呪いの子




――ベルカ・テンレンは悪人である。



 彼女は人間の命の重さについて、はっきりとえこひいきをする。

 資産家の令嬢として掌握した権力と財力に対しての責任――できる限り公平であろうとしているが、それはあくまで努力目標だ。

 いつ如何なるときでも発揮される信念などではない、ありふれたペルソナの一つ。

 ベルカは悪人だ。

 有象無象と大切な誰か。

 そういう区別をして、そういう差別をするし、その結果が決して正義ではないと知っている。

 だから人となりを知って間もない少女と幼馴染みの少年なら、後者の方を優先する。

 ホシノ・ミツキがこちらに向けてくる憎しみのこもった目にも、スカルマスク――ベルカの本当の姿は動じない。


「貴様の疑問に答えるには時間がない。逆に私が問わせてもらおう」

「なに、を……!」

「もう一人はどこにいる?」


 その一言は激高したミツキを凍り付かせるには十分だった。


「私は貴様たちを助けに来た――少なくとも今このときはな。まだ問答が必要か?」


 話術としては下の下もいいところの、挑発同然の言葉だ。

 だが、この場において最も効果的で手っ取り早い言葉であり、ホシノ・ミツキのパーソナリティはその程度には賢明だった。

 あまり頭がよくない少女を見下ろし、その幼い自我が望み通りの反応を返してくるのを待つ。


「せ……せんぱいを、たすけて、ください……」


 激情を抑えて頭を下げるミツキは、哀れなほどに震えていたが、それをフォローするほど彼/彼女は優しくなかった。

 らしくもなく焦っていたからだ。


「場所は?」

「……えっと、国道沿いの、南のファミレス……」

「わかった。いくぞ」

「へっ?」


 ひょいっとこともなげに少女を小脇に抱えると、スカルマスクは言葉が足りなすぎる注意をした。


「口を閉じろ。舌を噛むぞ」


 瞬間、弾丸的な疾走を開始――跳躍の方がもっと速いのだが、間違いなくGでミツキの内臓が潰れて死ぬので遠慮した。

 小脇に一二歳の少女を抱えているのに、マラソン選手並みに姿勢のいいフォームで走るスカルマスク。

 どこか間の抜けた光景だが、当事者にとっては笑い事ではなかった。

 すでに時速八〇キロを超える速度がでている。

 自動車並みに生身で加速され、ミツキは恐怖のあまり硬直し――生理的に不可避の反応が起きた。




 もれた。




 ミツキの目から涙が流れ落ち、続いて何かを諦めるように下がる眉。

 その表情には、言葉にならない絶望があった。

 空気中に拡散するアンモニア臭を察しつつ、スカルマスクはガン無視した。

 何故なら彼/彼女は悪人であり、年幼い少女の尊厳については優先順位を低くしているからだ。


 大して足も速くないミツキが一生懸命に走った道のりは、人外の脚力をもってすればあっという間にさかのぼれる距離だった。

 この赤い空の世界は、青い空の現実を模写したかのように風景が同じだ。

 人っ子一人いない街並みなど、早朝のそれを思わせるほどだ。

 けれど、ここに命あるものはない。

