されていない事実が、その類い希な資質――あるいは強運を物語っていた。

 そういう意味では、リョーマが尊敬する人だ。

 言動は擁護できないが。


『そんで何の用かな? リョウ坊からDM(ダイレクトメッセージ)くれるなんて珍しいけど』


 従姉妹から連絡があったのは、こちら側から頼みたいことがあったからだ。

 わざわざテキストメッセージではなく電話で用件を伝えるのは、何かあったとき、通話記録という形で自分の痕跡を残しやすいからだった。


「いろいろあってさ、イハミ様について調べてるんだ。センリ姉、前にイハミノカミ信仰についてレポート書いてたろ? あれ送ってもらえないかな」

『記事に引用の相談だったらナシ――だけどそういうんじゃないよね?』

「うん。個人的に急ぎで調べたくてさ。流石に神社まで行って取材する時間がなくって」


 あのカインを名乗る怪人が呟いていた言葉に引っかかりを覚えていたのだ。

 イハミノカミ――連続失踪事件について調べていたとき引っかかった単語、イハミ様の別名である。

 本当なら地元の資料館や図書館を使って情報収集を行うところだが、今はそういう基礎に時間をかける余裕がない。

 いつ何時、再び怪異からの襲撃――おそらくファミレスのときと同じような超自然的な手段での拉致――があるかわからない以上、すでにその分野について詳しい従姉妹を頼るのが一番手っ取り早かった。


