都市伝説考察2-3




 ホシノ・ミツキは孤独だった。



 少女の見ている世界はいつもどこか色あせていて、普通の意味さえ誰かと共有できなかった。

 彼女の世界にはあるべき情動がなく、あるべき感覚がなかったが、同時にそれを補ってあまりある機能が発達していたから、人間世界で言うところの障害者にすらなれなかった。

 人間の社会は分類することによって成り立っている。

 話す言葉も肌の色も生まれた階級も学歴も収入も、究極的には個人を分類するためにある要素の一つに過ぎない。

 幼少期、母がミツキを案じて医者に連れて行ったこともあったが、それは少女の生来の異常性を分類できるようなものではなかった。

 医学的に彼女は健康体そのものだった――どんな検査をしても理想的すぎるぐらいの値しか出なかった。

 味覚の異常は精々、心因性の症状だろうと結論づけるしかない程度に。

 少女の不幸は、生まれ持った異能――人の心を読み取り、操作し、食物のように味わう――に対して、その人格が普通人に近すぎたことだったのかもしれない。

 完璧な怪物に育ちきるには、彼女は優しく育てられすぎた。


 完全な捕食者として振る舞うのであれば、もっと積極的に人を精神を喰らい、自らに都合のいいように周囲を弄べばいい。

 けれどミツキはそうなれなかったからホシノ・ミツキなのだ。


 みんなが美味しいものを食べると幸せだという。

 お金持ちも、貧しい人も、美味しいものを食べれば笑顔になると聞くけれど――ホシノ・ミツキはその普通を知らない。

 貧富の格差だとか食生活に出る所得格差なんて今風の断絶ですらない。


 彼女の生きる世界に、美味しい地上の食物など最初からないのだから。

 自分が生きている世界と誰かのそれが重なる日など来ないのだと諦めてしまえば、言いようのない空虚感を忘れられた。

 少女はそれを寂しいと思ったことすら、忘却の淵に沈めたのだ。


 それだけで済めばよかったのに、運命はもっとミツキに対して辛辣だった。

 今まで普通の人間の振りをして生きられたのに、急にお化けに――心を持たない怪異に狙われるようになったのだから。


――どうして。


 どうして今、イヌイ先輩が自分と一緒に襲われているのだろう。

 そんな疑問とも後悔ともつかない感情に襲われながら、少女は年上の少年の手を握る。その掌のぬくもりだけが唯一、安心できる現実のように思えた。


 心を読むのが怖かった。

 お前のせいだと思われていたら嫌だった。

 だが、彼女が頼った少年――友人の兄だという彼は、力強くミツキの手を握り返して。


「……こっちだ!」


 ぐっと少女の細腕を引いてファミレスのキッチンへと駆け出した。


「え、あのっ」

「店の人用の出入り口しかない」


 あの怪異――クジャク様のすぐ側を通って店の外に出るよりずっと現実的だという思考。

 そこにミツキを非難するような色は一つもなく、ただ、二人で逃げ延びるため必死に考え続ける少年の息づかいだけがあった。


 どうしてだろう。

 どうしてこの人は、こんなにも美味しい心のままなのだろう。

 ミツキにはわからない。


 長い黒髪を揺らして、少年の後をついていく。キッチンの中はやはり無人で、先ほどまで誰かがいたような作りかけの料理や食材が置きっぱなしになっている。

 店の間取りに詳しいわけではないから、それらしい扉を開けて外に通じる通路を探すしかない。

 ふとミツキは幼少期に最初に見た特撮番組を思い出した。

 正義感に厚い青年が時に傷つき、心折れそうになりながらも、立ち上がっては戦い続ける――そんなありふれた正義の味方のお話。



 ミツキはそういう真っ直ぐなヒーローの物語が好きではなかった。



 正義の味方というのは謙虚な存在だ。

 自身が決して正義そのものになれないと知っていながら、それでも、誰かに求められたからではなく――自らの意思と責任でそれを成し遂げる。

 なんて損な性分だろうと思った。


 そして何よりも、作り手だってこんなもの信じてはいないだろうと感じた。

 そんな人間、現実にいるわけがないのだ、と。

 同じ絵空事なら、怪人や怪獣の方がよっぽど好ましいと思った。


――そっか。


 ああ、この人はきっと正義の味方みたいな人なのだ、と。

 納得できてしまう。


「出口だ」


 そう呟いてミツキの手を引く少年の後ろ姿は、なんのコスチュームも着ぐるみも着ていないのにヒーローみたいに見えた。

 関係者用の扉が開く。

 クジャク様が入店してきてから、店内に立ちこめていた異様な雰囲気から解放された気がして、はぁあと息を吐く。


「ホシノさん、自転車はどこに止めた?」

「お店の前の駐輪場です」

「……じゃあ自転車は諦めよう。あいつに見つかる」


 俺のもそこだからダメだな、と呟くイヌイ先輩。

 従業員用の扉はちょうど客用のそれと反対側にあり、駐車場に直通している。来店者用の駐車場はそこそこ広めで、南と西の二箇所、出入り口があるから逃げるならどちら側か選ぶ必要があった。