 草木の一つさえも存在せず、昆虫はおろか微生物、あるいはウイルスすら長くは保つまい。

 当然だ。

 ここはそういう異界――怪異なるものがそれ以外を喰らうための餌場なれば。



――時間がない。



 表の世界と同じ場所に、立地も外観も変わらずファミレスはあった。

 ベルカは――いいや、スカルマスクはすでに状況を理解していた。

 得体のしれない化け物に襲われて、足手まといの少女がいれば、あのお人好しの幼馴染みがどう動くかなどわかりきっている。

 見捨ててしまえばいいものを。

 そう思いつつファミレスの前で減速、停止。

 腰が抜けてしまったミツキを地面に降ろすや否や、彼/彼女はそれを目視した。

 無数の腕を伸ばして――ほとんどそれの集合体と言ってもいい――イヌイ・リョーマを捕食せんとするクジャク様の姿。

 間一髪と言っていい。

 もし、何かちょっとした条件が違えば――異界への侵入が遅れていたり、スカルマスクがミツキを発見するのが遅れていたりすれば――間に合わなかっただろう。

 要するに、この腕の化け物は彼/彼女が価値あると認めた数少ない個人を、リョーマを喰おうとしているのだ。



――殺すか。



 そういうことになった。

 そしてそのための能力を、この異形の身体は十分に備えていた。



――位相変換開始。



 スカルマスクの外骨格を構成する装甲の一部が展開され、血のように薄暗い内部機構を露出。

 すると瞬く間に異変が訪れた――うねうねと翼のように無数の腕をうごめかせていたクジャク様の動きが止まり、痙攣けいれんし始めたのだ。

 虚空子エーテルで構成され、質量を持った実体とそうではない非実体を行き来する怪異を、無理矢理に物理領域へ固定する――位相変換能力は、研究機関〈シャンバラ〉において実用化されたエーテル操作技術の一つである。

 神出鬼没であり、特殊な脳を持つ人間でなければ非実体状態での観測すら叶わないそれを、物理法則のくびきで押さえ込む。

 冷戦中に開発された位相変換技術は、人ならざるものを駆逐するための怪異殺しであった。


 そしてネフィリム体とは〈シャンバラ〉の成果物――異端科学の結晶だ。

 異形異能の超人――たった一歩分の跳躍で十メートル以上の距離を移動し、その外殻は重機関銃の掃射に耐え、その筋肉は地球上の如何なる電動機モーターよりも高効率な力学的エネルギーの出力装置である。

 根本的に戦う土俵が違うスカルマスクの乱入は、クジャク様にとって想定外であり、分が悪すぎるものだった。

 人間にとって絶望的な怪異の膂力も速度も手数もネフィリム体の敵ではない。


 刹那、跳躍。


 弾丸的突進とともにかぎ爪が振るわれ、リョーマの足首を掴んでいた腕を切断。

 続いて彼に襲いかかろうとしていた腕が三本、四本、まとめて引き裂かれた。

 体液は出ない。

 気味の悪い粘土細工のような体組織が、耳障りな断裂音を立ててひねり潰される。

 それは破壊の嵐だった。

 人の拳打では起こりえない事象――切り裂かれ、砕かれ、千切られ、穴だらけになっていく怪異――おおよそ最初の五秒でクジャク様は戦闘能力を失い、次の五秒で肉塊と化して活動を停止。