『オーケーオーケー、お姉さんに任せな。あとでDMにファイル添付しておくから。簡単な概要はアプリでも読めるし、詳細はPCの方で確認よろしく』

「ありがとう、センリ姉」


 世話になりっぱなしの従姉妹に感謝の念を伝えると、彼女はへらへらとこともなげに言った。



『いいっていいって、お互い、本当のことが知りたいもの同士なんだから――それはもう手助けしちゃうよ、リョウ坊』



 通話が切れる。

 理不尽と不条理の原風景を共有している従姉妹は、だからこそリョーマに優しかった。

 その事実が重たい。

 やましさと後ろめたさに苛まれながら、ぽつりと呟いた。


「……俺は、そこまで真面目じゃないよ」


 ちなみに送られてきた資料には、何故か卒業祝いと称して成人向けエロCG集一〇本が添付されていた。

 どうやら購入してくれたらしい。

 リョーマは未成年でまだ中学生のため、バリバリその筋のアダルトサイトの規約違反である。

 従姉妹はかなり人格とモラルに難がある人物だった。









――迎えに行く。三分で支度をしろ。



 そのDMが来たのは通話を終えてから三〇分後のことだった。

 横暴極まりない幼馴染みからのチャットメッセージを受信してすぐ、外に自動車が止まる音がした。

 身支度がし終わった後だからいいものの、遠慮がない関係というのも考え物だった。

 ベルカ・テンレンの横暴には慣れているのでぱぱっと貴重品を身に着け、自宅の鍵を持って家を出る。

 玄関に施錠後、振り返るとそこに立っていたのはやはり幼馴染みであった。


「おっす、生きてて安心したよリョーマ」


 美少女がいた。

 黄金の頭髪は首の後ろで一つくくりにされたロングヘア、乳白色の肌はつやつやとしていて、淡い青の瞳は南国の海のよう。

 小顔ながらぱっちりした目はたれ目気味だが、口元の笑みが意思の強そうな印象を与えてくる。

 ハイネックのニットの黒いセーターに赤のフレアスカート姿のベルカは、人形めいた容姿と相まって見惚れるほどに可愛らしかった。

 これで三〇センチ近い身長差があるものだから、近くにいるとその意外なほどの小柄さにドギマギしてしまう。


「可愛いな……」


 思わず口からこぼれたのはただの本音だった。

 ベルカはうむっ、とうなずいて。


「当たり前のこと言っても加点はしないぜ?」

「で、どこ行くんだ」

「どうせ昼ご飯食べてないでしょ。おごってやる」


 どういうことなのかさっぱりわからないが、自分に拒否権がないことはこれまでの付き合いでわかりきっていた。

 使用人のシエランが運転する乗用車の後部座席に、二人並んで座る。


「何を企んでる?」

「わたしのヒモになれ」

「そのネタ、二月にも使ってたからな?」



 車で十分ほど走っただろうか。



 見晴らしのいい駐車場に乗用車が止まる――シエランは車の運転席に残るらしく「お二人でごゆっくりどうぞ」と告げてそれっきりだった。

 ベルカに手を引かれ、連れて行かれたのは個人経営の雰囲気のいい喫茶店だった。

 戸を開けるとからんからんとベルが鳴り、穏やかなBGMが聞こえてくる。

 暖色の灯りがもれる店内で、奥のテーブル席に通される。

 着席した途端、ベルカはにやっと悪巧みしてそうな笑顔になった。


「事情聴取の時間だ、リョーマ。年貢の納め時だぜ?」


 どういうことか問い返す前に、少女は二人分のオーダーを済ませてしまっていた。


「すいませーん、コーヒーとオムライスを二つ。季節限定ジャンボイチゴパフェを食後にお願いします」


 初めて来る店だったので、メニュー表を見て品定めをしていたリョーマはその注文の精確さに驚愕した。


「……待て、なんで俺が頼もうとしてたメニューがわかったんだ」

「リョーマ、キミの嗜好ってすごいわかりやすいんだよ。考えてることもね」


 名探偵を前にした間抜けな助手役になった気分だった。

 ベルカはこちらの考えていることなどお見通しだと微笑んで、鋭く切り込んできた。


「それで――この前、ファミレスでいなくなった間に何があったか、キミの口から喋ってもらってないんだよね、わたし」


 そうきたか。

 あのときは再会してすぐにベルカに抱きつかれたが、詳しく事情を話す前に引き上げて解散してそれっきりだった。

 そういえば店の勘定も彼女が代わりに払ってくれたらしい。

 金銭的にヒモっぽい挙動になってることに気づいて、リョーマはなんとも言えない顔になった。


「……お前には関係ない、だろ」


 これ以上、ベルカを巻き込むのはいかがなモノだろう、と思っての返答だった。

 それがよくなかった。

 妙に威圧的な笑顔を貼り付け、幼馴染みの少女はため息一つ。


「へえ……そっかー、そういうこと言っちゃうかー。いいぜ、それなら私にも考えがある」


 テーブルの上に置かれたのは、見覚えのあるブックタイプのケースに収まった携帯端末スマホだった。


「へ? それ俺の……!?」

「脇が甘すぎるんだよね、キミは」


 こともなげにパスワードを解除すると、ベルカは画面をタップして画像閲覧アプリを立ち上げてみせた。

 冷酷な脅迫の時間だった。


「これから、キミの携帯端末に入ってるエロい漫画の台詞を読み上げる」

「ばっ、入ってねーよ!?」


 叫んでから気づいた。

 従姉妹からもらったエロCG集をめっちゃ入れていたことに。

 出来心だった。

 まだ手をつけてはいなかったが、タイトルで気になった作品をスマホにしまっていたのだ。

 未使用である。

 どうしてベルカが知っているのかは不明である。かまをかけられたのかもしれない。

 あるいは、もしや。


「……ストーカーか?」


 わりと正鵠せいこくを射ている推測だった。

 リョーマには知るよしもないことだが、この世には情報機関や独裁国家御用達の諜報用スパイウェアが存在しており、世界中でジャーナリストや人権活動家への監視・迫害に利用されている事実を記しておく。