「二人で別方向にって手もあるけど」

「嫌です」

「だよな」


 苦笑するイヌイ先輩は自分が危ない方を選ぶつもりのようだった。


「……気味が悪いな。空が真っ赤だ」


 空を見上げてそう呟く少年。

 けれど今のミツキにそんな余裕は無くて、またあいつ――クジャク様に見つかったらと思うと気が気ではなかった。

 しかし彼の思考を読んでみると、息が上がっているミツキのために待っていてくれているのだと気づく。

 気が急いてばかりで、足手まといになっている自分が嫌になる。


「行こうか……一〇〇メートル走、得意?」

「あ、あんまり……」


 正直なところ五〇メートル走のタイムが、クラスで一番足が速い子の一〇〇メートル走のタイムと変わらない。

 ミツキは自他共に認める運動音痴だった。


「そっか、俺と一緒だな」


 イヌイ先輩は優しく笑ってバレバレの嘘をつく。


「一、二、三……今だ!」


 少年の合図で走り出す――数秒走って違和感に気づく。

 イヌイ先輩の足音がしないのだ。

 走るペースを緩めて足を止め、後ろを振り返る。

 振り返らなければよかった。

 ミツキは今、駐車場西側の出入り口のあたりにいる。そこからだとよく見えた――見えてしまった。

 従業員の出入り口から伸びた恐ろしく長い二本の腕が、がっちりとイヌイ先輩の両足首を掴んでいるのを。


「……え?」


 何も考えられなかった。

 どうしていいかわからなかった。

 三秒か、五秒か、一〇秒か。

 永劫にも思える時間、ミツキはぼんやりと先輩の足を掴む二本の腕を見つめていたが――何もできず、何も言えなかった。

 先輩はひどく青ざめた顔をしていて、汗をかいていたけれど。

 それでもミツキに檄を飛ばすように口を開いた。



「走るんだ! 振り返るな!!」



 硬直していた肉体が、その声に反応して動き出す。

 緊張で震える足を動かして、ただひたすら道なりに走り続けた。

 夕暮れ時の空よりも赤い、澄み切った青空よりも鮮やかな深紅の空の下。

 イヌイ先輩の心が恐怖に乗り潰されて何も聞こえなくなるのを感じながら――ホシノ・ミツキはイヌイ・リョーマを見捨てて逃げた。









 どれだけ走っただろう。

 自転車もなしにこんなに歩いたのは人生で初めてかもしれない。

 学校の授業で走った長距離走やシャトルランのときよりずっと必死に、肺や筋肉の訴える苦痛を無視して走った。

 もうあのファミレスが見えないぐらい走り続けて――ふらっと身体がよろけたら、もう立て直せなかった。

 身体ごと地面に倒れ込む。

 舗装道路でジーンズがこすられ、パーカーに砂利がつくのがわかった。足が剥き出しの格好だったら膝がすりむけていたはずだ。

 じんじんと痛む掌の感覚に、どうしようもない現実感が戻ってきて、身体を起こす。


「ひっく……な……んでぇ……うぅ……」


 喉から勝手に出る声。

 それが泣き声だと気づいた瞬間、目頭が熱くなって視界がぼやけた。

 ぽろぽろとこぼれる涙。

 自分の心が自分のものではないみたいに、勝手に涙があふれてくる。すすってもすすっても鼻水が出てきて、涙と鼻水で顔中がべたべたになっているのがわかった。


「うぁああ……うぅう……」


 どうして。

 今までずっと泣けなかったのに。

 お母さんが死んでからずっと、涙なんて出なかったのに。


 胸の中がぐちゃぐちゃだった。

 悲しくて痛くて泣いているのか、怖くて苦しくて泣いているのかすらわからなくて。

 なんの関係もなかったあの人を巻き込んでおいて、一人で勝手に悲しくなって泣いている自分はなんなのだろう。

 たぶん彼女は選択を間違えた。

 誰も巻き込まずに死ねるように頑張るべきだった。



 涙でぼやけた視界の中、空を見上げた。



 雲一つない血のように赤い空。

 風に揺れる木の葉の一つなく、凍り付いたように静止した地上。

 奇妙な清潔感すら感じるほど綺麗なのに、廃墟のように無人の街並み。

 そんな景色の中で煌々と輝く黄金の月。



 不気味だった。

 なのに、心が落ち着いていくのがわかった。

 むしろ安らぎすら覚えるほどに、どこか懐かしい風景。



 いつの間にか泣き止んでいた自分を不思議に思いながら、ふと視線を戻すと。

 目の前に誰かが立っていた。


「ひっ!?」


 それはクジャク様ではなかった。

 背丈は一八〇センチぐらいだったし、全身を覆うのは黒と見間違うほど暗い青ダークブルー

 たしかに人型をしているのに、どこか昆虫を思わせる長く細い四肢。

 その頭をすっぽり包む髑髏のように不吉なマスク。

 ミツキはその怪人を知っていた――蜘蛛女から助けられるよりもずっと前、一年以上も昔。

 あの事故の夜に。



――すごい衝撃と大きな音。


――横転して運転席が潰れた相手の車。


――根元からぽっきりと折れた電柱。


――潰れてひしゃげた車体の中。


――ぐったりして動かないお母さん。



 どうして今まで思い出せなかったのだろう。

 夜闇の中、ぼんやりとした意識の中でたしかに目に焼き付けた光景。

 車の側に立ちながら、ミツキも母も見ようともしなかった誰か/何か。



「…………なんで、あなたがここにいるんですか」



 今なら思い出せる。

 お母さんが死んだあの夜。

 たしかにあの場所にいた青ざめた死神の姿を。





「…………スカルマスク!!」





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