 リョーマはその間、あっけにとられて立ち尽くしていた。

 少年の足を掴んでいた怪異の指を引き剥がすと顔を一瞥いちべつ、スカルマスクが問うのはたった一言。





「――無事か?」









「あ、ああ……あなたは……」


 おっかなびっくりに口を開く先輩を遠巻き見ながら、ミツキは立ち尽くしていた。



――助けて、くれたんだ。



 ミツキが見捨てた先輩を、スカルマスクが助けてくれた。

 いいや、救い出してくれた。

 ミツキにとってその光景は悪夢そのものだ。


 これじゃまるで、スカルマスクは悪者じゃないみたいで――あの日あのとき、ミツキの母親を見殺しにした理由がわからない。

 憎めばいいのか、問い詰めればいいのかすら判断できなくなる。

 ぐちゃぐちゃになった頭のまま、ミツキは空を見上げる。


 まるで人の血管を引き裂いたときあふれ出す血液のように綺麗な赤色の空だった。

 あの事故の夜、運転席で動かなくなった母を彩っていた血のように。

 鮮やかな紅。


 それは薄暗い血のようにも、唇を彩る口紅のようにも、大地を舐める炎のようにも見えた。

 その赤い空にも瞬く月はある――欠けたるものなき黄金の満月が。

 どうしてだろう、この空を見ていると落ち着く。

 スカルマスクに抱いていた不信感や怒りも、波が引くように薄れていくのがわかった。

 まるで誰かに見守られているかのように。


「あっ……! ホシノさん、無事か!?」


 こちらの姿を視界に収めた先輩の精神――心からの安堵が伝わってくる。その善良さに涙が出そうだった。

 彼女が気にしている、先輩を見捨てて逃げたという負い目など、彼は微塵も思考していなかったのだから。

 まるでヒーローみたいだった。

 嘘みたいな善人だ。


「せんぱいは……だいじょぶ、だったんですね」


 こちらに駆け寄ってきた先輩は、ミツキのどこにも怪我がなさそうな様子を見て、ほっと息を吐いた。


「ああ、間一髪ってとこだけど……怪我はない、よな。よかった……」

「あっ」

「……どうした?」


 今さら思い出したのは、さっきもらした小水だった。さっきから股間のあたりがびちゃびちゃして気持ち悪いことに、今さら実感が湧く。

 これは近づかれると不味いやつでは、と悟る。

 スカルマスクは許せないという思いを新たにしつつ、ミツキは別人のように冷たい顔で一言。


「……先輩、あたしの半径二メートル以内に近づかないでください」

「なあ、俺なんか悪いことしたか!?」


 いきなり理不尽な要求を突きつけられ、困惑する先輩の心も非常に美味だったことは特筆に値する。

 不条理への若干の苛立ちと戸惑いたっぷりの心を精神を味わう舌でべろべろと舐め取りながら、ミツキは思った。



――イヌイ・リョーマはヒーローみたいな人だと。



 そんな二人のじゃれ合いを横目に、スカルマスクは怪異の死骸を見下ろしていた。

 どうしたんだろう、とミツキは思う。

 スカルマスクはその容姿――顔の見えない悪魔じみた姿――と同じく、精神も固く閉ざされていて、少女の読心能力では内面をうかがうことができなかった。

 だが、その姿は死体の見聞をしていると言うより、警戒しているように見えて。


「――なっ」


 異様なモノを見た先輩が、うめき声を上げる。

 ズタズタに引き裂かれ動かなくなったクジャク様――精確にはその残骸というべき肉塊が、びくびくと震え始めていた。

 リョーマとミツキが後ずさり、スカルマスクが身構える中、それは粘液質な音を立て、肉と肉の間の裂け目に歯と舌と気管を形成――震えながら言葉を発した。


「ご……う……かく、だ」


 ぎこちない音の連なりは、二言目には流ちょうな発声に切り替わっていた。



「――この恐怖領域において精神に異常を来すことなく活動できている。合格だ、君たちは素晴らしい」



 陰々滅々たる粘ついた声――しわがれた初老の男の声質は、どこか楽しげな響き。

 リョーマとミツキを戸惑わせたのは、その穏やかな雰囲気だった。

 突然、発された言葉もそうだが、不気味でこちらへの害意に満ちた怪異のありようとは異質すぎる。

 加えて言うなら、ミツキは目の前の怪異の残骸から、如何なる精神活動も感知できていない。それはスカルマスクに破壊される前のクジャク様とも違って、昆虫的な本能すら不在のモノだった。

 電源に繋いだスピーカーが喋っているのと大差ないように思えた。


「精神投影……貴様がカインか」


 何かを察したように呟くスカルマスク。

 そしてミツキの先輩は図太すぎる神経で、明らかにこの世ならざる存在のそれらへ問いかけていた。


「精神投影……?」

「ここにいない第三者が、その化け物を操って貴様たちを襲わせていた、ということだ。アレは無線機代わりにされているに過ぎん」


 どういうわけかスカルマスクは先輩に親切で、たった今、口にしたばかりの謎の単語の解説を始めていた。

 こういう場面って日曜日の朝の特撮番組だとスルーするところじゃないかな、と説明調の台詞に抗議――現実とフィクションを全力でごちゃ混ぜにする少女は、さきほどまで泣きそうだったことも忘れて現実感のない光景を傍観していた。