 特に意味はない。

 深い意味を考えてはいけない。

 図星を突かれたベルカは優しい微笑みを浮かべて、液晶画面を操作した。



「えーっと? 【デカ乳無限天国~おっぱい四面楚歌で弄ばれる~】……………………なるほど」



 この世で一番、好きな女の子に読み上げられたくない文面だったのは言うまでもない。

 心が折れる音が聞こえた。


「や……やめて……ほんとやめて……」


 少年の声は哀れなほどに震えている。これから魂を殺される人間の顔だった。


「クソみたいなタイトルのエロCG集仕入れやがって……とうとうやりやがったな、どこで手に入れた?」

「卒業祝いに……従姉妹から……」

「どうしよう、問題しか感じない親戚づきあいだ」

「センリ姉ちゃんだよ。お前も何回か会ってるぞ、ジャーナリストやってる」

「あー……あの大きいお姉さんね」

「胸の話はしてねえよ」


 ベルカは真顔になった。


「……………………背丈の話なんだけど」


 迂闊うかつだった。

 たしかに件の姉貴分は背丈も大きければ胸も大きい。リョーマにとっては幼き日の憧れであり、今のライフワークに目覚めたきっかけでもある。

 だが、おっぱいは関係ない。

 ないはずだ。

 じっとりとすわった目でリョーマをにらむと、ベルカは深々とため息をついた。

 やれやれ、と肩をすくめて。


「とうとう日常会話までおっぱいに聞こえる症状か……もうおっぱい星に帰れよ」

「俺は地球人だからな?」

「地球はおっぱいの星だったの……?」

「今、地球上で繁栄しているのは哺乳類だからな。そうかもしれない」


 リョーマは自棄になっていた。

 それにおっぱいが好きだった。

 ベルカは舌打ちした。


「調子に乗るなよホモ・サピエンスが」

「罵倒なのか……?」

「ホモ・ハビリスが……」

「急に退化した!?」


 人類進化学的な罵倒だった。

 ともかくリョーマは生物学的観点から自己正当化を図った。


「まあとにかく、俺は哺乳類だから無実だってことだ。生命の進化の歴史じゃ仕方ないだろ」

「正気なの?」


 キレ味のいい罵倒だった。

 ふーっとため息をつくと、リョーマは本音を伝えた。


「とにかく、姉ちゃんでそういうのはやめてくれ。親戚でそういう話されると生っぽくて嫌なんだ」

「ん、ごめんね……でもさ、この世に生じゃないおっぱいってあるの? アニメとゲームは絵だからおっぱいじゃないんだよ、知ってた?」

「そうやって人の心を傷つけるのをやめろ」

「今ので傷つく心に問題があると思う」


 どうしようもないシモネタの応酬を始める二人だが、これでも声量は絞ってある。

 羞恥心はあるのだ、思春期だから。


 気まずい雰囲気の中、店員が運んできたコーヒーは清涼剤だった。

 コーヒーの良し悪しなどさっぱりわからないリョーマにも、夏場に買ってくるペットボトル入りのコーヒー飲料とは別の飲み物であるとわかる。

 尤もブラックコーヒーは彼の口には合わず、ミルクと砂糖が追加されているのだが。

 薫り高いコーヒーを飲んで一服すると、ベルカは仕切り直して本題に入り直した。


「何があったのか、話してくれる?」

「わかった」


 そういうことになった。


 といっても語れる内容はほとんどない。

 突然、クジャク様と呼ばれる怪異に、無人の異様な世界に連れ去られたこと。

 ミツキを逃すのが限界で自分は捕まってしまったこと。

 以前、廃墟に立ち入ったときと同じくスカルマスク――都市伝説の怪人が助けてくれたこと。

 その後、正体不明の怪人同士の会話が始まって、ミツキが狙われていると確定したこと。

 自分が一度死んだような幻覚を見た後、黒い巨人と会話した内容は伝えなかった――いくらなんでも脈絡がなさ過ぎて、リョーマ自身、信じていない悪夢だったからだ。

 彼の報告を聞き終えた後、ベルカはしばし瞑目して黙り込んだ。

 そして目を開くなり、少年の顔を見据えて。



「単刀直入に言うけどさ、この短期間で二回連続で死にかけたんだよ。大人しく手を引きなよ。今なら誰も責めやしないし、あの子の今後が不安ならうちの方で対応してもいい」



 そう言い放った。


「うちって――」

「世界で一〇本の指に入る金持ちが、ホシノ・ミツキを守ってあげる。キミが思ってるよりさ、わたし個人で動かせる資産カネ人脈コネもあるんだよ」


 これが強がりでもなんでもなく、単なる事実なのがテンレン家だった。

 前世紀に巨額の富を得たテンレンの先祖はテンレン財団を立ち上げ、慈善事業や科学振興に力を入れる一方、複数の世界的製薬会社に出資し、近年は情報通信分野にも力を入れている。