「いかにも、私がカインだ。イハミノカミとして主を祭るこのソラハラで、ネフィリムの生き残りに出会えようとはね……私は導きを得ているようだ」

「異端科学の崇拝者が天主デウスへの信仰を語るか」

「元来、叡智の探求とは神への道のりだ。科学を信仰の対義語だと捉えるのは歴史の浅い合理主義者の錯覚に過ぎんよ」


 わけがわからないままにミツキにも察せられたのは、怪異の口を借りて喋っているのが悪者で、スカルマスクはそいつのことを知っているらしいこと。

 おそらく二人は敵対者なのだろう。

 本当に、特撮番組みたいだった。

 自分が当事者でなければSNSで実況の一つもしていたかもしれない。

 だがこれは現実で、ミツキの先輩はついさっき殺される寸前だったし、スカルマスクは人知を超えた暴力の持ち主だ。

 意味がわからなかった。

 たしかにミツキには不思議な力が――人の心を読み取り味わう舌があるけれど、それは悪の組織に狙われたりするような才覚ではないと思った。



「どうしてホシノさんを襲った? 答えろ」



 そのときだった。

 先輩が悪者――カインというらしい――とスカルマスクの会話に口を挟んだのは。

 彼は見たことがないぐらい険しい表情で、怪異の残骸を睨んでいる。


「悪運に満ちた少年よ――逆に私から問おう、君はその少女が何者かわかっているのかね?」


 怪異の口を借りる何者か――カインは、気分を害した様子もなくそう言って。

 ミツキの方を”見た”。

 そんなはずはない。怪異の目はすべて潰れていたし、周囲にミツキと先輩とスカルマスク以外の人影はない。

 なのに、寒気がして。


「――ひっ」


 怯えた声がもれた。


「恐れることはない」


 わけがわからない。気持ち悪い。

 顔も名前も心の中身も知らない相手に、一方的に親しげに声をかけられるなんて。

 耐えられない。


「かのバベルの塔以前、この地上に存在した統一言語の名残。すべての人が繋がり調和しあうための権能――我々、超能力者は誰しもが大いなる意思に祝福されているのだ、見知らぬ少女よ」

「世迷い言を。貴様の薄汚い生態が調和だと? 精神寄生体パラサイトめ」

「困ったものだ。人を裁く天使であるべき君たち混血児ネフィリムが、人の守護者たらんとするとは。産みの親の一人として悲しいよ」


 何か得体のしれない悪意と陰謀が、ミツキたちの知らないところで進行していた。

 これがテレビ番組ならよかった。

 ばらまかれた伏線が回収されるかどうかで議論するのだってリアルタイム視聴の醍醐味だと言える。

 けれど、これはミツキが巻き込まれている現実で。

 胸がむかむかして気持ち悪くて、吐きそうな気分で叫んだ。


「あ、あたしは関係ない! 勝手に、あたしのいないところで! スカルマスクと戦ってればいいじゃないですかっ!」

「それは違う。君は君としてここにいる。だから我らの儀式に選ばれたのだよ」


 答えになっていない。

 なのに相手は明確に自分を意識して狙っているのだと、理由もわからないまま理解した。


「あまりカインと話すな。意思疎通など不可能だ。対話を期待したところで何も返っては来ない」


 淡々と言葉を発しながら、スカルマスクが肉塊に歩み寄る。

 その黒いかぎ爪の右腕が振り上げられて。




「繋がりし子よ、燔祭はんさいの日まで健やかに生きなさい――この世は神の見る夢、まどろむ胎児を養う胎盤に過ぎぬのだから」




 肉塊が跡形もなく破壊されるその瞬間まで、カインは再会を待ち望むように笑っていた。






 それからのことはよく覚えていない。

 先輩に手を引かれて歩いて、スカルマスクが何かを言っていて。

 気づいたら――赤い空の下から抜け出していた。


 最初に違和感を覚えたのは聴覚だった。


 たとえば道路を走る自動車の走行音、街角を走る自転車の音、お店から聞こえてくるBGM。

 変だなと思って周囲を見回すと緑の街路樹があって、視界のそこかしこに通行人がいた――見上げれば春の青空。

 ごく当たり前の、これまでずっと見飽きるぐらい馴染んできた日常風景。


 前を向くと、先輩が黄金色の髪をした女の子に抱きつかれていた。

 たしか、ファミレスで顔を合わせたベルカさん。

 いつの間に自分たちを見つけたのだろう。時間感覚が狂っている今のミツキには、それすら定かではなかった。



「よかった……キミが、無事でよかった」



 彼女の心は読めないけれど、その言葉が心の底からの本音なのはミツキにもわかった。

 幼馴染みの抱擁ほうようを受け止めるイヌイ先輩が、生還のよろこびと安堵に満ちていることも。

 そこに宿った愛情も。



――ああ、わかってしまう。



 少女は空を見上げる。



 元通りの日常の、何の変哲もない青い空なのに。

 すべてが疑わしく、薄気味悪く思えた。



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