 社会的に大きな影響力がある財団なのだ。

 そして何より、ベルカ・テンレンは天才だ。

 頭の出来も身体能力も洞察力も決断力もリョーマではおよびもつかないほど優れている。

 まるで別の生き物みたいに、彼とは見ている世界が違う。

 その幼馴染みがいつになく真剣なせいで、自分が関わってしまった事態は途方もなく危険なのだと実感が湧いてきた。

 出来の悪いホラー映画と陰謀論者の妄言をミックスしたような悪夢は、現実になってみると中学生の手に余るのだ。


「……それは」

「はっきり言おうか。手を引いてきっぱり忘れろ。キミには何もできない」


 わかっている。

 ベルカの方が正しい。

 それでも言わずにはいられなかったのは、イヌイ・リョーマという人間の抱える激情の一番熱い部分だ。


「俺に、見捨てろっていうのか」


 強い語気の言葉を受けても、ベルカは冷たいまなざしをやめない。

 射貫くようにリョーマの目を見つめながら、少女は無表情に問うてくる。


「そうだよ。キミはなんの役に立つわけ? 警官のまねごとも探偵のまねごとも中途半端で役に立たないボンクラ一人が突っ立ってるとなんの足しになるって?」


 ベルカの糾弾は容赦がなかった。

 黄金色のまつげが、細められた目の縁を彩っている。


「だけど、ホシノさんを一人にはできない」

「へえ。二度も絶体絶命の危機をスカルマスクに助けてもらったのに? あのさ、リョーマ。三度目は死ぬって思わない?」


 尤もすぎて言い返せなかった。


「……三度目、あると思うか」

「偶然、二回も短期間のうちに命に危機にさらされた、なんて考えるよりはね。三回目も正体不明の怪人が助けてくれるって前提はどうかと思うよ、わたし」


 超常的な存在に狙われているのに、頼れる存在は少なすぎた。

 警察は都市伝説のお化けに襲われるなどと言っても動いてくれないし、謎の怪人に狙われているなんて言っても同じことだ。

 誰だって子供のイタズラだと思うし、そうでなければ精神科を紹介するだろう。

 いっそミツキの保護者に言うべきかと思ったが――普通人にあんな理不尽な化け物をどうにかできるはずもない。


「ここまで関わって、今さらほっぽり出して、あいつが行方不明になったって後から聞けってか」


 だからリョーマの反論は、自身の非力さも状況の詰みっぷりもわかった上で納得できない感情の話だ。

 それは理路整然とした指摘でどうにかなるものではなかった。

 わかりきっている問題だから、ベルカは辛そうに眉をしかめた。


「キミってどうして厄介ごとに首突っ込むかな。自分にそんな力なんてないってわかってるでしょ――喧嘩だって弱いくせにさ」

「喧嘩は関係ねえだろ……」


 ちょっと気にしてることを指摘され、リョーマはうめいた。

 人を傷つけるという選択肢がとれない時点で、喧嘩が強くなるはずがないのだ。

 厳つい見た目のわりに本当に役に立たないので、学校の友人からガッカリされることに定評がある男である。


「あるよ。弱っちいからきっとすぐ死んじゃうよ。キミが死んだらわたしは泣く。キミのお父さんもお母さんもナツミちゃんも泣く。ついでにキミの友達も泣いてくれるかもね。ほら、マイナスだらけだよ……大切な友達に、長生きしてもらいたいって思うのは間違いなのかな」


 ずっとリョーマの目を見て話す少女は、きっと嘘を言っていない。

 自分のある種、幼稚な感情論がもたらす可能性に言及されて、胸が苦しくなった。

 なのに、彼は諦められなかった。


「それでも……相手が見ず知らずの誰かじゃなくて、ちゃんと生きててよく笑う変なやつだって知ったら、放っておけないだろ」

「普通の人はそこで見捨てられるんだよ。もうちょっと凡人になれよ、キミは正義の味方にでもなりたいわけ?」


 ああ、どうだろう。

 それが自分自身である必要はないけれど、いたらいいのにとは思う。

 脳裏をよぎるのは唐突で意味不明で、ひたすら理不尽で不条理な喪失――涙を流す誰かが、ヒーローみたいなモノに救われたらよかった。

 そうであったらいいと、今でも願っていた。


「それが普通ってのは露悪的すぎるだろ……いつから、そんな風に人間を軽蔑するようになったんだよ」

「最初からだよ。わたしは人間なんて大ッ嫌いだ――甘っちょろいキミのことは好きだけど、それで死んじゃうくらいなら無様でみっともない凡人になってくれた方がいい。くだらないメサイアコンプレックスなんて捨ててよ」


 強い言葉だった。

 それが悪意ではなく善意――危険に飛び込むリョーマを思っての言だとわかっている。

 ベルカ・テンレンは人間嫌いのくせに正しくて、いいやつだった。


「……たぶん、ベルカの言うことは正しいんだよな。でも無理だ。ここであの子を一人にするのは、あんまりにも悲しすぎる」


 それでも愚かなリョーマは、きっと間違えるのだ。



「たとえ、救いようがない状況だとしても――何も見なかったことにするよりはずっといい。この世が理不尽でも不条理でも、少しぐらい救いがあってもいいじゃないか」



 一瞬、まぶしいものを見るようにベルカは目を細めた。

 そしてすぐに表情を消して、不機嫌そうに悪態をついた。


「それで死にかけたって言ってなかったっけ、さっき。バカなの? 死にたいの?」

「だよな……」


 自分でも何一つ少女の懸念を払拭できていないとわかる。反論ですらなく開き直っているだけだ。

 肩を落とすリョーマを見つめたあと、ベルカは深呼吸して目を閉じた。

 沈黙――追憶を噛みしめて。



「……忘れてた。ここで引くようなヤツなら、わたし、キミと友達になってないや」



 ぽつり、とこぼれた呟きは切なげだった。

 それがあまりに儚げだったから、ばつの悪い顔でリョーマは頭を下げた。


「悪ィ。俺のこと、心配してくれてるんだよな」

「ううん、わたしも言い過ぎた。ごめん、リョーマ――でも反省はしてね。たまにキミの足の一本二本、へし折ってやりたくなるよ」


 笑顔で恐ろしいことを言い始める幼馴染みは、あまり冗談が得意なように見えなかった。


「冗談に聞こえないからやめろ」

「そーだね、冗談冗談」


 ひらひらと手を振るベルカは軽いノリだ。

 今のが冗談ではない可能性に思いをはせつつ、リョーマはふと疑問を持った。


「そういえば俺たち、何がきっかけだったっけ。言っちゃあなんだが、俺とお前って暮らしぶりで縁ないだろ、本当なら」


 ベルカはにっと笑った。

 いろいろ誤魔化すときの笑顔だった。


「覚えてないならそれでいいよ。わたしはいつでもそれをネタにできることだけは忘れないでね」

「ここで脅す意味あるか?」

「わたしにはある」

「お、おう」


 何が何だかわからないが藪蛇やぶへびらしい。


 その後、店員が運んできたオムライスは絶品だった。

 しっかりと焼き上げられた、ふんわり柔らかい卵に包まれたチキンライスは米粒が立っていて塩気が効いている。

 刻みタマネギやマッシュルーム、一口大の鶏肉はよく炒められていて、バターの香りとケチャップソースの旨味が具材を調和させていた。

 しっかりと食べ応えのあるオムライスであり、洋食レストランで出されてもおかしくない本格的な味だった。

 ジャンクフード愛好家であるものの、なんだかんだで舌が肥えているベルカが連れてくるだけあって当たりである。


 ぱくぱくとオムライスを平らげるリョーマを、スプーンを運ぶ手を止めてベルカが見つめる。




「まあ、いいや。ダメ元で頑張ってみなよ、本当にダメそうなら――うん、わたしがキミを助けてあげよう」




 その呟きに込められた覚悟など、このときの少年には知るよしもなかった。




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